旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年08月30日 『有吉佐和子が死去する(1984 昭和59年) 』
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*若き日の華岡青洲は医学を修めるため京に上る。その留守中、婿の顔も知らずに華岡家に嫁いだ加恵は姑・於継(おつぎ)とともに楽しく暮らしながら夫の帰りを待っていた。ついにその日がやって来る。ところが、於継は息子を独占しようとし、加恵とは話もさせない。その晩、加恵は夫とは別の部屋に寝かされる。《夜のしじまの中から、於継の押えた笑い声が、冷たい床の上に正座した加恵の耳まで伝わってきた。子供の帰ったのが嬉しくて抑制がきかなくなっている母親の喜びにはちがいなかったけれども、加恵にはそれがひどく淫りがましいものに聞えた。/加恵の心の中に思いがけず、まったく思いがけない激しさで、於継に対する憎悪が生れたのはこのときである。その理由は、このときの加恵には分らなかった。ただ加恵が新しく発見していたのは、盃事は済ましていても自分がこの家ではまだ他人であるという事実であった。〔‥‥〕夫の母親は、妻には敵であった。独り占めを阻もうとする於継の無意識の行為もまた嫁に対する敵意に他ならなかった》。このあと、さらにすごい描写があるのだが、それは本(『華岡青洲の妻』)を手に取ってお読みいただきたい。今日は1984年に、この本の著者有吉佐和子が53歳の若さで死去した日である。
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- 2016年08月29日 『日本が韓国を植民地化し、国号を「朝鮮」と変えさせる(1910 明治43年)』
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*1910年8月22日、日本はすでに保護国化していた韓国(正式には「大韓帝国」。国土は今の南北朝鮮全土)を威嚇して「韓国併合ニ関スル条約」に調印させた。それが公布・施行された8月29日、韓国は日本の植民地とされたのである。同日、日本の天皇は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今〔じこん。「これからは」の意〕朝鮮ト称ス」という勅令を出し、国号をも消し去った。以後韓国の地は、日本の行政官庁である朝鮮総督府(総督には陸海軍大将が就いた)が支配する日本領朝鮮となり、それが1945年まで続いたのである。誤解のないようにいっておくと、「朝鮮」という言葉が蔑称であったわけではない。「朝が鮮やかな土地」という意味のこの地名は古くから使われており、悪い意味は持たない。しかし「大韓帝国」という国号があるのにあえてそれを廃し、「朝鮮」と改称する行為自体が、韓民族を愚弄するもので不当なのである。仮の話だが、わが日本国が外国に占領され、「今日からこのエリアを『ヤマト』と称する」といわれたら、あなたはどう思うか。「ヤマト(大和)」という言葉に不満はなくとも、「日本国」という名前を否定されたことに怒りを抱くだろう。それと同じである。なお当然のことながら、上に記した条約や勅令は、現在ではともに失効している。
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- 2016年08月28日 『日本テレビが民放初のテレビ放送を始める(1953 昭和28年)』
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*1953年2月1日に開局したNHK東京テレビに続き、同じ年の8月28日には正力松太郎(当時、読売新聞社長)率いる日本テレビが、民間放送初のテレビ局としてスタートした。当日は午前11時20分に放送開始。まず「開所式実況」があり、当時の吉田茂首相のあいさつが放送された。11時50分からは「祝賀舞踊『寿式三番叟』」が流れ、やがて正午が近づく。ここでわが国初のテレビCMが流れ、精工舎〈現セイコーホールディングス〉の時計が時報を告げるはずだった。ところがフィルムが裏返しにセットされていたため、機械がサウンドトラックを読み取ることができず、無音の放送となった(画像は左右が逆になっていたはずである)。これは日本のテレビ史上、最初の放送事故とされる。これに懲りて午後7時の時報は念入りに支度したらしく、ちゃんと放映された。こんなCMである。同様の放送事故は、約2年後の1955年4月1日、TBSテレビの前身であるラジオ東京テレビ(という変な名前だった)の開局当日にも起こった。しかも今度はフィルムを前後逆さにセットしてしまったので、画面の時計の針が逆回りするという事態が生じたのである。もっともこれ、エイプリルフールのいたずらだったのかもしれないが。
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- 2016年08月27日 『映画『男はつらいよ』シリーズ第1作が公開される(1969 昭和44年) 』
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*ご存じ「フーテンの寅」を主人公とする山田洋次原作・脚本・監督(一部を除く)による映画シリーズの第1作『男はつらいよ』が封切られたのは、1969年の今日のことであった。テキヤの寅さん(渥美清)は、東京・葛飾柴又の帝釈天門前の団子屋「とらや」で親戚と同居しているが、ほとんど常に仕事で旅に出ている。旅先で出会った美しい女性やきっぷのいい姐御などに次から次に恋をするが、決して実らず、その都度「反省の日々」を過ごすばかり‥‥。毎回他愛ないストーリーなのに飽きられず、みんなを楽しませたのは渥美の演技力の賜物だが、充実した脇役たちも貢献している。まず「とらや」の家族。寅さんの叔父にあたる気のいい店主・竜造(森川信、松村達雄、下條正巳)、しっかり者の妻つね(三崎千恵子)、異母妹のさくら(倍賞千恵子)、博(前田吟)の夫婦と息子の満男(中村はやと、吉岡秀隆ほか)。店の裏手には博が勤める印刷工場があり、名物「タコ社長」(太宰久雄)がいる。そして帝釈天の「御前様」(笠智衆)と寺男の「源公」(佐藤蛾次郎)。加えて毎回美人女優が寅さんのマドンナ(浅岡ルリ子からかたせ梨乃まで)として登場した。1995年までの27年間に48作(さらに特別編が1作)が製作され、国民的人気映画シリーズとなった。
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- 2016年08月26日 『リンドバーグ夫妻が霞ヶ浦に飛来する(1931 昭和6年) 』
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*アメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグは、日本にも飛んできたことがある。「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名な大西洋単独無着陸飛行は1927年(昭和2年)だったが、その4年後、次の事業として太平洋横断に挑戦したときのことである。とはいっても、ハワイあたりを通って太平洋のど真ん中を飛んだのではなく、北太平洋の航路調査のため、ニューヨークからカナダ、アラスカ、アリューシャン列島を経由して、まず北海道にやってきた。ちょっとした手違いから千島列島の国後島に不時着してから根室に降り立ち、そこから南下して霞ヶ浦に着水したのが8月26日だったから、85年前の今日のことである。搭乗機はパリへ行った「スピリット・オブ・セントルイス」ではなく、「チンミサトーク」と名付けられた水上機だった。そして今回は単独飛行ではなく、やはり飛行家のアン夫人を伴っていた点も違っていた。夫妻はその後、大阪と福岡に立ち寄ったあと、中国まで飛んで太平洋横断飛行を締めくくっている。アン夫人は文筆家でもあり、すぐれた作品を世に残した。特にエッセイ『海からの贈り物』は有名で、女性の読者が多い。高校や大学の英語の教材としても採用されているから、原文で読んだ方もおられるだろう。
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- 2016年08月25日 『世界初のインスタントラーメンが日本で発売される(1958 昭和33年) 』
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*世界初のインスタントラーメンといわれる「チキンラーメン」が日清食品から発売されたのは、東京タワーができたのと同じ1958年のことだった。8月25日に店頭に現れるやいなや、主婦や子どもたちから絶大な支持を受け、たちまちのうちにお茶の間に浸透した。発明した安藤百福(あんどう・ももふく)は、自宅の庭に建てた小屋で日々実験を繰り返し、天ぷらをヒントに即席麺の製法を編み出したとされる。この商品の魅力は何といっても調理の手軽さであった。包装を破って、カリカリに固まった麺を取り出す。今みたいに加薬や粉末スープなどは一切なし。麺だけのオールインワンである。それに熱湯を注いで密閉し、待つこと2分――さあ、もうできあがりだ。子どもたちの中には調理せず、固まった麺の一部を割って、そのまま口に入れる子もいた。好みにもよるが、これがなかなかうまい。現在では、その目的に特化した商品が、子どものおやつやお父さんの酒のサカナとして売られている。それをスーパーなどで見かけると、貧しかったけれど毎日が右肩上がりだったあの時代が思い出されて、なつかしいような切ないような気分になる。なお、即席麺の発明は安藤以前にもなかったわけではなく、商品化もされていた。なぜか売れなかったのである。
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- 2016年08月24日 『溝口健二が死去する(1956 昭和31)』
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*今日が命日の映画監督・溝口健二は1925年、27歳のとき、同棲していた一条百合子という女性にカミソリで切り付けられ、背中を負傷する。女優・浦部粂子(くめこ)の証言によると百合子は《ぽっちゃりとし》たいい女だった。その2年後の1927年8月、溝口はもと大阪・道頓堀のダンサー・田島千恵子と結婚するが、その人について俳優・中野英治は《「リア・デ・プティ(肉体派女優)っていうあれがいたんです、昔の女優が。それに似てました、前髪をたらしましてね、丸顔でね、ぽっちゃりと太って」》と述べている。リア・デ・プティ(Lya De Putti)というのはハンガリー人の女優でこんな感じだ。溝口の女性の好みがだんだん分かってきただろう。溝口はまた、再後期の作品『楊貴妃』(1955)の撮影中、宿泊先で雇った派出婦と関係する。この女性も‥‥《「三十を出たか出ないぐらいの、ちょっと小ぶとりのひとでした」》(映画監督・成沢昌茂の証言)。ここまでの《 》内は新藤兼人の『ある映画監督――溝口健二と日本映画――』(岩波新書)からの引用だが、最後の引用に続けて新藤は《小ぶとりというのは危険だ》と書きつけており、読む者は「監督、気を付けて!」と叫びたくなる。でももう手遅れ‥‥。同書はこんな人間臭いエピソードが満載で読み応えがある。
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- 2016年08月23日 『日本が第1次世界大戦に参戦する(1914 大正3年) 』
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*第1次世界大戦が1914年6月28日の「サラエボ事件」をきっかけに始まったことは、今年同日の本欄で触れた。ただし、全交戦国がいっぺんに戦闘状態に入ったわけではなく、同年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦を布告したのち、双方に味方する国々が参戦し、世界大戦につながったのである。まず30日に、セルビアの後ろ盾であるロシアが軍隊に総動員令を出して参戦に踏みきる。これに対しオーストリア側につくドイツは、8月1日に対ロシア、3日にフランスにそれぞれ宣戦を布告、中立国ベルギーへ侵入を始めた。これに怒ったイギリスは撤退を求めるがドイツが応じないため、4日に対独宣戦布告。これで当時ヨーロッパで覇権を競っていた協商国側(英仏露など)と同盟国側(独墺など)が正面衝突することになった。当時イギリスと同盟関係にあった日本も23日、対独宣戦布告を行なったが、その狙いはドイツが東洋に持つ権益の奪取と、中国に対する発言権の拡大であった。日本は10月14日に赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し(国際連盟の委任統治領として1945年まで管理)、11月7日にはドイツが租借していた中国の青島をも占領した(のち中国に返還)。1917年2月には、イギリスの依頼により艦隊を地中海に派遣し、護衛任務を務めた。このとき戦死した78人の将兵の墓がマルタ共和国にある。
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- 2016年08月22日 『東京の街を初めて路面電車が走る(1903年 明治36年) 』
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*明治の東京では、繁華街を「馬車鉄道」が走っていた。いまの都民には想像もつかないだろうが、道路に2本のレールを敷き、その上を馬車が走るというクラシックな乗り物である。「東京馬車鉄道」という会社を中心に、北は浅草から南は品川まで路線を伸ばしていた。が、20世紀を迎えるようになると、時代は「馬」から「電気」へと、動力の転換を求める。ようやく「電車」の時代がやってきたのである。1900年、東京馬車鉄道は東京電車鉄道と社名を変更、「電車化」を進める。実際に東京の街を最初の路面電車が走ったのは1903年の今日のことで、路線は新橋‐品川八ツ山間であった。「新橋」は現在の汐留シオサイトにあった旧駅、品川八ツ山は現在の品川駅よりちょっと南にあたる。比較的平坦な土地で、電車の運行がそんなに難しいとは思われないのだが、開業当日の運行は失敗の連続であった。まず、運転未熟がある。外国から輸入した電車を運転するのはそれまでの「馭者」には難しく、なかなか進まなかったらしい。また、これはのちの都電でもよく見られたことだが、軌道に石が入って車輪が回らなくなる事態が頻発し、復旧作業に時間がとられた。結局この日は、終点にたどり着くのに1時間30分もかかり、「これじゃあ歩いたほうが早い」と言われたとか。ちなみに運賃は3銭であった。
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- 2016年08月21日 『初の「内国勧業博覧会」が開かれる(1877 明治10年) 』
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*「博覧会」はいいとしても「勧業」というのがいかにも古めかしいなあと、どなたもお思いだろう。それでも大体ご推察いただけるように、「勧業」は「産業を奨励する」の意味で、明治政府のスローガン「殖産興業」と結びついた用語である。明治初期、西洋で行なわれている exposition を日本でもやってみようという意気込みで政府が催したのが、1877年の第1回「内国勧業博覧会」であった。直接の建議者は大久保利通だったといわれる。会期はこの年8月21日から11月30日までの約100日という長丁場。出品されたのは農林産物、工芸品、耕牛馬といった伝統的なものに加え、紡績器具のような近代的な機械にまで多岐にわたった。お上が全国から鉦(かね)や太鼓でかき集めたこともあり、1万6172人の人が8万4353点を出品したというから、その規模たるや人々の想像を絶したことだろう。入場者は45万人に及んだという記録が残っている。この博覧会は翌年以降も4回、東京・京都・大阪で開かれた。なお、「内国(勧業)」ではなく「万国」博覧会が日本で最初に行なわれたのは、1970年(昭和45年)に大阪・千里丘陵で開かれた大阪万博、通称 Expo’70 である。77カ国が参加し、入場者6000万人超を数えたこの博覧会は、昭和元禄の最後を飾る祝典でもあった。
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- 2016年08月20日 『「智恵子抄」が発刊される(1941 昭和16年) 』
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*《智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ》という一節で有名な「あどけない話」を含む高村光太郎の詩集『智恵子抄』は、日米開戦の直前ともいえる1941年8月20日、龍星閣から発行された。いま筆者の手元には、この詩集の戦後最初の版(1947年11月25日、白玉書房刊)がある。内容は初版とほぼ同じだが、巻末の「記」には光太郎名で《〔‥‥〕戦後に出来た智恵子に関する二篇の詩をも追加採録することにした》とある。それは「松庵寺」(昭和20年10月5日作)と「報告」(昭和21年10月5日作)の2つである。前者を引用する。《奥州花巻といふひなびた町の/浄土宗の古刹松庵寺で/秋の村雨ふりしきるあなたの命日に/まことにささやかな法事をしました/花巻の町も戦火をうけて/すつかり焼けた松庵寺は/物置小屋に須弥壇をつくつた/二畳敷の本堂でした/雨がうしろの障子から吹きこみ/和尚さまの衣のすそさへ濡れました/和尚さまは静かな声でしみじみと/型どほりに一枚起請文をよみました/仏を信じて身を投げ出した昔の人の/おそろしい告白の真実が/今の世でも生きてわたくしをうちました/限りなき信によつてわたくしのために/燃えてしまつたあなたの一生の序列を/この松庵寺の物置御堂の仏の前で/又も食ひ入るやうに思ひしらべました》
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- 2016年08月19日 『飛行船「ツェッペリン伯号」が日本に立ち寄る(1929 昭和4年) 』
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*大きな風船で浮き上がり空を飛ぶ「飛行船」は、今では主に広告や観光の目的で使われ、いわゆる実用にはほとんど使われない。しかし前世紀初めごろまでは、飛行機と肩を並べる空の輸送手段であった。その飛行船の技術を領導した人の一人がドイツ人ツェッペリン伯爵(1838-1917)である。軍出身のツェッペリンは1900年、アルミニウムを骨組みに用いた硬式飛行船を初めて建造し、さらに改良を重ねた。その結果、飛行船を用いた航空輸送会社もでき、第1次大戦ではドイツ軍によるイギリス爆撃や偵察に飛行船が活躍するまでになる。ツェッペリンの死後、1928年に建造されたLZ127「ツェッペリン伯号」は全長236mに及ぶ巨大な飛行船で、翌29年、初めての世界一周飛行の途次、わが国にも立ち寄った。同年8月8日、アメリカ・ニュージャージー州を飛び立った「ツェッペリン伯号」は大西洋を越え、ドイツへ。その後シベリアを横断して、8月19日には茨城県霞ケ浦の上空に姿を現した。現地には「ツェッペリン来たる」の知らせを聞いた数十万の人々が押し寄せ、大変な混雑であったという。海軍飛行場に悠々と着陸した「ツェッペリン伯号」は23日離陸して、3日がかりで太平洋を横断、最終的には8月29日、出発地ニュージャージーに無事帰着した。
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- 2016年08月18日 『深沢七郎が死去する(1987 昭和62年) 』
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*1960年(昭和35年)、『中央公論』12月号に掲載された小説『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』が皇室を侮辱していると憤った右翼の少年が、嶋中鵬二・中央公論社長宅に押しかけ、お手伝いの女性を殺害、社長夫人にも重傷を負わせるという事件が起こった。この小説の作者深沢七郎は、このこと一つとっても話題性に富む人だが、まことに面白いパーソナリティーの持ち主である。1956年、42歳で作家デビュー(『楢山節考』)する前は、東京の日劇ミュージックホール(今の有楽町マリオンの所にあった「日本劇場」内の演芸場)に出演するギタリストだった。ギターのリサイタルを長く続け、レコードも吹き込んでおり、『深沢ギター教室 あなたも「禁じられた遊び」が弾ける』という著書もある。51歳になった1965年、「農業がやりたい」と今の埼玉県久喜市に「ラブミー農場」(E・プレスリーの Love Me Tender のもじり)を開き、2人の青年とともに住み込んだ。1981年に『みちのくの人形たち』で谷崎潤一郎賞を贈られたときは、受賞記念パーティーで「『唐獅子牡丹』のやくざ踊り」を踊った。その前年、ある勝手な理由で川端康成文学賞を辞退したのに谷崎賞をもらうのは申し訳ないという気持ちを込めた「お詫びの踊り」だったというが、一緒に踊った嵐山光三郎によると、唐獅子牡丹の刺青は赤瀬川原平がラクダのシャツに描いた。‥‥といった人生を送った深沢は、1987年の今日、73歳であの世に旅立った。
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- 2016年08月17日 『東久邇宮稔彦内閣が発足する(1945 昭和20) 』
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*日本の敗戦を決定づけた鈴木貫太郎内閣が1945年8月15日付けで総辞職したのを受け、同17日に成立したのが東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)内閣である。敗戦処理という難題を解決するにはぜひ皇室の権威が必要だということで、史上初の宮様総理となった東久邇宮という人はどんな人だったのか。明治天皇の第9皇女・聡子(としこ)の夫であり、また昭和天皇の妻・香淳皇后の父の弟でもあるから、昭和天皇にとっては叔父にあたる。わが国の陸軍大学校を出てフランスの軍学校に留学、帰国後、陸軍大将を務めた人だから、皇室のことだけでなく軍事の知識も豊富なはずで、まずは適任だったといえよう。ただしこの宮様の人となりには、いささか癖がある。その一つは、上で述べたフランス留学の経緯である。フランスに渡ったのは22歳の1920年。5年前に結婚したばかりの若妻と2児(出発後3男が誕生)を置いての渡欧だったが、2-3年のはずが、結局7年間もの長期留学となった。しかもこの間、次男が死去したとの知らせに接しても帰国せず、ひたすらヨーロッパの自由な生活を楽しんできたというのだから、ある意味みごとである。新興宗教の教祖になったという「奇行」もある。総理大臣辞任後の1950年、「禅宗ひがしくに教」という教団を興し、話題を呼んだ。
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- 2016年08月16日 『帝国大学に初めて女子が入学する(1913 大正2年) 』
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*戦前の「帝国大学」(今の国立大学の前身だが、内地に7校、台湾など外地に2校しかなかった)に進学できるのは選び抜かれた男子のみであった。だから1913年8月16日に東北帝国大学(現在の東北大学)が女性の入学を許可したのは、驚天動地の大事件だったのである。これは初代総長・沢柳政太郎の英断だったといわれ、今日まで続く同大学の門戸開放スピリットの一端を示す。記念すべき最初の女子学生は、黒田チカ、丹下ムメ、牧田らくの3人(名前の仮名遣いは『官報』1913年8月21日付けによる)。いったいどんな女性だったのか、そして卒業後の人生は?――黒田(1884-1968)は佐賀県で生まれ、東京女子高等師範学校(東京女高師。現・お茶の水女子大)を出て同校助教授を務めたのち、東北帝大理科大学(現在の理学部)化学科に入学した。卒業後は東京女高師の化学教授などを務めた。女性で2番目の理学博士でもある。丹下(1873-1955)は鹿児島県生まれで、日本女子大学校(「女子大」を名乗ってはいても法制上は専門学校であった)家政科を卒業、同校助教授を経て、黒田と同じ化学科に入学している。のち日本女子大の教授として栄養学を講じた。女性2人目の農学博士。牧田(1888-1977)は京都府出身。黒田と同様東京女高師に学び、東北帝大数学科に進んだ。卒業後は黒田と同様、東京女高師の教授として数学を教えたが短期間に終り、洋画家・金山平三夫人として内助の一生を過ごした。
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- 2016年08月15日 『「新体制運動」の中で民政党が解党する(1940 昭和15年) 』
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*1940年の今日は、当時の2大政党の一つ「民政党」が解散した日である。といってもピンとこないが「戦前の日本から政党がすべてなくなってしまった日だ」といえば、その重大性が分かるだろう。なぜそんなことが起こったのか。この年、日本の政界は、近衛文麿(このえ・ふみまろ)公爵を中心とした「新体制運動」一色に染まっていた。この運動は、日中戦争(1937~)の長期化や第2次世界大戦(1939~)の勃発という難局を乗り切るため、ドイツのナチスに範をとった一党独裁の「近衛新党」をつくり、一元的な支配体制を実現して国民の再組織を進めることを目的としていた。今そんな動きがあれば「ファシズムじゃん」と大反対を受けるだろう(たぶん)。だがこの時代は違った。近衛にはカリスマ的な魅力があり、多くの人々がムード的に「近衛新党」に期待を寄せたのである。新党に合流すべく、7月6日に合法左翼の社会大衆党が解党したのに続き、保守派の政友会久原派(7月16日)、同中島派(7月30日)も解党。残る大勢力は民政党だけとなった。その民政党も解党し、有力な政治団体が一つもなくなったのが8月15日だったのである。この間、親英米的な米内光政内閣が倒れ、7月22日にはいよいよ近衛が首相に就任する(第2次近衛内閣)。近衛は新体制準備会をつくって運動を進め、「大政翼賛会」ができあがる。8月15日は「終戦」の記念日だが、その5年前に、それを準備するかのように「無党時代」が現出した記念日でもあるのである。
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- 2016年08月14日 『御前会議でポツダム宣言受諾を最終決定、敗戦が確定する(1945 昭和20年) 』
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*1945年、長崎に原爆が落とされた翌日の8月10日に開かれた御前会議で、日本はポツダム宣言を受諾することを決定する。ただし無条件ではなく、「国体護持」(天皇制の維持)が認められることが条件であった。これを受けた連合国側の回答は、12日午前零時半過ぎにもたらされる。ところが、それが天皇制の問題に直接触れないものであったため、軍は和平を拒否、戦争継続を主張して譲らない。この期に及んで国の針路が定まらないのを憂慮した鈴木貫太郎首相は、再度の御前会議により、天皇の意思という形で和平の方針を押し通す腹を固める。14日午前10時50分、正規の手続きによらず、天皇の「お召し」によって開かれた御前会議が始まった。皇居内の地下会議室に集まったのは、全閣僚と軍首脳ら23名である。意見を求められた天皇は、次のように発言する。《「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、〔‥‥〕この際先方の回答を、そのまま受諾してよろしいと考える。〔‥‥〕この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。〔‥‥〕わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う」》。これによって日本の敗戦が確定した。天皇はさらに、「この際、わたしのできることは何でもする」「わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ」と述べた。それが実現したのが、8月15日正午の「玉音放送」だったのである。以上は、半藤一利『日本のいちばん長い日 決定版』の記述をもとに筆者が再構成した。《 》内は、下村宏・国務大臣がまとめたメモを同書から抜粋したものである。
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- 2016年08月13日 『「ベルリンの壁」の建設が始まる(1961 昭和36年) 』
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*ドイツの首都だったベルリンは、1945年の敗戦の結果、アメリカ・イギリス・フランスと旧ソ連の4国による共同管理の下に置かれた。1948年以降は、ブランデンブルク門を通る線以東の東ベルリンは旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)の首都とされ、以西の西ベルリンは実質上、旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一部となる。当初は西ベルリンと東ベルリンの間との交通は比較的自由で、人々は必要に応じて行き来していた。ところが西ベルリンを通じて西ドイツへ脱出する東ドイツ市民が相次ぎ、東ドイツ経済を脅かしたため1961年、東ドイツは、東ベルリンと西ベルリンの間の交通を完全に遮断する「壁」の建設を始める。建設工事は1961年8月13日の夜明け前に開始されたから、その日の朝目を覚ましたベルリン市民は、未完成ながら、一夜にして出現した「壁」にショックを受けた。当初は有刺鉄線と石の壁による封鎖だったがどんどん増強され、最終的には監視塔と銃座、さらには電流フェンスや地雷まで備えた高いコンクリート製の障壁となった。東西ベルリンの境界45kmはもちろん、西ベルリンと東ドイツの境界100km以上にも建設されたこの「ベルリンの壁」は、東欧革命のさ中の1989年11月9日に機能を失うまで、28年間にわたって人々の自由な行き来を阻害し続けたのであった。
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- 2016年08月12日 『日航ジャンボ機墜落事故が起きる(1985 昭和60年) 』
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*お盆で帰省する家族客など524人(乗員を含む)を乗せた日本航空のジャンボジェット機は、1985年8月12日午後6時、大阪に向けて羽田空港を離陸した。当初飛行は順調だったが、離陸12分後、静岡県沖を航行中に油圧系統に重大な故障が発生し、操縦不能に陥ってしまう。のちの調査で、機体後部の圧力隔壁に欠陥があり、客室内の加圧された空気が隔壁を突き破って噴出したため垂直尾翼が吹き飛び、それがもとになって油圧装置が完全に機能を喪失したためであることが判明した。機は上下動を繰り返しながら迷走し、海上から内陸に入って富士山東麓を経、関東地方西部の山地に向かう。約30分後の6時56分、群馬県南西端に近い上野村・御巣鷹(おすたか)の尾根付近に墜落、炎上した。墜落現場が険しい山中で、救援隊の到着が遅れたこともあり、乗客509人のうち505人が死亡、乗員15人と合わせて520人が犠牲となった。この死者数は、単独機の事故としては史上最多である。死亡した乗客の中には歌手・坂本九もいた。一方、奇跡的に生き残った4名は、8歳から34歳までのいずれも女性であった。墜落現場となった御巣鷹の尾根は現在、慰霊地として整備されており、毎年8月12日には遺族らによる「慰霊登山」が行なわれている。また、ふもとの集落では灯篭流しが行なわれる。
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- 2016年08月11日 『「前畑ガンバレ」の放送が行なわれる(1936 昭和11年)』
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*9日に続いて今日も競泳の話題である。ヒトラーのオリンピックと呼ばれることもあるベルリンオリンピックで、日本の女子選手が初の金メダルを獲得した。その人の名は前畑秀子(のち兵頭と改姓)。そして今日8月11日は、彼女が競泳の女子200メートル平泳ぎで優勝した日である。まだテレビのない時代なので、日本の家庭ではラジオの実況中継に耳をすませ、競技の行方を追った。日本放送協会(のちのNHK)の河西三省アナウンサーは最初のうちは前畑を「前畑嬢」と呼び、比較的冷静に実況を伝えていたが、1位に躍り出た前畑を地元ドイツの強豪ゲネンゲル(M. Genenger)が追うデッドヒートとなると興奮し、「前畑ガンバレ」と声援を送り始める。最後の50メートルでは、「前畑ガンバレ」と「前畑リード」の連呼ばかりとなる。前畑がゲネンゲルに0.6秒の差をつけてゴールインすると、今度は「前畑勝った」「勝った、勝った」の絶叫となった。これはもう実況中継ではなく感情むき出しの「応援中継」である。現在のアナウンスの常識に照らせば外道であり、落第の出来であろう。だが、国威のかかったこの一戦で前畑をぜひ勝たせたいと願っていた当時の日本人のセンチメントにぴったり合致していたという意味では、名アナウンスだったといえる。その放送の録音が入った映像はこちらで(最後の表彰場面でゲネンゲルがナチス式の敬礼をしているのにも注目)。