旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年05月02日 『「我楽多文庫」が創刊される(1885 明治18年) 』
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*「がらくた・ぶんこ」なんて、子どものおもちゃ箱みたいな名前だが、これは明治期の文学結社・硯友社(けんゆうしゃ)の機関誌ともいえる雑誌である。まだ学生(東京大学予備門)だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案らが創刊した。第1号は1885年の今日の日付けで発行されている。第8号(86年5月)までは筆写による回覧雑誌だったが、紅葉と美妙のそれぞれ処女作『江嶋土産滑稽貝屏風』と『竪琴双紙』が発表されるなど、記念碑的な内容が盛られている。第9号(同年11月)からは活版の非売本となり、これが第16号(88年2月)まで続く。同年5月からは公売本になり、改めて第1号として発行、89年2月までに16号を出した。第17号(同年3月)からは『文庫』と改題し、硯友社に代わって吉岡書籍店が発売元になったが1889年10月、第27号を出したところで終刊となった。『我楽多文庫』は近代文学最初の文芸雑誌であり、また同人雑誌第1号として歴史に残る。主要な執筆者としては、上記3人のほか、川上眉山、巌谷小波、広津柳浪、泉鏡花らがいる。初期の『我楽多文庫』がどんな体裁だったかは、早稲田大学図書館のサイトでご覧いただきたい。
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- 2016年05月01日 『「血のメーデー事件」が起きる(1952 昭和27年)』
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*この事件は1952年、日本が独立を回復した直後に東京で開かれたメーデーのデモ行進が過激化して起こった。デモ行進の解散地点とされた日比谷公園で、全学連(全日本学生自治会総連合)の学生や青年労働者らが「『人民広場』へ行こう!」などと叫びながら、皇居に向かって行進し始めたのがその発端である。「人民広場」とは、皇居前広場のこと。入場は禁じられていたが、デモ隊の勢いは警察の規制を突破し、広場になだれ込んだ。劣勢になった警官隊は催涙ガスなどで応戦したが、やがて拳銃を発砲するに至る。その結果、死者2名をはじめ数百人の負傷者を出し、1000人以上が逮捕されるという大事件となった。逮捕者のうち261名が起訴されたが、その裁判は一審だけでも1970年(昭和45年)まで続いた。黒井千次の小説『五月巡歴』の主人公で会社員の館野杉人は、広場に突入したかつての大学生の一人だが逮捕は免れた。その館野に、一審で有罪となった旧友から二審で新たに証人となることを依頼する手紙が届く。承諾して、東京・立川市の法律事務所を訪ねる場面から、物語は始まる。一方、このころ館野は、職場で女子社員らが進める一種の労働運動に同調し、上層部からマークされていた。自身も学生運動の経験を持つ直属の上司は館野を呼び出し、運動への関与をやめるよう求め、こう言う。「だから、そんなことは問題じゃないんだよ。二十年前になにがあろうが、それは古いシャツみたいなものだろう。その先、そのことをどう考えたかの方がずっと辛くてもっと大切なわけさ」。だが館野は応じず、懲戒処分を受けることになる。――企業の一員として働きながら自己の思想を保持することの意味を問うた佳編である。
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- 2016年04月30日 『大佛次郎が死去する(1973 昭和48年)』
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*〈おさらぎ・じろう〉は1897年横浜市生まれの文学者。本名・野尻清彦。英文学者で星の研究家として知られる野尻抱影〈のじり・ほうえい〉は兄にあたる。筆名の「大佛」は『太平記』に見られる古い姓だが、鎌倉市長谷の大仏裏に住んでいたことから名付けた。東京帝国大学法学部卒業後、外務省に務めるなどしたが20代で退職、以後は文筆に専念する。「鞍馬天狗」の作者として有名なので、通俗的な時代小説家と思われることがあるが、実は西欧的知性に裏打ちされた教養人で、パリ・コミューンを描いた『パリ燃ゆ』、明治維新を扱った『天皇の世紀』など重厚なノンフィクションのほか、児童文学、戯曲、翻訳なども残した。大佛は『天皇の世紀』を長く『朝日新聞』に連載していたが1973年4月、病気のため休載。そのまま4月30日に死去したので、同作品は未完となった。横浜市の「港の見える丘公園」に大佛次郎記念館があり、数々の著作や遺品、関連資料などを見ることができる。海を臨む絶好のロケーションにたつ赤レンガの建物が美しく、観光スポットにもなっている。現在(2016年7月10日まで)、「磯貝宏國コレクション vol.2『鞍馬天狗ワンダーランド――昭和のあそび』」展が開かれている。
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- 2016年04月29日 『中原中也が生まれる(1907 明治40年)』
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*「汚れつちまつた悲しみに‥‥」で有名な詩人・中原中也は1907年の今日、現在の山口市湯田温泉に軍医の子として生まれた。『山羊の歌』『在りし日の歌』などにまとめられた多くの作品を残し、30年と5カ月で夭逝している。中也というと、学校の教科書などでよく見るこの写真Aがあまりにも有名で、「ツルっとした顔の、おとなしそうで、かわいい人」という印象が強く、それが女性ファンのハートをくすぐるのだが、実像はどうだったのだろう。今日は誕生日を記念して、中也の「顔」を追いかけてみよう。幼年時代は飛ばして、まずは旧制山口中学と、そこを落第して編入した京都の立命館中学のころの写真Bと写真C。たしかにかわいい。ジャニーズ系である。次はいよいよ満17歳で東京に出てきて以後の写真Dと写真Eを見てみよう。どちらも銀座・有賀写真館の刻印があり、帽子や服装が同じなので、同じ時期に同じ店で撮影されたと見られる。写真Dは写真Aの元写真である。この写真はほかにも様々な複製があり、服装がよく分かるこんなバージョンもあれば、背景がおどろおどろしいこんな複製もあり、それぞれ印象が異なる。最後は満29歳の年、東京放送局(現NHK)の入社試験のために撮影した写真Fである。「まじめな銀行員」といった感じで、とても詩人には見えない。写真D・Eがよく使われる理由がこれで分かるというものだ。
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- 2016年04月28日 『「コンティキ号」が南米からポリネシアへの航海に出る(1947 昭和22年) 』
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*ノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールは、ポリネシアの文化は古代に南米から移住した人々によって伝えられたという仮説を立て、それを実証するため、イカダによる太平洋漂流実験を敢行した。バルサ材で造られたイカダの名は、インカ文明の太陽神にちなんだ「コンティキ(Kon-Tiki)」である。1947年の今日、ペルーを出航したコンティキ号は、100日余かかってツアモツ諸島(仏領ポリネシア)に到達した。その冒険のようすは自著『コン・ティキ号探検記』に活写されている。ヘイエルダールは1970年にも「ラー2世号」という葦舟で大西洋を渡り、中米のアステカ文明とエジプト文明とを結び付けようとした。「ラー」はエジプトの太陽神の名である。ヘイエルダールはこれらの探検によって自説が証明されたと主張したが批判も多く、現在の学界ではその多くが否定されている。しかし、世界中の多くの人々に、文明の伝播のプロセスについて、具体的行動によって問題を投げかけた意義は大きい。コンティキ号の雄姿は、オスロにある「コンティキ博物館」で見ることができるが、1950年と2012年の2度にわたって制作された映画(タイトルはともに『コンティキ』)も見ものである。
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- 2016年04月27日 『初の「駅伝競走」が行なわれる(1917 大正6年)』
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*日本で始まり、世界に広まった陸上競技「駅伝競走」。毎年正月の「箱根駅伝」や「ニューイヤー駅伝」などが有名だが、日本初の駅伝は、1917年4月27日に発走した「東海道駅伝徒歩競走」である。この年、東京・上野公園では、東京への遷都50年を記念して「奠都50周年記念大博覧会」が開かれていた。それを盛り上げるためのスポーツイベントとして、両京を結ぶ東海道をコースとする壮大なロードレースが企画された。読売新聞社の主催で、発案者は当時同社社会部長を務めていた土岐善麿(歌人・国文学者)である。「駅伝」と名付けたのは、神宮皇学館長・武田千代三郎であったとされる。京都・三条大橋から東京・不忍池(博覧会正門前)まで、およそ508 kmという長丁場だから、とても1日では走り切れず、何と3日がかりで走りとおした。上で「27日に発走した」と書いたのはそのためで、具体的にいうと、27日午後2時に第1走者が発走し、次々にタスキを渡しながら23区間を足かけ3日走り続け、1着の走者がゴールしたのは29日午前11時34分であった。現在、京都のスタート地点と東京のゴール地点の両方に、同じデザインの「駅伝の碑」がたち、その歴史を伝えている。
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- 2016年04月26日 『チェルノブイリ原発事故が起こる(1986 昭和61年)』
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*旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で、1986年のこの日午前1時過ぎ(現地時間)、電源テスト中の4号炉が暴走して制御不能となり、炉心が溶融して大爆発を起こした。その結果、莫大な量の放射性物質が放出され、死者多数を出し、現在も広大な立ち入り禁止区域が設定されている。ところで事故のあと、「チェルノブイリ」は聖書「ヨハネの黙示録」に出てくる「苦(にが)よもぎ」にあたり、今回の事故は聖書の言葉どおり起こったとする言説が欧米を中心に広く流布された。問題の箇所は次のとおり。《第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ》(第8章10~11節)。苦よもぎの仲間の植物(学名Artemisia vulgaris)をロシア語でチェルノブイリニクと呼ぶことは事実だが、聖書でいう「苦よもぎ」は神の罰を表わす用語であって、特定の地名等と結び付けて解釈することは適当でないとされる。
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- 2016年04月25日 『大阪駅前に大歩道橋ができる(1963 昭和38年) 』
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*「歩道橋」というのは実はおかしな言葉で、路側につくられた本来の「歩道」が橋になっているのではなく、「横断歩道」を橋にしたものをいう。どうしてこういうものができたかというと、市街地の幹線道路の交通量が飛躍的に増大し、人々がおいそれとは道を渡れない状況が生じたからである。それは、第2次大戦後の高度経済成長期に起こった。対策として、「横断歩道を橋にしちゃえ」という安易な発想から生まれたのが「歩道橋」なのである。日本初の歩道橋としてよく紹介されるのは、1963年の今日、国鉄(現JR)大阪駅西口にできた大歩道橋である(大和ハウス工業が建設して大阪市に寄付した)。東京でも同じ年の9月10日、同五反田駅前に完成している。だが、もっと早い例があった。1959年(昭和34年)6月27日、今の愛知県清須市にできた学童用の歩道橋の方が5年も古い。それはともかく、1960年代以降、歩道橋は雨後のタケノコのように増殖し、全国津々浦々に行き渡った。だが、自動車優先思想の権化のような歩道橋は、どう見ても人間の都市にふさわしくないと、見直しや撤去に向けた動きがある。
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- 2016年04月24日 『第1回「日本ダービー」が開催される(1932 昭和7年) 』
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*イギリスのダービー伯爵が創始した「ダービー競馬」にあやかって名付けられた「日本ダービー」。その第1回が「東京優駿大競走」の名で開催されたのが1932年の今日である。今の会場は府中の東京競馬場だが、第1回と翌年の第2回は目黒競馬場で開かれた。その目黒競馬場は、早くに閉鎖され、もはや存在しない。しかし痕跡はしっかり残っている。東京の詳しい地図をお持ちの方は目黒区のページを開いてほしい。まず「目黒不動尊」を探して、その北西あたりに目をこらしてみよう。「キルギス共和国大使館」を中心に描かれたような円形の道路が見つかるはずである。これが馬場の外周路跡である。楽しそうなので、実際に歩いてみた。普段あんまり出会えない、規則的なまる~い道。狭いが、それだけに車はほとんど通らず、のんびり散歩することができる。北方の目黒通りに出ると「元競馬場」と表示された信号機があり、たもとの歩道には馬の彫刻を乗せた記念碑も立つ。「行ってみたいけど時間がなくて……」という方には、「龍的思考回路」というサイトで「バーチャル訪問」してみることをお勧めする。とてもよくできたサイトである。
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- 2016年04月23日 『旧赤坂離宮が「迎賓館」に生まれ変わる(1974 昭和49年) 』
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*東京・元赤坂にある「迎賓館」は、その名のとおり、外国からのお客様を迎える国の施設である。もともとは皇太子時代の大正天皇のために東宮御所として計画されたもので、著名な建築家・片山東熊の設計により、1909年(明治42年)に完成した。ヨーロッパの宮廷と同じネオ・バロック様式のレンガ造り、石張りの大建築である。皇太子の皇位継承後は赤坂離宮となったが、戦前戦後を通じてあまり利用されることはなかった。1960年代になって、国の迎賓施設として利用することが決まり、村野藤吾による改修を経て1974年(昭和49年)の今日、落成した。現在の正式名称は「迎賓館赤坂離宮」である。随所に「和」の意匠を加え、装飾には日本人画家の作品も利用されているとはいえ、建築材料、家具・調度類の大半は輸入品であり、どこまで行っても「西洋」のマネであることは否めない。そういう建築を日本国の迎賓施設とすることについては、「国民的矜持がない」という強い批判もある。この4月から年間を通しての一般公開が始まったから、そんなことを考えながら見学してみるのもいいだろう。
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- 2016年04月22日 『「サザエさん」の新聞連載が始まる(1946 昭和21年)』
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*長谷川町子(1920-1992)原作の漫画『サザエさん』は、女性の視点から家族の生態や人情の機微を描いた名作である。現在ではテレビアニメだが、もともとは『朝日新聞』連載の4コマ漫画だった。しかし、『サザエさん』が初めて載った新聞は『朝日』ではない。第2次大戦の敗戦直後、福岡市で創刊された『夕刊フクニチ』という新聞に連載されたのが最初である。これは当時、長谷川一家が同市に在住していたことによる。連載は1946年4月22日付けから始まったが、一家の東京への移住もあり、長続きしなかった。1948年から49年にかけて東京の『新夕刊』という新聞などに連載されたのち、朝日新聞社の夕刊紙『夕刊朝日新聞』に発表の場を移す(1949年12月1日付けから連載開始)。1951年(昭和26年)4月16日からは『朝日新聞』本紙の朝刊に掲載されるようになり、中断はあったが、1974年(昭和49年)2月21日まで、20年以上続く長期連載となったのである。『サザエさん』の主な登場人物は、主人公の若い主婦サザエと会社員の夫マスオ、その子のタラオ(以上フグ田家)、サザエの父波平と母フネ、弟カツオ、妹ワカメ(以上磯野家)らで、今では珍しくなった3世代同居の家族が織りなす庶民的な人間模様が活写されている。新聞マンガらしく、その時々の世相が巧みに取り込まれていることもあり、「昭和の暮らし」を写す鏡としての役割も果たしている。
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- 2016年04月21日 『エリザベス女王が生まれる(1926 昭和1年) 』
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*イギリスのエリザベス女王は、今日で満90歳を迎える。10歳まではただのお姫様(国王の次男の娘)だった彼女を王位に引き寄せたのは、伯父にあたる国王エドワード8世(在位1936年1月-12月)の奔放な愛だった。1936年に国王に即位したときエドワードは独身だったが、アメリカ生まれのウォリス・シンプソンという女性と熱烈な恋に落ち、結婚を決意する。しかし、彼女が離婚歴のある人妻だったため、政府や国民からは結婚に反対する声があがった。それでもエドワードはひるまず、国王の座を投げ出してまで彼女と結婚する道を選ぶ。「王冠を賭けた恋」として世界的なニュースとなった事件である。このため王位は弟のジョージ6世に移る。エリザベスの父である。突然王女となったエリザベスは11年後の1947年、遠縁にあたるフィリップ・マウントバッテン伯(現エディンバラ公)と結婚。さらに5年後の1952年、父の急死をうけて王位を継承、翌53年6月、ウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した(日本の皇室からは、当時皇太子だった今上天皇が参列している)。女王誕生日の今日、イギリスでは各種の記念行事が行なわれるが、国の祝日としての「公式誕生日」(Queen’s Official Birthdayという)は別途6月11日に設定されている。
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- 2016年04月20日 『日本女子大学が創立される(1901 明治34年)』
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*日本女子大学は、20世紀が始まったばかりの1901年4月20日、開校式を挙げた。牧師でもあった成瀬仁蔵(なるせ・じんぞう)という人が創立者であることは有名だが、大隈重信(元首相、早稲田大学創立者)、渋沢栄一、岩崎弥之助(ともに財界人)、伊藤博文(元首相)ら各界の人士がそれを応援し、出資していたことはあまり知られていない。先ごろ放映されたNHKの連続テレビ小説『あさが来た』の主人公のモデル・広岡浅子もその1人である。だが、この学校は本物の大学としてスタートしたわけではなかった。創立時の正式名称「日本女子大学校」に余計な「校」が付いているのは、それが正式の大学ではないことを意味している。同校は、1904年に専門学校令による専門学校に位置付けられたものの、第2次大戦後、新制大学となるまで40年間、その地位に甘んじなければならなかった(後続の東京女子大学も同様)。同じ私立でも、慶応や早稲田・明治などの「男子」大学(ごく少数の女子学生はいたが)が、大正時代には大学令による大学の地位を得たのと比べると、女子大学に対する日本国家の差別は歴然としている。大学のホームページによると、1901年の最初の入学生は、家政学部84人、国文学部91人、英文学部10人、英語予備科37人と、附属の高等女学校288人の計510人だった。当初から附属高女を持っていたのはさすがだが、これはライバルである東京女子高等師範学校(お茶の水女子大の前身)の附属高等女学校(現・同大附属中学・高等学校)に対抗したものだろう。現在川崎市にある日本女子大附属中学・高等学校の前身である。
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- 2016年04月19日 『アメリカ独立戦争が始まる(1775 安永4年) 』
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*アメリカが独立(1776年)を勝ち取るためには、イギリス軍との戦闘で多くの血が流されなければならなかった。一連の戦闘の口火を切ったのが、1775年の4月19日に起こった「レキシントンとコンコードの戦い」である。レキシントンとコンコードはどちらもマサチューセッツ州の都市で、ボストン郊外にあたる。両地で行なわれた戦いは、アメリカ植民地の民兵(「ミニットマン」と呼ばれた)が活躍し、イギリス軍を撃退した。現在、戦跡は観光地となっているが、レキシントンにあるミニットマンの像は特に人気のスポットである。この戦いを記念して、マサチューセッツ州など3州では毎年4月の第3月曜日を「愛国者の日」という祝日としている。有名なボストン・マラソンは、この日の行事の一つとして、1897年の今日スタートしたものである。瀬古利彦(2回優勝)など日本人選手の活躍も目立つが、日本人が最初に参加したのは第2次大戦後のことで、田中茂樹という20歳そこそこの選手が一発で優勝し、アメリカ人をびっくりさせた。1951年(昭和26年)4月19日のことである(田中の2時間27分45秒という記録は世界最高記録とされたが、後に距離不足が判明、取り消された)。今年も「愛国者の日」にあたるきのう(4月18日)、ボストン・マラソンが行なわれた。
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- 2016年04月18日 『米軍機による初の本土空襲が行なわれる(1942 昭和17年) 』
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*「本土空襲」というと、敗戦間際の1945年ごろ、B29によって全国の都市が焼き払われた、あの空襲を思い起こす人が多いだろうが、その始まりは1942年にさかのぼる。この年の4月18日、アメリカ軍の空母から発進したB25爆撃機16機(1機は途中離脱)が、東京・名古屋・神戸などの大都市を爆撃したのがそれである。この時期はまだ日本軍の勝ち戦が続いており、アメリカ軍による本土空襲はほとんど予想されていなかったから、爆撃機は比較的容易に目的を達し、ほとんどが、連合国の一員だった中華民国の支配地まで飛んで乗員を収容した。指揮官の名前をとってドーリットル空襲とも呼ばれるこの空襲は、日本側に100人近い死者を出したが、その中には小・中学生も含まれていた。日本の軍部は、主要都市への空襲を許したことでうろたえ、急ぎ対策に乗り出す。特に東京は絶対に守らねばならないというので、「帝都防空」の拠点になる新たな飛行場を建設することになった。当時の練馬高松町・田柄町・土支田町に広がっていた田畑約 200ha が買い上げられ、にわか仕立ての「成増(なります)飛行場」が完成する。この飛行場跡地は戦後、米軍の住宅地「グラントハイツ」となったが、のちに返還され、現在は都立光が丘公園と光が丘団地となっている。
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- 2016年04月17日 『日清戦争の講和条約が調印される(1895 明治28年)』
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*1894年以来、朝鮮半島や黄海などを戦場に戦われていた日清戦争は1895年春、日本が優勢なまま休戦・講和に向けた会談が開始された。会場は下関市に今も残る割烹旅館春帆楼。日本側の全権は伊藤博文と陸奥宗光、清国側は李鴻章(り・こうしょう)であった。最終的には4月17日に日清講和条約が調印されることになるのだが、そこに至るまでには幾多の曲折があった。もっとも大きなできごとは、3月24日に起こった李鴻章狙撃事件である。この日行なわれた第3回会談のあと、李が宿舎の引接寺へ戻る途中、沿道にいた小山豊太郎という壮士が李に向けピストルを発射、顔面を負傷させるという事件が起きる。敵国の代表に傷を負わせるなど、あってはならない不祥事であり、交渉が加害者側(日本)の不利になるのは目に見えている。4年前の1891年に起きたロシア皇太子傷害事件(大津事件)の二の舞になってはと、日本側は動揺する。27日、明治天皇は早速、清国の求める無条件休戦を認めることを許し、これに沿って30日には日清休戦条約が調印された。また、地元の山口県知事・原安太郎と同県警部長・後藤松吉郎は、事件の責任を問われ、免官・位記返上を命じられている。曲折は講和条約調印後も続いた。講和の内実を知った独・仏・露の3国が横から異議を申し立て、日本が獲得するはずだった遼東半島を清国に返還させたのである。日本ではこれを「三国干渉」と呼んで悔しがった。
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- 2016年04月16日 『「濹東綺譚」の新聞連載が始まる(1937 昭和12年)』
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*永井荷風の代表作ともいわれるこの作品の発表の経過は、いささか複雑である。荷風の年譜(有磯凌霜編)を見ると、1936年(昭和11年)の項に《5月ごろより頻々として濹東方面に遊ぶ。9月初旬より『濹東綺譚』執筆、10月25日稿成る》とある。3日後の28日、知人を介して話がまとまり、《拙稿濹東綺譚を朝日新聞夕刊紙上に掲載することとなす》(荷風の日記『断腸亭日乗』)。原稿は程なく新聞社に届けられたはずなのに、連載が始まるのは翌37年4月16日付けからと、だいぶ遅い。一方、年譜を続けて読むと、37年4月《『濹東綺譚』私家版百部を限定して京屋印刷に印刷せしめたれど、製本、印刷、紙質、悉く粗悪にして甚だよろしからず、僅少部数を一部知友に贈呈して止む》。朝日連載の方は6月15日付けで終わり、8月に、公刊の単行本が岩波書店から出た。物語は、主人公・大江匡が東京の私娼街・玉の井で「お雪」という女と知り合った「六月末の或夕方」から、二人が微妙な別れ方をする「もうぢきお彼岸」になるころまでの、約3カ月間の交情を軸に展開する。日中全面戦争の開始直前に発表されたこの作品は、重苦しい世相に一種の詩情を供給することになったため、木村荘八の秀抜な挿し絵(岩波文庫版ほかで見ることができる)とともに大好評を博すことになる。作家・安岡章太郎は言う。「〔この作品は〕わがくにに辛うじて戦前の平和が残されていたギリギリの時期に発表された」(『私の濹東綺譚』新潮文庫)。
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- 2016年04月15日 『土岐善麿が死去する(1980 昭和55年)』
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*今日は土岐善麿が94歳の天寿を全うしてあの世に旅立った日である。1910年(明治43年)、善麿が哀果の名で発表した「NAKIWARAI」は、短歌をローマ字で3行に表記するという新機軸を打ち出した。石川啄木の3行書き短歌は、これに影響されたといわれる。実際、善麿は啄木と親交を結び、啄木の年若い死まで、いや死後も、援助を惜しまなかった。啄木の命日は1912年(明治45年)4月13日だが、その4,5日前、「金がもうない、歌集を出すようにしてくれ」と啄木に頼まれた善麿は、版元・東雲堂へ足を運んで第2歌集『悲しき玩具』の出版を取り決め、前借りで稿料を受け取る。それを持参すると啄木は非常に喜び、氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、何度もうなずいた。「それで、原稿はすぐ渡さなくてもいいのだろうな、直さなくちゃならないところもある、治ったらおれが整理する」といった。その声は、かすれて聞き取りにくかった。善麿が「それでもいいが、東雲堂へはすぐ渡すといっておいた」というと、「そうか」と、しばらく目を閉じて無言。やがて、妻の節子に向かい、「おい、そこのノートを取ってくれ、その陰気な」といって、灰色のラシャ紙の表紙をつけた中判のノートを受け取る。ところどころを開いて見てから、「そうか。では万事よろしく頼む」と、善麿に渡した。帰り際、善麿がふすまを閉めかけると、啄木は「おい」と呼び止め、「何だい」と聞く善麿に向かい、「おい、これからも、頼むぞ」といった……これが2人の最後の会話となった。啄木が死ぬと、家が等光寺という寺だった善麿は、葬式を自分の家で出してやる(4月15日)。『悲しき玩具』は、6月20日(または23日)付けで発行された。以上は『悲しき玩具』に善麿が付した後書きなどをもとに、筆者が構成した。
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- 2016年04月14日 『数学者エミー・ネーターが死去する(1935 昭和10年)』
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*エネルギー保存則が成り立つには前提がある。「時空において対称性が存在すれば、それに対応する保存則が成り立つ」というものである。これが「ネーターの定理」で、「場の量子論」には欠かせない重要な定理である。発見者のエミー・ネーター(Amalie Emmy Noether、1882年3月23日~1935年4月14日)は、20世紀前半に活躍したドイツの女性数学者。ヒルベルトに見出され、アインシュタインからも評価された理論物理学、抽象代数学の代表的研究者である。しかし、ユダヤ系で女性であることから二重の差別を受けたこと、さらに病魔に侵され早世したことなど、彼女の生涯には悲劇的な記憶がつきまとう。ネーターの定理は抽象的だ。たとえば、空間併進対称性に対しては運動量保存則が、空間回転対称性に対しては角運動量保存則が成り立つ。時間併進対称性に対しては、エネルギー保存則が成り立っている。(時間併進対称性というのは、「ある時点で成り立つワンセットの事象は、それを過去に持っていっても逆に未来に持っていっても同様に成り立つ」というもの。)しかし、宇宙は時間の経過とともに膨張しているので、時間併進対称性は明らかに成り立っていない。それゆえ、膨張宇宙においてエネルギー保存則が成り立たなくてもまったく問題はない、となる。ネーターは、有名な数学者マックス・ネーターの娘で、1903年にドイツのエアランゲン大学に入学、1907年に学位を取得した。1909年にはドイツ数学会に入会している。その後ゲッティンゲン大学に招かれたが、女性差別により、1919年に助教授になったものの、なかなか教授になれなかった。それまでの期間に「ネーター理論」を完成、「環論」の構築など優れた業績を挙げた。1928年にモスクワ大学客員教授、1930年にはフランクフルト大学客員教授に就任。しかし1933年にナチスが政権を握ると、ユダヤ系のネーターは大学教授の職を追われたため、アメリカ・ペンシルバニア州に移り、ブリンマー大学客員教授となった。しかし1935年、卵巣癌のため53歳の若さで死去する。遺灰はブリンマー大学の図書館を囲む通路の下に埋葬されている。(村上明子執筆)
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- 2016年04月13日 『喫茶店「可否茶館」が開店する(1888 明治21年)』
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*明治になると、東京の街にもコーヒー店が現れてきた。どこの、何という店が最古の喫茶店なのかについては諸説あるが、記録がよく残っている店として有名なのが、明治21年の今日、下谷・西黒門町にオープンした「可否茶館」である。経営者は鄭永慶(てい・えいけい)。鄭は長崎の唐通事(中国語通訳官)の家系に生まれた中国系日本人(東京府士族)で、アメリカのイェール大学に学んだ(中退)。帰国後は一時官界に身を置いたこともあるが程なく退職し、欧米のコーヒーハウスの文化を東京に根付かせようと自宅に「可否茶館」を設けたのである。開業当日、『読売新聞』に出した広告(「可否茶館開業報条」)が傑作である。用字を現代風に改め、〔 〕内を補って引用する。《遠からん者は鉄道馬車に乗ツて来たまへ近くば鳥渡〔ちょっと〕寄ツて一杯を喫したまへ抑も〔そもそも〕下谷西黒門町貮番地(警察署隣)へ新築せし可否茶館と云ツパ〔と言うは〕広く欧米の華麗に我国の優美を加減し此処に商ふ珈琲なり珈琲の美味なる思はず鰓を置き忘れん事疑なし館中別に文房更衣室或は内外の遊戯場を備へマツタ〔又〕内外の新聞雑誌縦覧勝手次第にて其価の廉なる只よりも安し咲き揃ふ花は上野か浅草へ歩を運ばせらるる紳士貴女幸に来臨を辱ふして当館の可否品評し給へかしと館主に代りて鶯里の思案外史敬で白す〔申す〕》。ここまで読むと、小説家の石橋思案(「外史」は号)の筆であることが分かる。最後に「定価カヒー一碗壹銭半同牛乳入金貮銭」とあるので、可否または珈琲を当時は「カヒー」と発音していたこと、値段が1杯1銭5厘であったことも分かり、貴重である。「可否茶館」のあった場所(現台東区上野1-1-10)には、「日本最初の喫茶店『可否茶館』跡地」と書かれた記念碑がたっている。『日本最初の喫茶店―「可否茶館」の歴史』(いなほ書房)を書いた星田宏司氏は、この碑の建設呼びかけ人の一人。(付記 「跡地」の碑は現在、周辺のビル工事のため、見づらいか、全く見られない状態になっている。)