旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年05月22日 『一高生・藤村操が華厳の滝で自殺する(1903 明治36年)』
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*北海道の銀行家の息子として生まれ、旧制第一高等学校(東京大学教養学部の前身)で学んでいた〈ふじむら・みさお〉は1903年の今日、栃木県日光の華厳の滝に飛び込んで自殺した。投身するにあたり、藤村は滝の上にはえるミズナラの木の幹をはぎ、そこに「巌頭之感」と題する遺書を彫りつけている。あまり長いものではないから、全文を書き写してみよう。〔 〕内は筆者による漢字の読みがなである。《悠々たる哉〔かな〕天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟〔つい〕に何等〔なんら〕のオーソリチィーを価するものぞ。万有の真相は唯だ一言にして悉〔つく〕す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終〔つい〕に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを》。若い知性が宇宙の真理を求めて果たさず、哲学的な死を選んだことが分かる。藤村は1886年(明治19年)の生まれだから、今風にいえば、16歳の高校1、2年生である。今どきの高校生の男の子が、こんな文章を書いて自殺するだろうか。第一「巌頭」(岩のてっぺん)などという言葉自体、思いつかないだろう。ところが当時の高校生は、卒業後ほぼ自動的に帝国大学に進むエリートであり、哲学書を読んで人生問題に悩み、煩悶する文化を色濃く身につけていた。一高で藤村の1年先輩だった岩波茂雄(岩波書店創業者)もその一人で、この事件に衝撃を受けて勉強が手につかなくなり、友人と泣き暮らしたあげく、長野県野尻湖に浮かぶ小さな島にこもって孤独な40日間を過ごしている。それはこの年7月13日から8月23日までのことであった。
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- 2016年05月21日 『野口英世が黄熱病で死去する(1928 昭和3年)』
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*世界的な医学者野口英世は1876年(明治9年)、福島県三ツ和村(現・猪苗代町)の農家に生まれた。火の燃える囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負い、全部の指が癒着してしまうという有名な事件は1歳半のとき起こった。その指を、数度の外科手術によって切り離していったことが、彼を医学の道に導く原体験になったと思われる。苦学して医師国家試験に合格し、北里柴三郎の伝染病研究所などに勤務したが、研究者としては認められなかったため1900年(明治33年)、つてを頼ってアメリカに渡り、大学の助手の職を得た。のちロックフェラー医学研究所に入り、細菌学の研究を進める。梅毒スピロヘータの研究などで大きな業績を上げたが28年5月21日、アフリカのガーナで黄熱病の研究中、自ら感染し、51年6カ月の生涯を閉じた。猪苗代湖畔にたつ野口英世記念館には野口の生家がそのまま保存されており、見ごたえがある。特に1896年に医学の修行のため上京するにあたり、床柱に彫りつけた「志を得ざれば再び此地を踏まず」の文字を見ると誰しも感動する。だが野口の一生は「偉人」として美化されており、借金をしては放蕩を繰り返したこと、渡米直前に結んだ婚約を実行せず、5年後に破棄したことなどはあまり知られていない。こういう「だめな点」も含む一個の人間としての野口をトータルに受け止めたい。
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- 2016年05月20日 『「三国同盟」が締結される(1882 明治15年)』
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*「三国同盟」という言葉を聞いて「あ、それ知ってる」という人の頭に浮かぶ「同盟」は、主に次の二つに分かれると思う。一つは19世紀に結ばれたドイツ、オーストリア、イタリアによる秘密軍事同盟、もう一つは20世紀の日本、ドイツ、イタリアによる軍事同盟である。前者は、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」に対抗したもので、両者間の国際的緊張が第1次世界大戦を導いたとされる。後者は、いわゆるファシズム国家が当時の世界秩序を打破するために結んだ同盟で、こちらは第2次大戦の原因を形作った。どちらも大変重要な同盟だが、今日5月20日は1882年に前者の同盟が締結された日である。同盟締結の直接の動機は、1881年4月のフランスによるチュニジア占領だった。イタリアはこれに反発、ドイツ、オーストリアに接近した。当時ドイツの政治を牛耳っていた鉄血宰相ビスマルクはこれを利用し、オーストリアを引き込んで三国による同盟を成立させたのである。一方この同盟と対立した「三国協商」の方は、1907年に最終的に成立している。ところでこの「協商」という言葉は、「商売」との連想から、通商協定のようなものかと思う人が多いが、間違っている。「商」には「あきなう」のほかに「はかる」「相談する」という意味があり、「評議」「協議」とほぼ同じ意味を表わす熟語に「商議」や「協商」があるのである。外交用語としての「協商」は、「同盟」ほど強固ではないものの、国家間の相互協調関係を意味する。
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- 2016年05月19日 『戦後初の東大総長・南原繁が死去する(1974 昭和59年) 』
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*〈なんばら・しげる〉はクリスチャンの政治学者。1945年、内田祥三の跡を継いで、戦後初の東大総長に就任し、51年までその地位にあった。この時期は、日本国憲法の成立を受け、戦後日本の国家像をどのように描くかをめぐる論議が盛んだった。最大の焦点の一つが、広く全世界と講和を結ぶ(全面講和)か、アメリカ陣営とだけ講和を結ぶ(単独講和)かの選択であった。南原は前者を主張する論客の1人だった。それを快く思わない吉田茂首相は1950年(昭和25年)5月3日、与党・自由党内の会合で、南原を「曲学阿世の徒」と呼んで非難した。曲学阿世とは、学問を曲げ、世間にへつらうといった意味である。これを聞いた南原は激怒し、《学問の冒瀆、学者に対する権力的強圧以外のものではない。全面講和は国民が欲するところで、それを理論づけ、国民の覚悟を論ずるのは、政治学者としての責務だ。それを曲学阿世の徒の空論として封じ去ろうとするのは、日本の民主政治の危機である》と述べたと、当時の新聞が伝えている。「ワンマン」の異名をとる剛腕の首相吉田と、日本の知性を代表する東大総長南原による「しげる」同士のバトルだったわけだが、世間は多く南原に同情的だったようである。今日5月19日は、その南原が84歳8カ月の生涯を閉じた日である。
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- 2016年05月18日 『ハーグ平和会議が開かれる(1899 明治32) 』
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*今日は「国際親善デー」である。1899年の今日、オランダのハーグで国際的な平和会議が開幕したことにちなむ。この会議は、ロシア皇帝ニコライ2世(「大津事件」の被害者。今月11日参照)の提唱で開かれ、24カ国が参加した。軍縮協定こそ実現しなかったものの、(1)国際紛争の平和的解決のため恒久的な調停機関の設置、(2)陸戦に関する国際協定の制定、(3)傷病兵看護規定の海戦への適用に関すること、(4)気球からの空爆・毒ガス・ダムダム弾の使用等の禁止といったことがらが協定された。8年後の1907年には第2回会議が同じくハーグで開かれ44カ国が参加、国際紛争の解決方法が一層具体化された(以上、小学館『日本歴史大辞典』馬渕貞利氏稿による)。現在ハーグに国際司法裁判所が置かれているのは、これらの会議の伝統を受け継いだものである。ところでハーグという地名は、本当は定冠詞をつけた Den Haag というのが正しい。ヨーロッパ語では普通、都市の名に定冠詞はつかない(The London などとはいわない)のに、なぜハーグにはつくのか。実は haag は「生垣」を意味するオランダ語の普通名詞である。昔この地を治めた某伯爵が所有する「生垣(に囲まれた領地)」が地名の語源になったので、よその生垣ではなく「その生垣」という意味で定冠詞がついたものと思われる。定冠詞がつく都市名としては、ほかにフランスのル・アーヴル(Le Havre)がある。
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- 2016年05月17日 『北海道に初めて屯田兵が置かれる(1875 明治8年) 』
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*〈とんでんへい〉とは、明治期の北海道に配置された特殊な兵士のことで、平時は農業を営み、戦時には兵士に早変わりした。初期は士族(元武士)から、のちには平民からも募集され、北海道の防備と開拓にあたった。屯田兵の構想は1873年、開拓次官・黒田清隆の頭の中に浮かんだ。開拓民の「鎮撫保護」のための兵力として、東北地方の士族を移住させることを思いついたのである。彼の建言によって政府は翌74年「屯田兵例則」を制定し、募集に乗り出す。そして最初の屯田兵として198戸、965人(「第1中隊」と呼ばれた)が琴似(ことに)村に入植したのが、1875年の今日のことであった。屯田兵には5000坪以上の土地(ただし未開拓)と武器や農具、住宅のほか、3年間の食料が支給された。……というと極めて優遇されていたように聞こえるが、実際は凍てつく未開の原野に放り出されたようなもので、生活は苦難に満ちていたと伝えられる。屯田兵は1904年(明治37年)に廃止されるが、入植者は約4万に及んだ。屯田兵の村には、アメリカの開拓地で行なわれた「タウンシップ」という土地区画法が採用されたので、碁盤の目状の土地割が今も残っている。屯田兵第1陣が入った琴似は現在、札幌市西区の一部となっているが、その一角に史跡琴似屯田兵村兵屋跡の碑がたつ。その横には屯田兵の住宅が復元されており、当時をしのぶことができる。
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- 2016年05月16日 『松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出る(1689 元禄2年) 』
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*《月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。》‥‥松尾芭蕉『奥の細道』は、このように書き始められている。最初に出てくる句は、《草の戸も住替はる代ぞひなの家》である。続く「旅立ち」の段を読んでみよう。《弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明〔ありあけ〕にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。/行春〔ゆくはる〕や鳥啼魚の目は泪/是を矢立〔やたて〕の初として行道〔ゆくみち〕なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送〔みおくる〕なるべし》‥‥芭蕉が河合曾良を伴って「細道」の旅に出たのは、元禄2年3月27日であった。現在の暦では1689年の今日にあたる。この年、芭蕉は46歳だった。「千じゆ」は奥州街道第1の宿場「千住(せんじゅ)」のこと。門弟らはここまで芭蕉と同船して、見送ったのである。旅がそれほどの一大事であったことが分かって興味深い。ちなみに「矢立」というのは携帯用の筆記具のことで、墨壺に筆の入る筒をつけたもの。この道具で、芭蕉は山ほどの名句を残してくれたのだから、矢立様々である。(村上明子執筆)
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- 2016年05月15日 『5・15事件が起きる(1932 昭和7年) 』
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*1932年の今日起こった「5・15事件」は、名前はとても有名で、「たしか犬養首相が殺されて、何とかいう有名な言葉を吐いた事件だ」ということぐらいは多くの人が知っているが、それ以上詳しい知識は、よほどの歴史通でないと持ち合わせないだろう。かいつまんでいうと、事件は次のように起こった。この日の午後5時30分ごろのことである。三上卓、山岸宏の両海軍中尉らの一団が首相官邸を襲撃、犬養毅総理大臣を問答無用とばかり射殺した。ほぼ同時に、古賀清志同中尉らが牧野伸顕内大臣官邸を、中村義男同中尉らが当時の政権党・政友会本部を、そして民間人1人が三菱銀行本店をそれぞれ襲ったが、いずれも門前で手りゅう弾を投げ、拳銃を発射しただけで終わった。別の一団は尾久、淀橋など6カ所の変電所を襲い、東京の暗黒化を試みたがこちらも失敗している。犬養首相が吐いた「何とかいう有名な言葉」は《話せば分かる》である。この種の「名文句」は史実と違うものが多いが、この言葉は、襲撃した三上や山岸がそう聞いたと述べているので、実際に近いと思われる。この事件で原敬内閣以来の政党内閣は絶え、進行中の満州事変と相まって軍部独裁の時代が幕を開けることになった。以上は小学館『日本歴史大辞典』に高橋正衛氏が執筆した文章をもとに、筆者が再構成した。
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- 2016年05月14日 『大久保利通が暗殺される(1878 明治11年) 』
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*この日の午前8時過ぎ、内務卿大久保利通は自宅を出、赤坂仮御所(現在の赤坂離宮)に向かって馬車を走らせていた。やがて馬車はさびしい一本道にさしかかる。道の両側は草むらや土手で、人通りが少ない。石川県士族・島田一郎、島根県士族・浅井寿篤ら6人の刺客は、その草むらの陰から突然躍り出てきた。大久保は彼らにめった切りにされて殺害されてしまう。ただちに自首した刺客たちは、大久保の「有司専制」などを非難する斬奸状を携えていた。不平士族らの反政府感情が、事実上の政府首班であった(この時代、まだ内閣制度はない)大久保に集中した結果の暗殺であった。その現場は今どうなっているのかと思い、歩いてみた。道はそのまま残っている。旧赤坂プリンスホテル(現「東京ガーデンテラス紀尾井町」)とホテルニューオータニの間を南北に走る道路がそれである。外堀にかかる弁慶橋を渡って歩いていくと、右手に木立の盛り上がる清水谷公園が見えてくる。中央に大きな大久保「哀悼碑」がたち、この付近が事件の現場であることを伝えている。建築家(東大名誉教授)の鈴木博之は『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』(ちくま学芸文庫)で、この公園の成り立ちを《一種の怨霊の鎮魂のための、土地の聖別》であると指摘し、《この土地に大久保の霊がさまようことのないように、人々は哀悼碑を建て、その土地を公園にしたのであった》と述べている。そう思うと、この公園に足を踏み入れるのは、ちょっと勇気が要る。
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- 2016年05月13日 『大阪・千日デパートの火災で118名が死亡する(1972 昭和47年)』
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*この大火事のことを『近代日本総合年表』第2版は《7階のアルサロの客ら118人酸欠で死亡》と記している。ここに出てくる「アルサロ」とは何か。以下その解説を行なう。「アルサロ」は「アルバイト・サロン」の略。学生や人妻など素人の女性が接客するのが売りの男性向け飲食店である。1950年(昭和25年)大阪に発祥して全国に広まったとされるが、58年ごろ最盛期を迎え、70年代には衰退した。しかし、この火事のあった72年に、まだ大阪市のど真ん中で営業していたというのは、日本語史の上で貴重な情報である。「アルバイト・サロン」を国語辞典で調べると、面白いことが分かる。まず『デジタル大辞泉』を見よう。《【アルバイトサロン】 素人のアルバイトという触れ込みで女性が客の飲食の相手をする店。主に関西でいう。アルサロ》。次に『精選版日本国語大辞典』。《【アルバイト‐サロン】 会社勤めの女性や家庭の主婦などが女給をしているのだと称する、キャバレーのたぐい。アルサロ》。両語釈がさりげなく、しかし断固として、同じ情報を伝えていることに注目したい。「という触れ込みで」「のだと称する」の部分である。「素人だということになってるけど、本当は玄人の女性が接客しているんだ」ということを、どうしても人々に伝えたいという熱意を感じる。辞書を作る人たちが、意外にフーゾクに詳しく、業態の真実に迫る努力をしていることが分かる。
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- 2016年05月12日 『ナイチンゲールが生まれる(1820 文政3年)』
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*5月12日は「看護の日」。フローレンス・ナイチンゲールの誕生日にちなんで定められた。彼女の姓「ナイチンゲール(Nightingale)」は普通名詞としては「サヨナキドリ」(声の美しいツグミ科の小鳥)を表わす。一方、名の「フローレンス(Florence)」は生地フィレンツェの英語読み。姓名ともに恵まれた?人である。近代看護を確立したとされるナイチンゲールは、「クリミヤの天使」とも「ランプの貴婦人(光明婦人)」とも呼ばれる。前者は、1850年代にクリミヤ戦争に従軍して多くの傷病兵を助けたこと、後者は、夜間、ランプを持って患者を巡回した姿に、それぞれ由来する。ところで、看護の世界に「ナイチンゲール誓詞」というものがあるのをご存じだろうか。ナイチンゲール本人の言葉ではないが、戴帽式(たいぼうしき。看護学生らが初めてナースキャップを着ける式)で、ナースの卵たちによって唱えられている。その場面をうまくとらえた旭化成のテレビCMを覚えておられる方も多いだろう。「われはここに集いたる人々の前に、厳かに神に誓わん」で始まる古風な言葉づかいはそれなりに美しいが、意味がとりにくい部分もある。そこで、北里大学看護専門学校(ビデオの開始2分30秒後以降)のように、独自の「誓詞」を用いたセレモニーを行なう学校も少なくない。
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- 2016年05月11日 『ロシア皇太子を負傷させた「大津事件」が起きる(1891 明治24年) 』
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*1891年のこの日の昼下がり、来日中のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチ(のちの皇帝ニコライ2世。ロシア革命で殺害された)を乗せた人力車は、大津(現・滋賀県大津市)の中心地に近い京町筋を進んでいた。と、そこへ、抜刀した男が走り寄り、皇太子に斬りつけるという変事が起こる。皇太子は頭部に傷を負い、血が流れた。一方、その場で取り押さえられた男は、何と警備の巡査・津田三蔵であることが判明、大騒ぎになる。大国ロシアからの高貴な賓客を負傷させた上、下手人が日本の警官であることを知った日本の皇室と政府(松方正義内閣)は驚愕して震え上がる。ロシアから手ひどい報復を受ける可能性が高かったからである。明治天皇は、ただちに痛惜の念を表明し、北白川宮能久親王、西郷従道内相、青木周蔵外相を医師団とともに現地に差し向ける。そして13日と15日の2度にわたり、自ら皇太子を見舞っている。しかし皇太子は、予定していた東京訪問をキャンセルして早々と帰国してしまう。その後、内相、外相と山田法相らが辞任、滋賀県の知事と警察のトップは懲戒免官となった。津田の処遇については政権と司法部の判断が分かれ、政権は、皇室に対する罪を適用して死刑にすることを求めたが、大審院長・児島惟謙は普通謀殺未遂罪を適用して無期徒刑を言い渡した。この判決は、圧力に屈せず司法の独立を守ったものとして歴史に残る。
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- 2016年05月10日 『「一等車」が廃止され、「グリーン車」が誕生する(1969 昭和44年)』
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*かつて日本の鉄道(主にJRの前身である国有鉄道)には「一等車」が存在した。「一等」というといかにも偉そうだが、事実、一等車に乗るには特別の「一等運賃」を払う必要があり、それは二等運賃の約2倍もしたのだから、「一等車」は社会的ステータスの象徴だったのである。それが1969年の今日からは、現行の「グリーン車」に移行した。グリーン車と普通車の運賃は同額で、グリーン券の有無だけが違うのだから、昔と比べれば客扱いの平等化が進んだことになる。これは、高度経済成長の結果、一億が総中流化したといわれたこの時代にマッチしたできごとだったのだろう。しかし一方で、豊かな社会がグリーン車の進化発展を求めたことも確かで、近年ではさらに上をゆくグランクラスというぜいたくな車両も現れている。こちらは昨今の「格差社会」を反映する現象といえようか。ところでグリーン車の「グリーン」の名はどこから来たのか。一般には、スタート当時の車体の一部の塗装色や、専用切符の印刷色に由来すると説明されるが、ストンと胸に落ちない。また、車内放送などで使われる英語?の Green car が、外国人にパッと意味が分かるかというと、はなはだ疑問である。これは日本の鉄道サービスにとって不幸なことで、何らかの工夫が必要と思われる。
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- 2016年05月09日 『上野公園が開園式を挙げる(1876 明治9年)』
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*上野公園(正式には「上野恩賜公園」という)は、140年前の今日、開園式を挙行した。よく知られているように、今公園のある一帯は江戸時代、「上野の山」と呼ばれ、寛永寺の広い境内だった。しかし1868年、この地で旧幕府方の彰義隊と新政府軍との激しい戦闘が行なわれたため、焼け野原になっていた。新政府はここを接収したものの、使い方が分からない。大学用地(のちの東大)にすることも考えたが、お雇い外国人ボードワン(医師)の提言で、それまで日本になかった「公園」として活用する案が採用されることになる。1873年(明治6年)、政府は上野のほか、芝、浅草、深川、飛鳥山を「公園」に指定した。上野公園はこの時できたのだが、造成が整うまでには少し時間がかかったらしい。天皇・皇后を迎え、華々しく開園式が執り行われたのは1876年5月9日のことであった。当時の公園内の施設はわずかばかりだったが、やがて博覧会場や博物館、動物園、音楽・美術学校などが次々に整備され、文化の香り高い公園として進化して今日に至っている。そんな公園の生い立ちを語る遺跡として訪れたいのが、彰義隊の墓とボードワン像である。前者ではこの土地で「江戸」に殉じた若者たちの霊を慰め、後者では、その土地を公園として再生させたアイディアに敬意をささげたい。
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- 2016年05月08日 『赤十字運動の創始者アンリ・デュナンが生まれる(1828 文政11年)』
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*アンリ・デュナンは1828年の今日、スイスの首都ジュネーブに生まれた。西郷隆盛とほぼ同い年といったら、だいたいいつごろの人か感覚がつかめるだろうか。デュナンは1859年、イタリア統一戦争のひとこまであるソルフェリーノの戦いの悲惨さを体験して、敵味方の差別なく傷病者を救護する活動と組織の必要性を感じ、自らそれを実践した。これがのちの国際赤十字の基礎となる。日本にも「日本赤十字社」というのがあることはどなたもご存じだろう。これは西南戦争(1877年)の際、佐野常民(さの・つねたみ)と大給恒(おぎゅう・ゆずる)の2人がつくった救護組織「博愛社」を基礎としている。このように赤十字の運動は、戦争の惨禍を見かねた人々によって始められたのである。「赤十字」のマークはデュナンの母国スイスの国旗に由来するが、その起源はキリスト教の十字架である。だからイスラム諸国ではこの名称とマークが忌避され、代わりに「赤新月」(せきしんげつ)の名称と三日月のマークを用いている。しかしこれでは国際的な統一性を欠くので、宗教的に中立の単一マークを、との意図から「赤水晶(Red Crystal)」が制定されたが、日本ではほとんど報道されず、日本赤十字社も積極的に広報していない。
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- 2016年05月07日 『樺太・千島交換条約が調印される(1875 明治8年)』
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*北海道の北にある樺太(サハリン)は、江戸時代までは、大陸の一部とも考えられ、地勢がよく分からなかった。樺太が島であることが明らかになったのは、19世紀の初めに現地を探検した間宮林蔵らが、樺太と大陸の間に海峡があることを発見してからである。その海峡を、間宮の名をとって「間宮海峡」と名付けたのは、有名なシーボルトであった。こうして樺太は日本人によって「発見」されたが、幕末から明治の初めにかけては、日本のものでもロシアのものでもなく、両国民とアイヌ民族が「雑居」するという、ゆるい決まりになっていた。しかしこれではあまりにあいまいなので、両国が話し合い、樺太と千島について、国境を明確にすることになった。交渉は、日本の全権公使・榎本武揚がペテルブルク(現サンクトペテルブルク)に出向き、ロシア外相ゴルチャコフとの間で行なわれた。その結果、1875年の今日調印されたのが、「樺太・千島交換条約」である。その内容は、日本が樺太全部をロシアに譲るかわり、それまでロシア領だったウルップ島以北のいわゆる北千島を日本領とするというものであった。そののち、日露戦争で日本が勝利した結果、1905年のポーツマス条約で樺太の南半分(北緯50度線以南)が日本領となるが、第2次大戦の敗北により、千島とともに領有を放棄させられ、現在に至っている。
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- 2016年05月06日 『佐藤春夫が死去する(1964 昭和39年)』
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*『田園の憂鬱』で知られる小説家で詩人でもある佐藤春夫は1892年(明治25年)、和歌山県新宮で、9代も続く医者の家に長男として生まれた。新宮中学の時代から文学活動を始めたが、素行不良で手の付けられない暴れん坊として教師たちからにらまれ、同盟休校事件の首謀者とされて無期停学の処分を受けた。それでも何とか卒業して上京、生田長江に師事するとともに、慶応大学文学部に進み、教授だった永井荷風に学んだ。医者の長男に生まれた子が文学に目覚め、のめりこんでいくというコースは、萩原朔太郎によく似ている。だが、朔太郎がひ弱な優男だったのに対し、春夫は身体強健で戦闘的な人であった。ただし酒は飲めず、コーヒー党だった。さて、春夫の慶応での同級生に久保田万太郎(1889-1963)がいる。どちらも文学者として名を残して死ぬことになるのだが、2人の命日が1年違いの同月同日で、それが今日5月6日なのである。具体的に見ると、まず1963年の今日、万太郎が食餌誤嚥による窒息死をとげる。そして翌64年の今日には、今度は春夫がラジオ番組の収録中、心臓発作を起こして急死した。偶然にしてもできすぎている。
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- 2016年05月05日 『正岡子規が「病牀六尺」の連載を始める(1902 明治35年)』
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*〈まさおか・しき〉は今の愛媛県に生まれた俳人・歌人。本名は常規(つねのり)である。筆名の「子規」は鳥類のホトトギスを表わし、結核で喀血する自己を「鳴いて血を吐く」といわれるホトトギスになぞらえたもの。その名のとおり20代の学生時代に結核を発病し、晩年は寝たきりになった。最晩年、陸羯南(くが・かつなん)が社長を務める新聞『日本』に連載した随筆が『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく)である。1902年の今日掲載された第1回は、《病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。僅(わず)かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団(ふとん)の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない》という有名な書き出しを持つ。脊椎カリエスの激痛に耐えつつ書かれた文章だけに、阿鼻叫喚をそのまま文章にしたような悲惨な記述も多いが、一方、冷静な筆運びで文学や美術を論じた文も目立ち、子規の強靭な精神に触れる思いがする。連載は同年9月17日の第127回まで、ほぼ休みなく続いた。2日後の9月19日未明、子規は34年11カ月の生涯を閉じた。(2016年3月14日参照)
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- 2016年05月04日 『サッチャーが英国初の女性首相になる(1979 昭和54年)』
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*マーガレット・サッチャー(1925-2013)がイギリスの首相に就任したのは、1979年の今日のことだった。彼女にたてまつられた「鉄の女」の異名は、普通 Iron Lady という英語で紹介されるので、元から英語で名付けられたものと思いがちだが、実は違う。「原語」はロシア語である。以下、『読売新聞』2012年6月6日付けに載った連載物「指導者考」第1回から引用する。《サッチャー氏の代名詞となった「鉄の女」はソ連(当時)の軍事紙の命名。共産主義を「人間の自由を否定する体制」と糾弾してやまない同氏への蔑称だった。だが「サッチャー氏は呼称を気に入った。実際、鉄の意志は氏の強みだった」と元首相補佐官チャールズ・バウエル氏が振り返る。政界は男の世界で、女は見下された。「サッチャー氏はいつも臨戦態勢で、同僚らを論戦でねじ伏せ、自分の信念を通した。弱みを見せれば男たちに始末されてしまっただろう」という》。引用ばかりになってしまったので、同氏に関するトリビアをふたつご紹介して本欄をしめくくる。その1。英語の thatch は 「屋根をふく」の意味の動詞。だから thatcher は「屋根ふき職人」である。ご先祖がほんとに屋根をふいていたかどうかは定かでないが。その2。爵位制度が残るイギリスでは、国家に功労のあった人物には女王から各種の位が贈られる。サッチャー氏に贈られたのは「男爵」!位だった(正確には「Baroness=女男爵」である)。
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- 2016年05月03日 『ブルーノ・タウトが来日する(1933 昭和8年)』
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*タウト(1880-1938)はドイツの建築家。母国では、労働者階級のために良質な集合住宅を設計するなどの実績を持つ俊英だったが、ナチス政権の弾圧を受けて1933年の今日来日し、3年ほど滞在した。京都、仙台などを経て群馬県高崎に落ち着き、ここで2年以上の時を過ごした。タウトを高崎に招いたのは実業家・井上房一郎(群馬交響楽団の創立者)であり、市郊外の少林山達磨寺境内にある洗心亭がその住みかとして提供された。この間タウトは、建築の設計や工芸品の制作などに携わったが、伝統的な日本建築の美を称揚する『日本美の再発見』を著したことで有名である。この本は桂離宮を高く評価したことで日本社会から極めて好意的に受け入れられ、タウトには「日本文化の擁護者」というオーラがそなわることになった。こうしたタウト崇拝に対しては当時から批判があり、作家・坂口安吾は、外国人に日本美を「発見」してもらって喜んでいる日本人のおめでたさを笑っている(「日本文化私観」)し、建築史家・井上章一は、桂離宮讃美は意図的につくられたものであると主張し、タウトを批判的に紹介している(『つくられた桂離宮神話』講談社学術文庫)。タウトは1936年(昭和11年)で日本滞在を切り上げてトルコのイスタンブールに渡り、2年後にその地で死去した。