旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年06月11日 『田中角栄の「日本列島改造論」が発行される(1972 昭和47年) 』
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*1972年の今日、日刊工業新聞社から発行された田中角栄著『日本列島改造論』は、当時通産大臣だった田中が政権構想として上げた「のろし」だった。発行日6日後の6月17日には、佐藤栄作首相が引退を表明。自民党総裁選に勝利した田中が7月7日、首相に就任するのだから、まことにタイミングがよい。1964年以来7年以上続いた官僚的な佐藤栄作内閣に飽きていた国民は、高等小学校しか出ていない田中に清新な魅力を感じ「今太閤(いまたいこう。貧しい農民から天下人となった太閤秀吉の再来、の意)」ともてはやしたから、『日本列島改造論』は一躍ベストセラーとなった。その内容は、日本各地に新工業都市を整備し、それらを高速交通網で結んで工業の地方分散を図ることにより、産業と文化と自然が融和した地域社会をつくり出し、日本全体を均等に発展させるというバラ色の構想であった。こんなことが実現したらすばらしいだろうなあ、と思う反面、きれいにできすぎていてかえって現実味が薄いという印象も受けた。田中内閣はこの構想に基づく政策を次々に打ち出したが、それによって起こるかもしれない弊害や副作用に対する対策をとらないまま開発が推し進められたため、過剰な土地投機を招き、「狂乱物価」と呼ばれた高率のインフレ(74年卸売物価31.3%上昇)が起こって社会が大きく混乱した。田中は74年暮れ、退陣を余儀なくされる。
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- 2016年06月10日 『国立西洋美術館が開館する(1959 昭和34年) 』
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*「カラヴァッジョ展」が開かれている東京・上野の国立西洋美術館を訪れた。道路から望むと、「カレーの市民」や「考える人」(ともにロダン作)など、超有名な彫刻作品が並ぶ前庭の向こうに、緑色の壁面を持つ本館が、コンクリートの円柱の上に横たわっているのが見える。その柱と、それらに支えられた1階の吹き放ちの空間(現在はほとんどふさがれているが)は、ともに「ピロティ」と呼ばれ、ル・コルビュジエが唱えた建築様式の特徴である――このことは最近、この建物が「ル・コルビュジエの建築作品」の一つとして世界文化遺産に登録される運びとなったことを伝える報道で知った。今までは、館の中にある絵や彫刻にばかり目を配っていたが、今回は入館する前に、建物そのものをじっと見つめた。この美術館はそのル・コルビュジエが設計し、弟子の前川国男、坂倉準三、吉阪隆正が建築を監督したもので、主に「松方コレクション」と呼ばれる美術品を所蔵・展示している。「松方」とは、川崎造船所の経営者だった松方幸次郎のこと。1910年代から20年代にかけて、ヨーロッパで大量の美術品を収集した。第2次大戦の開戦により、フランスに残留していた作品は同国の管理下に置かれたが、戦後、講和条約締結後に寄贈返還を受けた。その際フランス側がつけた条件の一つが、専用美術館の建設だったのである。1959年の今日、上野の森で開館式が挙行された。翌60年5月14日から7月10日まで「松方コレクション名作選抜展」が開かれたのをはじめ、数々の大規模な展覧会が行なわれ、美術愛好家を堪能させてきた。
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- 2016年06月09日 『有島武郎が女性記者と情死する(1923 大正12年) 』
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*〈ありしま・たけお〉は白樺派の作家。作『カインの末裔』『生れ出づる悩み』など。《武郎は無類の美形である。その美貌(びぼう)は日本の近代文学者のなかで屈指であり、長男行光は日本映画界の人気スター森雅之(もりまさゆき)となった。生まれがよく、性格は純正求道(ぐどう)的で、人にやさしく、米国ハーバード大学に籍をおいた秀才で、北海道に農園を持っているというのだから、絵に描いたような貴公子である。ヨーロッパ各地を歴訪し、絵はうまく、帰国後は大学教授になり、弟は有島生馬(いくま)と里見弴(とん)である。財に恵まれ、才に恵まれ、容貌に恵まれ、そのうえ偉ぶらない自省の人であり、現在でも、これほど男の条件が揃(そろ)っている人はちょっと見当たらない》。以上は嵐山光三郎『文人悪食』からの引用だが、梶井基次郎の風貌をけちょんけちょんにけなした(2016年3月24日)のと同じ人が、武郎のことを書くとこうなる。かなり重いイケメン愛好症らしい。それはともかく、武郎はたしかに女性に持てた。いや、持てすぎた。40歳を前に妻安子と死別すると、武郎のまわりには女性たちが群がった。有名人では神近市子、与謝野晶子、望月百合子などの面々で、枚挙にいとまがない。数年間は女たちを遠ざけていた武郎だったが1923年、『婦人公論』記者の波多野秋子が現れたとき、事態が変わった。秋子の猛烈な求愛にあって武郎も陥落、ついに肉体関係を結ぶことになる。秋子の夫からの強硬な抗議と脅迫があったことなどから、2人は死を選ぶ。軽井沢の別荘でともに縊死をとげたのは、その年6月9日のことであった。このとき武郎46歳、秋子30歳(いずれも数え年)。
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- 2016年06月08日 『「憲法問題研究会」が第1回総会を開く(1958 昭和33年)』
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*自民党政府は1956年、内閣に「憲法調査会」を設置した。委員は50人(国会議員30人、学識経験者20人)以内と定められたが、社会党がこの会の目的が憲法改悪にあるとして反対したため、初めての総会は翌57年8月13日、同党に予定の10委員を空席として開催することを余儀なくされた。このような情勢を危惧した学者グループが、憲法の基本原理を国民に明らかにすることを目的につくった自主的な組織が「憲法問題研究会」である。1958年の今日、その第1回総会が開かれた。この会の発起人は、大内兵衛(財政学・法政大総長)、茅誠司(かや・せいじ。物理学・東京大総長)、清宮四郎(憲法学)、恒藤恭(つねとう・きょう。法哲学)、宮沢俊義(憲法学)、矢内原忠雄(やないはら・ただお。経済学・元東大総長)、湯川秀樹(物理学・ノーベル賞受賞)、我妻栄(わがつま・さかえ。民法学)で、当時の学界を代表する最高の知識人が結集した。50人以上の会員がいた時期もある。政治闘争には直接かかわらず、研究会や講演会などの学問的な活動を行なった。1976年まで長く活動したが、会員の高齢化などにより解散した。その足跡は、会としてまとめた『憲法を生かすもの』、『憲法と私たち』、『憲法読本』上下(いずれも岩波新書)でたどることができる。最近出た研究書としては邱静『憲法と知識人―憲法問題研究会の軌跡―』(岩波書店)がある。
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- 2016年06月07日 『医学者ベルツが来日する(1876 明治9年)』
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*東京医学校(東大医学部の前身)から教師として招かれた弱冠27歳のドイツ人医学者エルヴィン・フォン・ベルツは1876年4月、日本に向けライプチヒを発った。長い航海の末6月7日、横浜港で初めて日本の土を踏む。以来29年、東京(帝国)大学教師と宮内省侍医として日本にとどまった。いま東京大学の構内にはベルツ(と同僚スクリバ)の胸像がたち、付属病院を見守っている。ベルツは日本人荒井花を妻とし、一男一女をもうけた。「蒙古斑」の命名者としても知られるベルツだが、「ベルツ水(すい)」を思い出す人もいるだろう。「ベルツ水」は国語辞典にも載っていて、《皮膚の荒れを防ぐ化粧水。▽明治時代に日本に在住したドイツ人Bälzの処方》と説明されている(岩波国語辞典)。しかし最近はあまり聞かないので、もうすたれたのかと調べてみたら、今でもちゃんと売られていて、ネット通販でも買うことができることを知った。ベルツはまた、草津や伊香保の温泉水の効能を調べ、医学的利用を推奨した人でもある。それを記念して、群馬県草津町にはベルツ記念館という施設がある。ベルツと妻・花のことをもっと知りたい方は、『ベルツの日記』(岩波文庫)や眞寿美・シュミット=村木による『[花・ベルツ]への旅』(講談社)などを読まれるといいだろう。
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- 2016年06月06日 『第2次大戦の「ノルマンディー上陸作戦」が始まる(1944 昭和19年) 』
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*ドイツ軍に占領されたフランスの奪還を目指し、連合国軍17万5千が、北西部ノルマンディー海岸に殺到したのは、1944年の今日のことだった。ドイツ軍の強力な反撃に会ったものの、作戦は成功し、戦局に一大転機がもたらされることになる。有名な写真家ロバート・キャパはカメラマンとしてこの作戦に参加し、彼の傑作の一つとされる作品を残した。「波の中の兵士」と呼ばれるこの写真である。上陸用舟艇から浅瀬に降りたものの、ドイツ軍の激しい銃撃のため、一歩も進めず、《缶詰に詰められたイワシのよう》(キャパ『ちょっとピンボケ』川添・井上訳)になって波間に伏せているしかない米軍兵士を写した1枚である。沢木耕太郎は、この写真の見どころを次のように説明している。《よく見ると、兵士の顔の前には貝殻の散らばる砂浜があり、顔の下には砂浜に到達した波が引いていこうとしているところが写っている。背中のザックの向こうに見えるのは恐らくブーツを履いた足である。水の中を歩いているとしたら、ブーツ海面から見えるはずはない。/キャパは兵士と同じように浜に伏せた状態から、振り向き、「敵」に背を向けながら写真を撮っている》(『キャパの十字架』文春文庫)。この兵士は、写真を撮られた直後、ドイツ軍の機関銃に撃たれて負傷する。彼を助け上げた2人の男のうち1人は《肩に記者章をつけ、首にカメラを掛けている》。兵士は《ぼんやりする頭で、こいつはいったいこんなところで何をやっているのだろうと思ったという》(同書)。どうもそれがキャパだったようだ。
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- 2016年06月05日 『「高校三年生」で歌手・舟木一夫がデビューする(1963 昭和38年)』
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*「赤い夕陽が校舎をそめて‥‥」で始まる『高校三年生』は1963年の今日発売された舟木一夫のデビュー曲。今でもカラオケで歌い継がれているが、歌っているのはオジサン、オバサン以上の世代が多く、若者にはあまり人気がない。だが、発売当時の人気は圧倒的で、詰め襟の学生服姿で歌う舟木一夫は一躍国民的スターとなった。歌詞(丘灯至夫作詞)は、高校を出て「離れ離れになろう」としている「クラス仲間」に、「道はそれぞれ別れても/越えて歌おうこの歌を」と呼びかける内容で、ステレオタイプながら極めて健全。明るいけれど、どこかセンチメンタルなメロディー(遠藤実作曲)が、人々を魅了した。高校3年生を歌った歌がこんなにヒットすることは現在ではまず考えられないが、1963年といえば大学進学率がまだ20%程度だった時代である。地方の高校を出た若者が団体列車に乗って大都会に就職する「集団就職」も盛んに行なわれていた。だから、当時の若者にとって高校3年は、学園生活最後の大切な年だったのである。いま自公政権の中枢にいる菅義偉(すが・よしひで)官房長官も60年代に秋田県の高校を出て東京で就職した少年の一人だった。菅氏も若い日に『高校三年生』を歌ったことがあるはずである。どんな歌か聴いてみたいという方は、こちらのサイトでどうぞ。
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- 2016年06月04日 『「御真影」の府県への下賜が始まる(1873 明治6年) 』
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*〈ごしんえい〉とは「天皇(・皇后)の写真」という意味だが、普通の人が自分で写した写真はそう呼ばない。国家によって撮影された公の肖像写真のみが、そう呼ばれた。明治憲法下に、臣下からの願いを受けて下賜され、礼拝の対象として扱われた「聖なる写真」である。1873年、奈良県令〔今の奈良県知事にあたる〕四条隆平は、天皇の写真を「拝戴〔はいたい=いただく〕して、新年、天長節等の祝日に之を政庁に奉掲し、県民ならびに管民をして瞻拝〔せんぱい=仰ぎみて拝む〕せしめんと欲し」て、宮内卿にその下賜を申請した。6月4日、この願いが許され、奈良県に下げ渡されたのが「御真影」の各府県への下賜の初めである。同じ年の11月には、すべての府県への下賜が決まった。多木浩二『天皇の肖像』(岩波現代文庫)によると、新聞『日新真事誌』は12月5日付けの紙面でこう書き、それを歓迎している。《去月二十八日、我が天皇陛下の御影写真を以て、毎府県へ御下付相なりし由、‥‥往時、天皇は九重の深宮〔皇居〕に在(ま)しまして、国内の人民絶えて竜顔〔お顔〕を拝することなく、‥‥今や府県の願ひにより、至尊の写真を下し賜ふ。余等思ふ、府県にては、人民と倶(とも)に拝観、今日の昭代〔太平の世〕無量の聖恩を感謝すべきなり》。「御真影」は、のちには全国の学校にまで行き渡り、祝祭日にはそれを拝礼し、教育勅語を奉読する儀式が執り行われた。第二次大戦後、文部省の通達により回収され、ひそかに「奉焼」されたとのことである。
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- 2016年06月03日 『佐藤栄作・元首相が死去する(1975 昭和50年) 』
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*第61-63代の首相を務めた佐藤栄作は、山口県田布施町の裕福な酒造家の息子として生まれ、第五高等学校(熊本)から東京帝国大学法学部に進み、旧鉄道省・運輸省の高級官僚を経て政界入りした。どう見ても庶民的な人ではない。それを知ってか知らずか、総理在任中の佐藤は、時として一般人に寄り添うかのようなポーズを見せることがあった。その一つが、就任2年後の1966年9月22日の常盤平団地(千葉県松戸市)視察である。佐藤は2DKと3Kの棟を見学したり、商店街を訪問したりして、住民との交流を図った。しかし、車でさっと乗りつけた佐藤に対し、交通機関の不便さを嘆く主婦たちからは《新京成や常磐線にのってきて欲しかった》と不満の声があがったと、団地新聞は書いている。もっとも佐藤もだてに車に乗っていたわけではなく、この日の日記に次のように記した。《道路が悪い。子供の施設が団地は急を要す。ショッピングセンターで主婦連と一問一答。大変な人気で、一部<共>の心配があった様だが、更にその要なし。至極成功。代表的部屋どりを一、二、視察》。自分の「人気」に気を遣い、視察が「成功」したことを無邪気に喜ぶようすがほうふつとして、興味深い。<共>は「共産党」の略号(原文では「共」の字を丸で囲んである)。日本共産党の活動に細心の注意を払っていたことが分かる。佐藤は1964年から72年まで2798日間、政権の座にあり、戦後最長の記録を打ち立てた。今日6月3日は、74歳で亡くなった佐藤の命日である(以上は、原武『団地の空間政治学』〈NHKブックス〉の記述をもとに、筆者が再構成した)。
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- 2016年06月02日 『東京両国の(初代)国技館が開館する(1909 明治42年) 』
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*東京の国技館の所在地は、大きく分けて筆者流にいうと(1)回向院(えこういん)時代(1909~)、(2)蔵前(くらまえ)時代(1954~)、(3)横網(よこあみ)時代(1985~現在)の3期でそれぞれ微妙に異なる。今日6月2日は(1)の初代国技館が回向院の境内に完成し、開館式が行なわれた日だから、国技館記念日ともいうべき日である。回向院というのは、墨田区両国2丁目に今もある浄土宗の寺で、明暦の大火(1657年)の焼死者10万人を埋葬した所だが、江戸時代から境内で相撲の興行が行なわれていた。長く簡易な小屋掛けで行なわれていたのを、専用の屋内施設を建設して常設館としたのが(1)の初代国技館である。辰野金吾の設計によるドーム型の建築で、1万3千人を収容した。(2)の国技館は、初代が第2次大戦後アメリカ軍に接収されたための代替え施設だった。回向院から北に1kmほど離れた隅田川の対岸、現在の蔵前2丁目に建設され、1984年まで使用された。(3)の現国技館は、旧両国貨物駅の跡地に建設された巨大な施設で、コンサートなどにも利用できる多目的ホールである。ここは正式には横網1丁目で(1)の国技館より300mほど北にずれているが、広い意味では両国にあるので、(1)と(3)の国技館はともに「両国国技館」と呼ばれる((2)は「蔵前国技館」といった)。
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- 2016年06月01日 『日本社会党首班の片山哲内閣が成立する(1947 昭和22年) 』
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*1947年3月31日、吉田茂首相が衆議院を解散したことにより、旧憲法下の「帝国議会」はその歴史を閉じた。それを受けて4月25日に行なわれた第23回衆議院総選挙では、これまで第3党だった日本社会党が一躍第一党に躍り出る(獲得議席は社会143、自由131、民主124、国民協同31、共産4)という異変が起こる。当時、社会党の中央執行委員だった荒畑寒村はその勝因を次のように分析している。《国民が戦後のブルジョア内閣の無能無策にあき、殊に吉田内閣のインフレ政策による生活難に苦しんで、漠然ながらも清新な政府の出現を待ち望んだためである。そこへ社会党が、〔‥‥〕十六ヵ条の政策を引っ提げて現われ、そのいわば政治的処女性の魅力が国民にアッピールしたからに外ならない》。だが、当時の社会党は《雨にも打たれず風にも揉まれず、日陰の桃の木みたいにポーっと大きくなっただけで、幹も枝も堅まってはいない》状態だった。つまりこの選挙は、まだ政権を取る覚悟もできていない政党を第1党の座につけてしまったのである。再び荒畑を引用すると、《だから、選挙の結果を知ったとき、本来なら大白〔たいはく。大きな杯のこと〕をあげて祝わなければならぬ筈の委員長片山哲君は、「弱った」と嘆息したといわれる》。5月20日に召集された第1特別国会は同23日、片山哲を首相に指名したが、議会の3分の1の勢力では社会党単独での組閣はできない。結局、民主、国民協同の両党と連立を組むことになる。組閣が成り、片山首相以下、芦田均外相、三木武夫逓信相らの顔ぶれが確定したのは、1947年6月1日のことであった(《 》内は『寒村自伝』から)。
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- 2016年05月31日 『戦後の学制改革で「国立大学」が発足する(1949 昭和24年)』
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*第2次大戦後の学制改革まで、日本の国立大学は「官立大学」と呼ばれていた。その中核をなしたのは、総合大学である「帝国大学」9校(北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州と京城〈現ソウル〉、台北)であり、それに医科大学(千葉、熊本など6校)をはじめとする単科大学を加えた20数校しか、官立大学はなかったのである。私立大学はもっとたくさんあったが、大都市部に集中していたから、大学のない県は珍しくなかった。戦後は一転して大学教育を大衆化する方針がとられ、各県に最低1つの新制「国立大学」が置かれることになった。「国立大学」は、大都市の旧官立大学を再編したり、地方都市の師範学校や工業、商業、農業等の専門学校ほかを集約したりしてつくった69校でスタートした。それが、「国立学校設置法」が公布された1949年の今日のことなのである。これで、大学のない県は1つもなくなり、大学で学ぶ若者の数は激増した。(ただし、沖縄は事情がことなる。琉球大学はアメリカの施政下で、1950年5月22日に開学した。)弘前大学、長崎大学などでは今日5月31日が、横浜国立大学、岐阜大学などでは明日6月1日が、それぞれ開学記念日として祝われる。何か特別な行事を行なう大学もあることだろう。
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- 2016年05月30日 『東郷平八郎が死去する(1934 昭和9年) 』
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*海軍大将東郷平八郎は、明治時代の日露戦争の英雄だが、何と昭和前期まで生き、1934年の今日、86年4カ月の生涯を閉じた。60歳を前にしてロシアのバルチック艦隊を壊滅させるという壮挙を成しとげた男の「その後」を追ってみよう。1905年(明治38年)には海軍の中央統帥機関・軍令部の長となり09年まで務めた。この間07年には伯爵の位を与えられている。1913年(大正2年)には、天皇の最高軍事顧問である元帥となった。さらに、翌14年から21年まで、皇太子(後の昭和天皇)の教育に当たる東宮御学問所の総裁を務めた。「海軍の大御所」のみならず、皇室からも重く用いられる国家枢要の人物として遇されたのである。その威勢は80歳を超しても衰えず、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議に際しては、軍縮に反対する勢力(加藤寛治、末次信正ら)を支持した。死の前日、侯爵となり、国葬を受けて東京の多磨霊園ほかに葬られた。このように東郷は、日本海海戦という最強の成功体験をバックに、天皇制国家の強化発展にむけて力を尽くしたが、それを延長していったところに1945年の敗戦があったところがいたましい。いま東京で東郷をしのぶ場所といえば、墓所のほか、渋谷区にある東郷神社と、千代田区の東郷元帥記念公園がある。前者は、若者が集まる原宿の竹下通りのすぐ近くにあるが、東郷を神として祭る神社である。後者は、もと東郷邸のあった土地が自治体に寄贈されてできた公園である。段差のある土地をうまく利用して子どもの遊具などが配置され、ビルの谷間にのんびりした雰囲気の漂う空間を作り出している。
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- 2016年05月29日 『美空ひばりが生まれる(1937 昭和12年) 』
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*戦後の歌謡史に不滅の足跡を残した美空ひばり(本名・加藤和枝)は1937年の今日、この世に生をうけた。彼女がハマっ子であることはよく知られているが、港の見える中心街の生まれかというと、そうではない。彼女が生まれ育ったのは、中心街から南南西へ4kmほど離れた磯子区滝頭(たきがしら)という、海からそう遠くはないが内陸の街である。口の悪い竹中労にいわせると、そこは《横浜の場末。商店街と住宅街の入りくんだ、ごみごみした下町だった》(『完本 美空ひばり』ちくま文庫)。最初の大ヒット「悲しき口笛」で、ひばりはこの土地の情景をこう歌った。《丘のホテルの 紅い灯も/胸のあかりも 消えるころ‥‥》(詞・万城目正)。普通に聞くと、丘の上の普通のホテルが目に浮かんでくるが、それじゃあこの歌の真実はわからないと教えるのは平岡正明である。彼によると「丘のホテル」は《米軍のものだ》。《停電しきりの当時、丘の上の米軍用ホテルは自家発電を使って煌々と倨傲(きょごう)していたのであり、それがひばりの生れ育った横浜滝頭の大岡川の右手であればプリンスホテル、左手に見えればフランス山から続く本牧の丘ということになるが、いずれにしてもそれは敗戦国の下町を見下ろして輝いていた》(『横浜的 芸能都市創成論』青土社。地理的にちょっと間違っているような気もするが)。以上は、『読売新聞』2014年11月29日付けの記事「昭和時代第4部」37(福永聖二、時田英之、田中聡記者)をもとに、筆者が再構成した。
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- 2016年05月28日 『堀辰雄が死去する(1953 昭和28年)』
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*堀辰雄(1953年の今日死去)が1943年に発表した「浄瑠璃寺の春」に、こんな場面がある。《阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。/うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色の九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。/「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。/「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。/「何本あるのかしら? 一本、二本、三本‥‥」/「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で捥(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」/「そうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」》堀の分身とおぼしき「僕」は、妻と少女との会話を《実によくしゃべる奴だなあとおもいながら》ぼんやり聞いているのだが、《それにしてもまあ何んという平和な気分がこの小さな廃寺をとりまいているのだろう》という感懐を抱く‥‥。豊かな印象を誘う一場面である。妻と少女とのやりとりが生きているのはもちろんだが、「僕」と妻との間の、つかず離れずの関係がいい。これは、成熟した中年夫婦でなければ醸し出すことのできない雰囲気である。その意味で、この作品は若い人には十分な鑑賞が難しく、ある程度年をとってから読み直すことによって、いぶし銀のような輝きを放つようになる。
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- 2016年05月27日 『神戸から下関までの鉄道が全通する(1901 明治34年) 』
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*JR山陽本線の大半が民営の鉄道会社によって敷設されたと聞くと、「えっ」と驚く人がいるかもしれない。この線の神戸・下関間は、「山陽鉄道会社」という会社が建設したものである。この会社は1888年(明治21年)、三井財閥の中上川彦次郎らによって神戸で設立された。そしてまず同年、兵庫・明石間が開通し、すぐに姫路まで延長された。翌89年には兵庫・神戸間が完成して官設鉄道(現JR東海道本線)と接続する。そして西へ岡山、三原(現・糸崎)、三田尻(現・防府)と延長し、1901年の今日、ついに馬関(ばかん、現・下関)までが全通したのである。この山陽鉄道という会社は積極的な経営方針で知られ、様々な新サービスを繰り出して利用者の拡大に努めた。たとえば食堂車。1899年(明治32年)5月、日本で初めて食堂車を連結した急行列車を走らせて世間を驚かせた。寝台車も山陽鉄道が日本で初めて導入した。こちらは1900年4月のことである。また、日本最初の鉄道ホテルを開設、経営したのも山陽鉄道であった(旧山陽ホテル。1902年開業)。この「進取の精神」は、当時瀬戸内海で盛んだった海運(船による人や物資の輸送)に対する競争意識のたまものであったといわれる。山陽鉄道は、JR東北本線などの基礎を築いた日本鉄道会社とならび、日本有数の規模を誇ったが、1906年(明治39年)の鉄道国有法により国有化され、短い歴史を閉じた。
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- 2016年05月26日 『木戸孝允(桂小五郎)が死去する(1877 明治10年)』
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*ある種の人たちが持っている、本名以外の別の名前。俳優や歌手の芸名、作家のペンネームなどがそれである。一般にはこちらの名前だけが使われるから、本名はほとんど知られることがない。二葉亭四迷の本名・長谷川辰之助はちょっと立派だが、江戸川乱歩の本名が平井太郎だと知ると何だかがっかりで、知らない方がよかったと後悔したりする。ところが歴史的には、人生の各ステージで違った名前を使い分け、それらがみな有名な人もいる。明治の元勲木戸孝允(きど・たかよし。1833年生まれ)、別名・桂小五郎など、その代表例であろう。「桂小五郎」からは「フットワークの軽い剣客」的な若々しいイメージがわいてくるが、「木戸孝允」の方は「明治政府の偉い人」という老成した印象が強く、どちらも捨てがたい。意図して使い分けていたのだとしたら憎い演出である。実態はどうだったのだろう。調べてみると意外なことに、生まれたときの木戸は和田姓であり、養子に入った先が桂という家だった。30代まで桂小五郎を名乗って尊王攘夷の運動に従ったが、1866年、33歳の年に、主君である長州藩主毛利公から木戸の姓を与えられ、下の名前も貫冶、準一郎を経て孝允と改めた。大まかにいうと、この人の名は江戸時代が桂小五郎、明治時代が木戸孝允だったということになる。もっとも木戸の命は短く、1877年5月26日、43歳9か月で死亡している。だから木戸孝允の名で活躍した期間は10年もなかったのである。
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- 2016年05月25日 『「広辞苑」初版が発行される(1955 昭和30年)』
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*戦前に書かれた日本語を読むと、「‥‥のやうに」とか「ゐるでせう」とかいった旧仮名遣いに違和感を覚える人が少なくないだろう。蝶々が「てふてふ」だったり、観光が「くわんくわう」だったりすると確かに面食らう。しかし、これらの言葉を仮名書きする場面は実際には少なく、漢字で書けば仮名遣いの違いは隠れてしまう。だから、漢字を多く使った文章で旧仮名遣いが表に出るのは、動詞の活用語尾その他の一部分に限られるのである。それを最大限に利用して書かれた文章がここにある。〔 〕内に筆者が一部の漢字の読み仮名を補ったが、これらの旧仮名が隠されているのである。《いまさら辞典回顧〔くゎいこ〕の自序でもないが、明治〔めいぢ〕時代の下半期に、国語学言語学を修〔をさ〕めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被〔かうむ〕りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入〔しんにう〕したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両〔りゃう〕先進の、辞書編集法〔へんしふはふ〕およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった》。実はこれ、岩波書店発行の国語辞典『広辞苑』初版の、新村出による「自序」の冒頭なのである。新仮名遣いに反対だった新村はこの文章を、旧仮名(本心)でも新仮名(見せかけ)でも読めるよう工夫して書いたとされる。そんなトリッキーな序文を掲げた『広辞苑』初版は、1955年の今日付けで発行された。
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- 2016年05月24日 『「年齢のとなえ方に関する法律」が満年齢を採用する(1949 昭和24年)』
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*昔よく年寄りが「戦後は歳を満で数えるようになったのでやりにくい」などといっていたのを思い出す。満年齢は、1949年の今日公布された「年齢のとなえ方に関する法律」が翌50年1月1日に施行されて以後、急速に普及した。ただし、戦前の日本に満年齢という考え方がなかったわけではない。それどころか、「年齢計算に関する法律」という1902年(明治35年)にできた法律があって(これは今でも生きている)、満による年齢の計算法が定められていた。さらにさかのぼれば、1873年(明治6年)に太政官が出した布告が「これからは年齢を『幾年幾月』と数えなさい」と教えていたから、明治以後の日本の「官」は、ずっと「満」の考え方を採用していたといえる。ところが国民の間では、江戸時代以来の「数え年」が支配的で、それは第2次大戦後まで変わらなかった。敗戦後、政府が改めて法律を作り、満年齢の使用を促した主な理由は、民主化のためというより、当時政府が行なっていた物資配給の正確な実施など、行政の効率化であったとされる。ちなみに「数え年」とは、生まれたばかりの赤ちゃんをすでに「1歳」と考え、生後初めての元日が来ると(たとえそれが翌日でも)「2歳」とし、以後正月が来るたびに1つずつ加えていった年齢のことである。だから、満年齢に比べると1,2歳「年長」になる。
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- 2016年05月23日 『日本映画で初めての「キスシーン」が現れる(1946 昭和21年)』
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*戦前の日本では、外国映画でキスシーンが出てくると、唇と唇が近づいたところでフィルムが突然カットされ、次の瞬間にはもう離れてゆくという何ともはがゆい形で上映されていた。外国映画でさえこれだから、日本映画では、キスシーンそのものが撮影されなかった。敗戦後はそれが一変し、1946年には日本映画にもキスシーンがとり入れられるようになる。キスシーンが初めて現れた作品は、普通、この年の今日公開された『はたちの青春』(佐々木康監督)であるとされる。この映画は、幾野道子演じる章子と大坂志郎演じる啓吉という相愛の2人が、親の反対で結婚できずに苦しむ姿を描いた恋愛ものである。観た人の話によると、章子と啓吉が唇を重ねる場面が2回あるだけだが、それでも当時としては破天荒なこと。映画館は連日満員になったといわれている。敗戦から1年もたたないこの時期、堂々とキスシーンが見られるようになったことで、人々は平和を実感したことであろう。なお、岩波書店の『近代日本総合年表』(第2版)は、この映画について、「初めて接吻場面を見せる」と記している。「接吻場面」とは何とも古めかしい表現だが、書き手が老人なのでこういう言葉づかいをしたのではなく、当時はまだ「キスシーン」という言葉が一般的になっておらず、むしろ「接吻場面」の方が普通であったことをそれとなく教えているのかもしれない。