旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年03月20日 『「東京大正博覧会」が開幕する(1914 大正3年)』
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*明治から大正への改元を記念した「東京大正博覧会」が東京・上野公園で始まったのは、1914年の今日のことだった。7月31日までの会期中に、およそ746万人が訪れたというから、当時としては超大規模なイベントであったといえるだろう。この博覧会は、日本初のエスカレーターがお目見えしたり、「ダットサン」の元祖となった純国産自動車「脱兎号」が出品されたりしたことで歴史に残る。ところで博覧会が始まった3月、東京・本郷で、大規模な洋式ホテルが営業を始めた。経営者は、明治中期に岐阜県大垣から上京した羽根田幸之助という人物で、以前から同地で下宿屋を営んでいた。進取の気性に富む羽根田は、博覧会にやってくる海外からの観光客をあてこんで本格的なホテルを新築、「菊富士ホテル」と名付ける。この商法は当たり、外国人客が大勢宿泊して盛況であった。ところがこのホテル、その後はどうしたわけか羽根田が意図したのとは違った形で成長していくことになる。1916年に大杉栄と伊藤野枝の2人が居付いたのを始めとして、宇野浩二、広津和郎、宇野千代、竹久夢二といった文学者や画家などが長期滞在し、仕事場兼交流の場として利用されるようになったのである。1945年3月10日の東京大空襲で焼失するまで、菊富士ホテルは一癖も二癖もある社会主義者や文化人の巣窟として異彩を放った。その場所は、現在の文京区本郷5丁目、昔は菊坂町といった町の高台である。今そこを訪れると、宿泊者の氏名を記した「本郷菊富士ホテルの跡」の石碑がたっており、往時をしのぶことができる。このホテルを舞台にした小説には、近藤富枝の『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)、瀬戸内晴美(寂聴)の『鬼の栖(すみか)』(角川文庫)などがある。
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- 2016年03月18日 『博物館明治村が開場する(1965 昭和40年)』
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*愛知県犬山市にある野外の大型展示施設は?といえば「あっ、明治村だ」と、行ったことのない人でも答えられるほど有名な「博物館明治村」。その開場は1965年の今日のことだった。ここには、東京にあったクラシックな建築物も多く移築され、保存されているが、今回は二つだけ紹介しよう。まず、もとの帝国ホテル中央玄関。1923年(大正12年)に落成した帝国ホテル旧本館は、関東大震災でも壊れず、東京大空襲をも生き抜いたが、1968年、惜しまれつつ解体された。明治村にあるのはその一部である。これが残っているのはうれしいが、今でも元の場所にあったらもっとよかったのに、と思わずにはいられない。二つ目は、石川啄木一家が下宿した「喜之床」。東京朝日新聞社に勤めていた啄木が1909年(明治42年)、妻と母、長女とともに2階を借りて住んだ理髪店の建物である。もとは東大に近い文京区本郷2丁目にあったが、道路の拡幅に伴い解体され1980年、ここに移築された。現存する啄木旧居の一つとして貴重である。なお、理髪店そのものは今でも同じ場所で続いていて、啄木に間貸しした新井喜之助氏の子孫である光雄氏が、秋田美人の奥さんとともに家業に励んでいる(現在の屋号は「理容アライ」)。
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- 2016年03月17日 『三木武夫が生まれる(1907 明治40年)』
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*1974年(昭和49年)12月から76年12月まで内閣総理大臣を務めた三木武夫は、1907年の今日、今の徳島県阿波市に生まれた。明治大学を出てすぐに衆議院議員に当選し、連続51年間議員を務めたことで知られるが、初当選した1937年はもう30歳になる年である。この年で大学を卒業とはいかにも遅いが、何をしていたのだろう。旧制商業学校や明大の専門部(戦前、学部とは別に置かれた専門学校レベルの教育組織)を経て法学部に入ったことで多少寄り道はしているが、卒業が遅れた最も大きな理由は、法学部に入ってから、まず1年数か月間「遊説」を兼ねて欧米を視察し、帰ってからまたアメリカに渡って4年間、働きながら大学に通ったためである。つまり三木は、大学生活の半分以上をアメリカを中心とする外国で過ごしていたのである。三木の英語力が並々ならぬものであったことは、首相時代のブレーンの一人で同時通訳者の故國広正雄(元参議院議員)が語る次のエピソードでもわかる。「三木さんに初めて呼ばれた時、『先生の党には投票したことがありませんが、かまいませんか』と尋ねたら、英語で『Vote one’s conscience.(自分の良心に従って投票すべし)』と答えが返ってきた」。英語の達人といわれた國広も「これにはびっくり」したそうだ(『朝日新聞』2015年2月14日夕刊「惜別」)。
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- 2016年03月16日 『福沢諭吉の「脱亜論」が発表される(1885 明治18年)』
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*1885年3月16日付けの新聞『時事新報』は1面に、「脱亜論」と題する論説を掲げた。《世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し〔次第に東洋に及び〕、至る処、草も木も此風に靡〔なび〕かざるはなし》(以下、旧漢字カタカナ文を現代風の新漢字ひらがな文に改めて示す。〔 〕内は本コラムによる注や補い)で始まるこの論説は、無署名ながら、福沢諭吉が執筆したとされる。論説は続けて、日本が西洋文明を採り入れて新たな国づくりをしようと決断し実行したことを取り上げ、それを《独り日本の旧套〔昔ながらの慣習〕を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新〔あらた〕に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字にあるのみなり》と評価する。そして次のように続ける――このように日本国民の精神はアジアの固陋を脱して西洋文明に移っているのに、隣国であるシナ(中国)と朝鮮の人々は、不幸にもいまだに旧慣を脱することができない。両国はこのままでは亡国となるであろう。我々日本人は、西洋人からそのような国民と同列に扱われたくない。彼らの開明を待ってともにアジアを興す猶予はもはやない。《悪友を親しむ者は共に悪友を免かるべからず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり》――これが「脱亜論」の結語である。自由民権運動には終始批判的で、晩年は国権伸張論に傾いた福沢の一側面をここに見ることができる。
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- 2016年03月15日 『「民主自由党」が結成される(1948 昭和23年)』
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*一度は政権を握ったものの国民の信を失って下野した民主党と、内紛続きの維新の党――その二つが一緒になってつくる政党の名が「民進党」と決まった。与党・自民党の面々は「選挙目当ての野合だ」と批判、ことに高村副総裁作の皮肉な川柳はなかなか気が利いている。だがそういう自民党だって、1955年(昭和30年)に「自由党」と「日本民主党」が合同したとき、両党の名前をミックスして「自由民主党」としただけのこと。さらに歴史をひもとくと、「自由」と「民主」をひっくり返した「民主自由党(民自党)」というウソみたいな名前の政党もあったのである。その党ができたのが、今から68年前の1948年3月15日。当時は民主・社会・国民協同の3党連立による芦田均内閣の時代だった。吉田茂らの日本自由党と、幣原喜重郎らの民主クラブという野党勢力が合流し、新党「民主自由党」を結成したのである。芦田政権が10月に倒れると、総裁の吉田が国会で首班に指名されたので民自党は政権党となり、第2次吉田内閣が成立する。同党はこの時点では少数党だったが、翌49年1月の衆議院総選挙で264人が当選、絶対多数を獲得して盤石の政権基盤を確立することになる(第3次吉田内閣)。さらに50年に民主党連立派を吸収して改称したのが上記の「自由党」なのであった。……以上、「民自党」などという、今では小説にしか出てこないような名前の政党がれっきとした政権党だったというお話。それだけ政界の離合集散が激しいということか。
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- 2016年03月14日 『「根岸短歌会」が発足する(1899 明治32年)』
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*短歌革新ののろしともいわれる正岡子規の「歌よみに与ふる書」が新聞『日本』に載ったのは1898年(明治31年)2月のことであった。だがこの論文の書き手は「竹の里人」としか名乗っていなかったから、その正体はにわかには分からなかった。翌1899年の正月、それが子規のことだと知った学生・岡三郎(のちの歌人・岡麓)は、友人の香取秀次郎(のちの彫金工芸家・香取秀真)とともに東京・根岸に子規を訪ねる。子規はすでに病身だったが、《きれいに片附けた病室で、寝たまま二人に会い、前に山本鹿洲が置いて行った香取や岡たちの作品を親切に批評した。やがて子規から3月14日に歌会をするから参加しないか、という手紙が来て香取と岡と山本が出かけた。4月18日にまた歌会があり,その時は五百木瓢亭や、高浜虚子も参加した。その後毎月1回、子規の家で歌会が催され、俳句を作る人々とは別に歌の会が子規のまわりに成立した。そしてこの会は根岸短歌会と名付けられた》。以上の《 》内は伊藤整『日本文壇史5 詩人と革命家たち』(講談社文芸文庫)からの引用だが、根岸短歌会がもっと早く始まったとする見方もある。
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- 2016年03月12日 『明治政府が「半ドン」の制を定める(1876 明治9年)』
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*「半ドン」という言葉は、1980年代ごろまでは聞くことができたが、今や死語と化している。年寄り臭い言葉に「老人語」というレッテルを無慈悲に貼り付けることで知られる『新明解国語辞典』は、初版(1972年)から第4版(1992年)までずっと、この語の第2の意味として《「土曜日」の老人語》(第1の意味は《半休の日》)を掲げていた。ところが第5版(1998年)以降は語釈を改め、《〔半日だけドンタク〖=休日〗の意〕制度として、午後は勤務の無い日。〔狭義では、土曜日を指した〕》としている。「半ドン」が元気を取り戻し、老人語でなくなったようにも見えるが、そうではない。「土曜日を指した」という過去形によって、老人語としても死滅したと認定しているのである。語釈の前振りでも分かるように、「半ドン」の「ドン」は、「休日」「日曜日」を表わす外来語「ドンタク」(オランダ語 zontag から)に由来している。「半ドン」という語ができた背景には、明治政府が1876年3月12日に出したお触れ(太政官達)があった。国の役所を、日曜日は全休、土曜日は半休と定め、4月1日から実施したのである。それまでは「一六休暇」といって、毎月1日、6日、11日、16日‥‥と「一」と「六」のつく日が休日だった。「半ドン」の制は以後およそ100年も続いたから、ずいぶん長寿だったことになる。だが20世紀後半、「働きすぎの日本人」という国際的批判もあり、労働時間短縮が進んだ結果、1989年の1月から官公庁が土曜閉庁に踏み切り、翌2月からは銀行も足並みをそろえたことで、「半ドン」の死滅は決定的になった。
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- 2016年03月11日 『国木田独歩の「武蔵野」が発刊される(1901 明治34年)』
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*《今より三年前の夏のことであつた。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境〔現JR中央線武蔵境駅〕まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五町ゆくと桜橋といふ小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この掛茶屋の婆さんが自分に向て、「今時分、何しにきただア」と問ふた事があつた》。「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると「婆さん」は「桜は春咲くことを知(しら)ねえだね」「東京の人は呑気だ」と馬鹿にする。――1901年の今日、発刊された国木田独歩の『武蔵野』に収められた同名の短編の一節である。半世紀後の1950年ごろ、詩人で評論家の野田宇太郎はその桜橋を訪ね、こう書いた。《変っているのは駅前の通りが町らしく賑やかになっていることと、昔は木橋であった桜橋が昭和六年一月に改修されて石橋に架け変えられていることである。勿論それを渡っても一軒の茶屋があるわけではなく、それと覚しいあたりは立派な住宅地で、昔の茶屋は今は橋の手前の右側に移って農家となっている》(『新東京文学散歩 漱石・一葉・荷風など』講談社文芸文庫)。現在ではその「農家」も消え失せている。しかし桜橋は健在だ。1999年に再度改修されたものの、親柱はそのままだし、欄干には独歩の足跡を示す案内板がはめ込まれた。たもとには上の文章を刻んだ独歩文学碑もでき、ちょっとした名所になっている。
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- 2016年03月10日 『東京大空襲で永井荷風の「偏奇館」が焼亡する(1945 昭和20年)』
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*1945年3月9日夜半から10日の未明にかけ、米軍の大型爆撃機およそ300機が東京の街に襲いかかった。世にいう「東京大空襲」である。下町を中心に23万戸が焼失し、死傷者12万を数えた。作家・永井荷風の住む麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)の偏奇館(へんきかん)も焼けた。荷風は、《〔9日〕天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す》で始まる有名な一節を、日記『断腸亭日乗』に書き記している。一度は家を出て逃げ始めたものの、自宅が焼け落ちるようすをこの目で見届けようと思い直した荷風は、近くまで戻って路上に立ちつくす。《余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎〻として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり》という記述は、感情表現を抑えているがゆえに、かえって凄絶である。「偏奇館」の名は、荷風宅がペンキ塗りの洋館であったことから「ペンキ」をもじって「偏奇」としたもの。
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- 2016年03月09日 『都庁新庁舎の落成式が行なわれる(1991 平成3年)』
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*いま新宿の観光名所になっている東京都庁舎が完成し、落成式が行なわれたのは1991年3月9日。それ以前の都庁は長いこと、千代田区の有楽町にあった。東京都制が敷かれた1943年(昭和18年)からでも約50年間、その前の「東京府」の時代から数えれば100年近く、東京の政治の中心は有楽町だったのである。JR有楽町駅からほど近いところにあった旧都庁舎を覚えている方も多いだろう。筆者もその一人で、玄関横で遠くをにらんでいた太田道灌のブロンズ像が印象深い。都庁が新宿に移って以来、あの像はどこへ行ったのか気になり、都庁へ行くたびにあちこち探していたのだが見つからない。ところが最近知人に「有楽町に残ってるよ」と教えられて驚き、早速現地に行ってみた。旧都庁跡地にできた東京国際フォーラムのガラス棟(ホールE入口)に、道灌像は今でもしっかり立ち続けているのを確認してうれしかった。説明を読んで、朝倉文夫作のこの像は2代目で、初代は第2次大戦中に供出され弾丸か何かにされてしまったという悲しい歴史を知った。
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- 2016年03月08日 『ニコライ堂の開堂式が行なわれる(1891 明治24年)』
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*東京・お茶ノ水駅で下車し、聖橋口を出て南へ坂を下ると、緑色のドームを載せた大きな教会堂が目に入る。東方正教会に属する日本ハリストス正教会の東京復活大聖堂、通称「ニコライ堂」である。南の九州から布教が始まったカトリック教会とは正反対に、ロシアから伝わったハリストス正教会は、北海道・函館を起点に、宣教師ニコライ(のち大主教。聖人)がほぼ独力で教えを広め、ついに日本教会の本山をこの地に定めた。そのためこの聖堂は、だれいうともなく「ニコライ堂」と呼ばれるようになったのである(なお「ハリストス」はギリシャ語で「キリスト」のこと)。この大聖堂が完成したのは1891年。その年3月8日に開堂式(「成聖(せいせい)式」と呼ぶ)が執り行なわれた。駿河台の斜面にそびえるニコライ堂は当時としては驚くべき高層建築で、市井の人々はその威容に度肝を抜かれたという。しかもそれが北の大国ロシア渡来の宗教施設だというので、「皇居を見下ろすとは不敬だ」と、建設に反対する群衆が押しかけたこともあった。当時帝国大学(今の東大)で教えていた医学者・ベルツの日記(岩波文庫)を読むと、ベルツがニコライ堂を「ロシアの日本侵略の足がかり」と捉えていたことがうかがえる。ドイツ人ベルツのロシアに対する本能的な恐怖や対抗意識が感じ取れるが、13年後の1904年には日露開戦となるのだから、あながち間違った見方ではなかったといえよう。
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- 2016年03月07日 『安部公房が生まれる(1924 大正13年)』
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*安部公房(こうぼう)は戦後日本文学に特異な光芒を放った、などというと駄洒落になってしまうが、この人によって日本文学がぐっと幅を広げられたことは、だれも否定できないだろう。安部は1924年の今日、今の東京都北区で生まれている。父親の仕事の関係で少年時代を旧満州国という外地で過ごし、西洋の文学や哲学に造詣が深かったことが、あの前衛的で超現実的な作品世界をつくり出す素地になったと、しばしば指摘される。国字問題については、次のような発言を残している。《ぼくはべつに国語ローマ字化論者ではない。表音化の方向だけが、絶対的なものだという、確信があるわけではない。しかし「新かな使い」は便利だし、まだ一度も不都合を感じたことはないのである。作家の中には「新かな使い」と「当用漢字」のせいで、微妙な表現上のニュアンスが失われたと嘆いたりしているものもいるようだが、そんなニュアンスは、文学の本質とはなんの関係もないものだと、ぼくは考えている》(「文字表音化への私見」『国語改革論争』くろしお出版)。ノーベル文学賞の候補にもあげられたという安部だが、1993年1月22日に68歳で亡くなったため、受賞は実現しなかった。
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- 2016年03月05日 『無着成恭編『山びこ学校』が発刊される(1951 昭和26年)』
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*民放ラジオで40年以上続いた番組に『全国こども電話相談室』がある。子どもたちから電話で寄せられる質問に、毎週3人ほどの「先生」が巧みに回答するという趣向の内容だったが、名物回答者の一人に無着成恭(むちゃく・せいきょう)という変わった名前の男がいた。東北なまりのズーズー弁で、どんな質問にもていねいに、分かりやすく、時に爆笑をさそうようなユーモアをもって回答する姿勢が、聴取者の人気を博したものである。筆者もよく聴いていたが、いつも「明星学園の無着成恭先生です」と紹介されるこの人物が、敗戦直後、『山びこ学校』という優れた子どもの詩・作文集を編んだ教師であることは、だいぶ後になってから知った。山形県山間部の旧山元村にあった小さな中学校(廃校)で、43人の生徒たちを担任した20代の青年教師・無着は、敗戦後の混乱した社会の中で子どもたちをどう教育したらいいか悩んだ末、戦前日本の教育遺産であった生活綴方(つづりかた)を現代に再生させる道を選び取る。それは、作文を書くために、調べ、考え、討論する中から、子どもたちが力を合わせ、自力で成長していくことをめざす営みだった。クラス全員の作品を収録した『山びこ学校』は、1951年3月5日付けで青銅社という小さな出版社から発行され、ベストセラーとなる。その後、百合出版に受け継がれ、一時角川文庫にも収録されたが、現在では岩波文庫で読むことができる(1995年刊。2011年までに19刷)。ところで、寺の息子に生まれ、自身も僧侶である無着は「岩波文庫版あとがき」で、子ども時代、「わたしたちは天皇陛下の赤子(せきし)です」と学校で習い、それを住職である父にいうと、「いや、ほとけさまの子だ」と反論されるといった「家庭の仏教主義教育のようなもの」の影響下にあったため、敗戦後の虚脱状態から早く脱出することができた、と書いている。この挿話は意外に重要ではないだろうか。『山びこ学校』の土台には、仏教精神が埋め込まれていたのである。
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- 2016年03月04日 『宮武外骨が「頓智研法発布式之図」で明治憲法を批判する(1889 明治22年)』
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*「頓智研法発布式之図」は「とんちけんぽう はっぷしきのず」と読む。この年の大日本帝国憲法(明治憲法)発布のようすを戯画的に描いたこんな政治漫画である(安達吟光画)。普通、憲法発布式典はこんな風に荘厳に描かれる。ところがこの漫画では、憲法を臣下に下げ与える明治天皇を骸骨に見立て、権力者から与えられる憲法なんてありがたくもなんともない、第一、天皇などというものの存在自体がうさん臭い、という強烈な反権力思想を表明している。この漫画を発表したのは、宮武外骨(みやたけ・がいこつ)という不穏な名前を持つ若者(当時22歳)。発表場所は、彼が主宰する『頓智協会雑誌』第28号(1889年3月4日発行)であった。憲法のパロディー「大日本頓知憲法」と、憲法発布の勅語を茶化した「研法発布囈語」(「囈語」は「げいご」と読み、寝言のこと)も同時に発表するという念の入れ方である。この時代、この時期にこんなことをして、ただで済むはずがない。さっそく拘引された外骨は、長い裁判で禁錮3年を言い渡され、監獄にぶち込まれる。……宮武外骨とはいかなる人物か、そして「外骨」は筆名か実名か。興味を持たれた方は、ネット上で自由に検索してみていただきたい。本もいろいろ出ているから、書店や図書館のサイトも調べてみることをお勧めする。驚くべき活躍のほどが知られ、「外骨ワールド」に引き込まれるに違いない。
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- 2016年03月03日 『軽乗用車「スバル360」が発表される(1858 昭和33年)』
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*「てんとう虫」の愛称で親しまれた富士重工業の「スバル360」は、1958年の今日、報道陣に発表された。1970年までに40万台近くが製造され、日本の国民車として不動の地位を占めた軽乗用車の誕生である。「360」というのは当時の軽自動車の最大排気量360ccを意味する(現在は660cc)。この車は筆者にとって最初の「マイカー」であった。購入したのは、1971年(昭和46年)。すでに製造は終了していたから、中古車として買い求めたのである。当時、中古車店にはまだ大量のスバル360の在庫があったから、自分に合った1台を選ぶことができたのは幸せだった。乗ってみて、室内の狭さ(4人乗りを標ぼうしていたが、今日的には「2人乗り、後部スペース付き」というべき)と、ダッシュボードの簡素さ(単なる金属板で、のぞき込むと裏の電線類が全部見えた)にまず驚いた。左右に1対しかないドアは、普通の車と反対の前開き(蝶番が後ろ側にある)なので、もし走行中に開いたら、風を含んでちぎれてしまうのではないかと恐れた。ハンドルも、ペダルも、ミラーも、どれもこれもが小さく、細く、きゃしゃにできている。「これで大丈夫かな」――それが正直な印象だった。が、いざ道に乗り出してみると、意外なことに走行性能がよく、軽いフットワークを見せたのはさすがだった。構造的にバランスが取れていたからなのだろうか。筆者に初めてドライブの楽しさを教えてくれたこのスバル360は、数年後に老衰で引退を余儀なくされたが、これまでに乗った8台の車の中で、一番思い出のある車である。
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- 2016年03月02日 『「北海道旧土人保護法」が公布される(1899 明治32年)』
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*「旧土人」とは何か。かつてわが国が、アイヌ民族に対する公的な呼称として用いた用語である。同じ日本国民なのに「旧土人」はないだろうとだれしも思うが、それは現代の感覚。明治時代の日本人、特に権力者は、この呼称に何の抵抗も感じなかったのであろう。1899年のきょう公布された「北海道旧土人保護法」は、その「旧土人」たちを「保護」するために、土地を与えたり小学校を設立したりすることを盛り込んだ法律だったが、実効はあがらず、アイヌ民族に対する差別と彼らの窮乏は変わらなかった。そんな法律は昭和の初めごろまでには廃止されたのだろうと思ったら大間違い。何と1997年(平成9年)まで約100年間、存続した。この年、新たに制定されたのが現行の「アイヌ文化振興法」である。この法律は、日本国が初めてアイヌを固有の民族として認めたという意味では画期的であったが、ではアイヌ民族に対する政府の施策が抜本的に改まったかというと、答えはノーである。『週刊金曜日』2014年6月27日号によると、北海道大学などが1930年代を中心に研究の目的で北海道内外のアイヌ墓地から持ち去った大量の人骨と副葬品が、いまだに返還されていない。政府は同年6月13日、「個人が特定されたアイヌ遺骨等の返還手続きに関するガイドライン」を含む「アイヌ文化の復興等を促進するための『民族共生の象徴となる空間』の整備及び管理運営に関する基本方針」を閣議決定したが、全国12大学にまだ1600体以上の遺骨が残っているにもかかわらず、今回の返還対象はわずか23体分にとどまる。これでは「民族共生の象徴」どころか「民族差別の象徴」であるといわれてもいたしかたないであろう。
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- 2016年03月01日 『旧制一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」が発表される(1902 明治35年)』
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*旧制高校に興味を持つ人なら、第一高等学校(略称「一高」。東大教養学部の前身)の寮歌「嗚呼玉杯(ああぎょくはい)に花うけて」を知っているだろう。数年前まで毎年開かれていた「日本寮歌祭」では定番の出し物であった。この歌は、1902年の3月1日に、今の東大農学部(文京区弥生)の所にあった一高で、学生たちが開いた寮の「紀念祭」(「記念祭」とも)の場で発表されたものである。「紀念祭」は1891年(明治24年)以来毎年開かれ、1949年(昭和24年)まで続いた恒例の行事で、今の東大駒場祭の源をなす。学生寮の各部屋が飾り付けられ、さまざまな催しもあったので一般市民も多く参加した。寮歌は、この祭のために各寮がほぼ毎年競って制作して披露した。「嗚呼玉杯に……」は東寮の歌として作られたが、出来がよかったので、一高・東大を代表する歌として長く歌い継がれた。作詞したのは矢野勘治という学生である(作曲は楠正一)。「治安の夢に耽(ふけ)りたる/栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て」という歌詞には、当時の一高生のエリート意識が強く現れている。こちらのサイトでは、全員音大出身のコーラスグループ・フォレスタが歌う「嗚呼玉杯に……」を聴くことができる。
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- 2016年02月29日 『閏日(うるうび)』
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*4年に一度の2月29日、「閏日」である。「うるう」と読むこの「閏」という字、見たことがあるようでないような微妙な文字という感じがしないだろうか。「問」や「間」、「聞」などと同じ仲間の文字なのだろうが、どうして「門」と「王」で「うるう」になるのか。実は「王」は「玉」で財貨を表わし、門の中に財貨があふれて家がうるおう、という意味から「うるう」(「うるおう」の古い形)と読まれるようになったらしい(『新漢語林』)。そういえば、この字にサンズイを付けた「潤」なら、素直に「うるおう」と読める。暦の用語として使われる「うるう」も、2月が普段より1日長くなって「うるおう」ことから名付けられたのだろう。そう考えると、今日1日は神様からの特別プレゼントとして大事に使わなきゃ、という自覚もわいてくるというもの。ところで、閏日生まれの人は誕生日が4年に1回しかめぐってこないから、いつまでも若くいられる、という俗説がよく聞かれる。実際にはそんなことはなく、人が年を取るのは誕生日の前日が終わった瞬間と法律で定められているから、閏日生まれの人も、毎年2月28日の午後12時ちょうどに、つつがなく年齢を重ねているのである。第一、本当に4年に一度しか年を取らなかったらどうなるか想像してみよう。その人が成人するのは、同じ年生まれの人たちが80歳になった時だから、ほぼ一生が未成年。「6歳」で小学校1年生になるまで24年かかり、「15歳」で中学を卒業するまでに60年を費やす人生なんて、つらいではないか。
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- 2016年02月28日 『坪内逍遥が死去する(1935 昭和10年)』
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*全18巻に及ぶ伊藤整の『日本文壇史』の第2巻「新文学の創始者たち」(講談社文芸文庫)は、1886年(明治19年)初め、23歳の長谷川辰之助(後の二葉亭四迷)が、不審紙をいっぱい貼った『小説神髄』をたずさえて、東京・本郷真砂町に住む坪内雄蔵(逍遥)を初めて訪ね、文学論について教えを乞う場面から始まる。《長谷川辰之助は身体が大きく、顔がいかつく、その声はサビのある深い声であったから、年よりもふけて見え、その態度は叮嚀で慎重であった》。この1886年は、坪内(28歳)にとって、同棲していた元根津遊郭の娼妓セン子と正式に結婚した年でもあった。長谷川は坪内の指導のもと、翌87年、言文一致小説の名作といわれる『浮雲』の第1篇を刊行する。このころ、坪内家には書生が7、8人も同居していた。最年少で12歳の長谷川万次郎が先輩書生たちの噂を聞いて一緒に先生の部屋をのぞくと、《二十歳位の美しい女が坪内と話をしてい》て胸をときめかせる。「女」は後の作家・田辺龍子(三宅花圃)で、やはり坪内に文学の指導を受けていたのであった。のぞき見をした長谷川少年は、長じて評論家・長谷川如是閑(にょぜかん)となる……。そんな坪内家にタイムスリップしたらどんなに面白いだろうと思うが、それはかなわない。しかし、旧居跡へ行ってみることならできる。本郷4丁目「炭団坂(たどんざか)」の上がそれで、現地には文京区教育委員会の立てた案内板がある。坪内はシェークスピアの全訳などで日本の文学と演劇に巨大な足跡を残し、1935年2月28日、その一生を終えた。77歳であった(以上年齢はすべて数え年)。最晩年を過ごした熱海の「双柿舎」は今も残り、一般公開されている。
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- 2016年02月26日 『フォルクスワーゲンの工場が初めて建設される(1936 昭和11年)』
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*ドイツの自動車(会社)につけられた「フォルクスワーゲン(Volkswagen。以下VWと略す)」という名は、「国民車」という意味である。これを「フォード」とか「クライスラー」「トヨタ」といった名前と比べると、「国」の臭いが強い特異な命名であることに気付く。それもそのはず、かつてのVWはナチス・ドイツの国策企業だったのである。ドイツ国民に自家用車を普及させようと考えたヒトラーは、1936年の2月26日、ドイツ東部にVW製造のための最初の工場を建設した。翌年には「ドイツ国民車準備会社」が設立され、これが現在のVW社の基となった。このように、民生用の自動車会社として出発したVW社だが、第2次世界大戦中は軍需企業として活動し、軍用車両を大量に製造した。いま,VW社製の車には、VとWを縦に並べて丸で囲ったシンプルなロゴがついているが、戦争中は、丸の部分がギザギザの歯車であり、それは「ドイツ労働戦線」(ナチス流の労働者組織)のデザインと同じだった……。その辺の歴史やエピソードに興味のある方は、英文だが、こちらのサイトを訪れてみるとよい。一番下近くまでスクロールしていくと、上述した歯車付きのVWロゴの写真が見られる。その少し上の「More information on the VW LOGO」からリンク先に移ると、VWのロゴとハーケンクロイツ(ナチスのカギ十字)との類似性を指摘した極めて興味ある見解が披歴されている。ただし、その真偽は不明である。(村上明子執筆)