旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年07月01日 『東海道本線が全通する(1889 明治22年) 』
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*東海道本線は、1889年の今日、全通した。といっても、現在と比べると、起点と経路に違いがある。当時の起点は新橋駅であった。1882年(明治5年)に新橋・横浜間で日本最初の鉄道が走ったが、東海道本線はそれをそのまま東端として利用したから、起点はやはり新橋駅に置かれたのである(終点は当時から神戸駅)。1914年(大正3年)、現在の東京駅が完成して、初めて起点が移った。なお、ここでいう新橋駅とは、今のJR新橋駅ではなく、現在では高層ビルが立ち並ぶ汐留地区の一角にあった(駅舎が復元され、公開されている)。次に経路の違いだが、最も目立つのが、国府津駅(神奈川県)・沼津駅(静岡県)間である。両駅間には大きな山塊が横たわっているため、北に大きく迂回した。それでもこのルートは勾配がきつく、難所となっていたので、両駅をトンネルでつなぐことになり、難工事の末1934年に完成したのが丹那トンネルである。もとの東海道本線は現在、JR御殿場線となっている。もう一つの経路の違いは、京都市周辺である。現在の東山トンネル、新逢坂山トンネルは1921年に完成したもので、それまでは逢坂山隧道とよばれた旧トンネルを使用していた。1964年に東海道新幹線に主役の座を譲り「在来線」となった東海道本線の歴史を振り返ってみた。
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- 2016年06月30日 『徳富蘆花がトルストイを訪ねる(1906 明治39年) 』
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*明治・大正期の小説家・徳富蘆花は1906年の今日、心酔していたトルストイをヤースナヤ・ポリャーナの自邸に訪ねた。《良(やや)久しくして人の近寄る気はひあり。つとめて重き瞼を開けば、一人の老翁我側(わがかたはら)に立てり。庭園の掃除に来し百姓爺(ムウジクおやぢ)かと思ひしは一瞬、まがふべくもあらぬ翁の顔に、刎ね起きるより早く「おゝ、君はトキトミ君」と翁は歯ぬけて子供の如く可愛ゆき口もとに笑を崩づして手を差伸べ、余は「あゝ、あなたは先生」と緊(ひし)と握りし其手(そのて)は大にして温かなりき》。《「〔‥‥〕先生の健康如何」/「甚(はなはだ)宜(よろ)しからず。余の死期は遠からずと覚(おも)ふ。皆死を恐る。然れども死は解脱(リベレーシヨン)也、恐るべきにあらず」/翁の顔を見れば、顔の色は紅を帯びたれど、髪髯(ひげ)灰白の色となりて、眼少しうるみ、歯ぬけ、思ふにまして老ひたり。翁は満七十八なり。我等は今立話したる彼(かの)腰掛の辺を去りて、翁は前に立ち、余は従ひて、径(こみち)を下り、また一つある小池の辺を話しつゝ行く。白つぽき鼠フランネルのだぶだぶしたる着物に、黒き皮の帯して、縁広の白き夏帽をかぶり、自然木のステツキをつきたる姿は何処までも画(え)に見文に読みたる其まゝの翁也》(蘆花著『巡礼紀行』170コマ中央付近以降)
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- 2016年06月29日 『滝廉太郎が死去する(1903 明治36年) 』
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*東京・千代田区のとある街角に「滝廉太郎居住地跡」という石碑がたっているのを見つけ、思わず立ち止まった。説明板にこうある。《滝廉太郎は、この交差点から西に約一〇〇メートルほどの所(一番町六番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治二十七(一八九四)年ごろから三十四(一九〇一)年四月まで居住していました》。これは、廉太郎の音楽学校入学からドイツ留学までの時期とだいたい重なる。その意味で大変重要な土地である。《今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました》。この碑は「居住地」から100メートルも離れたところにたっているので、「ここで」といえず、「そこで」といわざるをえないのがかわいそうだが、それがかえって説明に熱意と精細さを加えていて、好ましい。きっとマンションの正面には石碑をたてるスペースが確保できなかったのだろう。それはともかく、廉太郎のその後の人生は、1901年4月にドイツ留学の途に就いたものの、現地で結核を発症して1年で帰国。その翌年の6月29日に死去するという、あわただしくも悲惨な転回をとげる。たった23年10カ月の短い生涯だったが、美しい作品の数々が今でも歌い継がれ、弾き継がれているのが救いである。
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- 2016年06月28日 『サラエボ事件が起こる(1914 大正3年) 』
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*1914年の今日、バルカン半島の一都市サラエボで起きたオーストリア皇太子夫妻暗殺事件のことをサラエボ事件といい、第1次世界大戦のきっかけとして知られる。しかし、学校でちょっと習っただけでは、事件がなぜこの地で起き、それがなぜ大戦争につながったのかが飲み込めず、消化不良のまま大人になっている人が多い。実はサラエボは、事件の6年前、一方的にオーストリア=ハンガリー帝国(両国が同じ君主を戴いて作った一つの国)に併合されたボスニア=ヘルツェゴビナの首府で、反政府運動の中心地でもあった。この地域の住民の多くはイスラム教徒のムスリムや正教徒のセルビア人で、暗殺者ガブリロ・プリンツィプもセルビア人だった。彼らは、オーストリア=ハンガリー帝国の支配を受けることを嫌い、隣国セルビアなどへの帰属を望んでいたのである。だから、住民感情からいえば、この事件は愛国的行動と見なしうる。一方、帝国側から見れば、明らかなテロリズムである。皇太子夫妻を殺害されたオーストリア=ハンガリー帝国は怒り狂い、「テロリスト」を手引きしていると見たセルビアに宣戦を布告。前者にドイツやイタリアが、後者にイギリスやフランスがついて参戦した結果、世界を巻き込み、4年も続く大戦争に発展してしまったのである。
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- 2016年06月27日 『鈴木三重吉が死去する(1936 昭和11年)』
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*〈鈴木三重吉〉を辞書で引くと、こんな風に紹介されている。《小説家・童話作家。広島県出身。東大卒。夏目漱石門下。『桑の実』など叙情的作品を発表後、児童文学に転じ、1918(大正7)雑誌『赤い鳥』を創刊。同誌には多くの文学者が芸術的な創作文学などを発表し、日本の児童文学の興隆に不朽の功績を遺した》(『角川新版日本史辞典』)。これを読めばだれしも、「えらい人だなあ。いい人だったんだろうなあ」と思う。このうち「いい人」については、実は疑問符が付く。三重吉は大酒飲みであった。夏目漱石夫人・鏡子の「思ひ出」を聞こう。《鈴木さんは御酒が好きで、のんで気持ちよく眠くでもなるならよいがのめばくだをまき、人につかかってこなければ承知のできないのには、だれもこまらされた事です。正月元旦と云(い)えばいの一番に私の家へ来てくれるのです。朝の十時頃から三四時頃迄(まで)つぎからつぎとくる人を相手に飲むので、ひる過ぎにはきまってだれかにつかかりはじめるので、おこるやら又なく事もあり、いろいろと変わるのです。しまいにはもう面どうになって早く帰してしまおうと思い、車をたのみ玄関迄つれ出して〔‥‥〕、やっと乗せて門を引き出す、やれやれほっとしたものです》。こんな人が、珠玉のような作品を集めた『赤い鳥』を主宰していたとはとても思えないが、それが人間の面白さである。今日は三重吉が53年の生涯を閉じた日。今年で没後80年になる。
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- 2016年06月26日 『元東大総長・山川健次郎が死去する(1931 昭和6年) 』
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*東大・安田講堂の裏手に、1基の胸像がたっている。意志の強そうな老人が、まっすぐ前を見つめる像で、台座には「山川健次郎像」とある。だが、それを見ても多くの人は「山川? だれだろう」。それではかわいそうなので、命日の今日、この人を紹介することにする。山川健次郎は幕末の1854年(安政元年)、会津藩家老の子として会津若松で生まれた。戊辰戦争の際は、白虎隊に属したこともある。1871年(明治4年)、国費留学生としてアメリカに渡り、イェール大学で物理学を学び1875年に帰国。その後、できたばかりの東京大学教授となり、1901年には東京帝国大学総長に就任する。在任中、日露戦争の講和をめぐり、政府の軟弱外交を非難した法科大学(現在の法学部にあたる)の戸水教授が桂太郎政権によって一方的に休職を言い渡されるという事件が起きる。これは明らかな大学自治の侵害であったから、法科大学をはじめ全学の教授たちが猛抗議。山川は政権と教授たちの板挟みになって大いに悩み、自ら辞職を申し出る(結局、文部大臣の首が飛び、戸水も復職する)。そんな蹉跌もあったが、山川はさらに九大総長を務めたあと再度東大総長となり、一時は京大総長も兼ねるなどして、日本の文教の振興に大きな足跡を残した。妹は大山巌元帥に嫁いだ捨松である。(付記 胸像は現在、周辺の工事のため、見づらいか、全く見られない可能性がある。)
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- 2016年06月25日 『天文学者・麻田剛立が死去する(1799 寛政11年)』
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*月面のクレーターには、偉大な天文学者や科学者の名が付けられている。日本人の名も三つ付いているが、そのうち一番古いのが「アサダ」である。その名のもとになった〈あさだ・ごうりゅう〉は、1799年のこの日(旧暦では5月22日)に亡くなるまで、空を見上げない日はなかったという天性の天文学者であった。幼少期から、日光によってできる影が少しずつ移動してゆくことを克明に観察していたという。当時の宝暦暦(ほうれきれき)には載っていなかった日食を予言したことで知られる。計測器も自前で製作、ケプラーの第3法則を独自に発見し、日食や月食が、部分であるか皆既であるかまで正確に予測した。反射板での観測が主流の時代に近代的な望遠鏡を手に入れ、月面のスケッチも残した。月面には、重い疱瘡を患った人の顔のようなでこぼこがあり、各へこみには半分影で見えない部分があると述べている。のちに改暦を命じられるが辞退し、弟子の高橋至時(よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)を推薦した。辞退の理由は高齢によるとされるが、自身の作成した暦が完璧ではないことに気付いていたためともいわれる。主な麻田剛立関連書籍として、『伊能忠敬』(岩波書店 1917年)、『近世日本科学史と麻田剛立』(雄山閣 1983年)、『月のえくぼを見た男 麻田剛立』(くもん出版 2008年)がある。(村上明子執筆)
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- 2016年06月24日 『「当世書生気質」の刊行が始まる(1885 明治18年) 』
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*坪内逍遥の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』は、1885年の今日発行された。もっとも、いっぺんにまとめて発行されたのではなく、この日に出たのは第1分冊で、86年1月までに17分冊が出て完結した。版元は晩青堂である。よく「日本近代文学の先駆け」などといわれるので難しい小説と思われがちだが、明治東京の書生(学生)たちの風俗を写実的に描いたもので、会話文も多く、用字用語に慣れれば面白く読める。以下、高知市民図書館近森文庫本の「第二回」の一部(画面の最後の行以下)を、現代風に和らげてお目にかける。《(書)ヤ須河。君も今帰るのか(須)ヲヽ宮賀か。君は何處へ行つて来た(宮)僕かね。僕はいつか話をした。ブツク〔書籍(しょもつ)〕を買ひに。丸屋までいつて。それから下谷の叔父の所(とこ)へまはり。今帰るところだが。尚(まだ)門限は大丈夫かねエ(須)我輩のウヲツチ〔時器(とけい)〕ではまだテンミニツ〔十分〕位あるから。急(せ)いて行きよつたら。大丈夫じやらう(宮)それじやア一所にゆかう(須)オイ君。一寸(ちょっと)其(その)ブツクを見せんか。幾何(なんぼ)した歟(か)(宮)おもつたより廉(れん)だったヨ。といひながら得意顔に。包をとくとく取出(とりいだ)すは。美イトン氏の。普通学識字典なり》
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- 2016年06月23日 『国語辞書『言海』の出版祝賀会が開かれる(1891 明治24年)』
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*『言海』(「げんかい」または「ことばのうみ」)は、国語学者・大槻文彦(1847-1928)によって編まれた日本初の近代的国語辞書である。1875年に文部省に入った大槻は、国家の事業としての国語辞書作りを命じられる。今では考えられないことだが、この大事業は大槻一人に任された。助手は置いたものの、ほぼ独力で11年間かけて編集を成し遂げた大槻の精力は驚嘆に値する。原稿は1886年(明治19年)3月にいったん完成するが、国による出版はできず、民間の出版となる。1889年(明治22年)5月15日に第1冊(「あ」から「お」の部まで)を出し、最後の第4冊(「つ」の部以下)を出して完結したのは1891年4月22日のことであった。この年の今日、それを祝う会が、芝の紅葉館(今の東京タワーの場所にあった集会場)で開かれた。伊藤博文(当時枢密院議長)、勝海舟(同枢密顧問官)、榎本武揚(同外務大臣)といった大物も出席した「国家的」パーティーである。高田宏による大槻伝『言葉の海へ』(新潮社)は、冒頭でこのパーティーの様子を詳しく、印象的に描写している。『言海』は、ちくま学芸文庫に写真版で収録されている。有名な「ねこ」(猫)の語釈などを往時の姿で読めるのはありがたい。
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- 2016年06月22日 『「ナンジ人民飢えて死ね」のプラカードが不敬罪で起訴される(1946 昭和21年) 』
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*敗戦のため日本中が食糧難に陥っていたこの年5月19日、東京で約25万人が参加する「飯米獲得人民大会」(通称「食糧メーデー」)が開かれた。その際、参加した共産党員が掲げたプラカードの文言「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」が政府側から問題視され、6月22日に検察庁が不敬罪で起訴するに至った。この事件を「プラカード事件」という。日本国憲法公布前のこの時期、不敬罪はまだ生きていたのである。しかしこの時期はまた、占領下で急速な民主化が進んでいた時代でもあり、GHQ(連合国軍総司令部)も、不敬罪は占領政策に反すると考えていた。11月2日の一審判決は、不敬罪はもはや効力を失ったとして名誉棄損罪を適用して有罪とした。1947年6月28日の控訴審判決は、不敬罪を認めたものの、日本国憲法公布(一審判決の翌3日)に伴って出された大赦令により免訴とした。被告側はさらに上告して戦ったが、1948年5月26日、最高裁判所は控訴権が消滅しているとの理由でこれを棄却した。不敬罪はこの裁判が続いていた1947年11月15日施行の改正刑法により消滅したから、この事件は日本歴史の上で、不敬罪によって起訴された最後の事例となった。
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- 2016年06月21日 『教育家フレーベルが死去する(1852 嘉永5年)』
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*幼稚園のことを英語で kindergarten(キンダーガートゥン)という。だがこれは明らかにドイツ語で、本来なら children’s garden というべきところである。なぜナマのドイツ語が、英語の日常語になっているのだろう。もとになったKindergarten(キンダーガルテン)というドイツ語は、ドイツのF・フレーベルが開いた幼児のための学校の名前として、1840年に彼によって造語された。「子どもの庭」という名称には、「庭に生える植物のように自由に育ってほしい」という願いがこめられているという。この学校の実践は瞬く間に世界に広がったが、それらの多くは原語ドイツ語のままか、それに似た名前で呼ばれた。日本では「幼稚園」と漢字語にされてしまったが、現代の幼稚園でもフレーベルの思想と方法はしっかり生きている。筆者は明治20年代に創立された古い幼稚園に通ったが、入園直後、遊戯室にころがっている巨大な積み木を見て驚喜した。一辺の長さが50センチほどある直方体もあり、どれも堅牢な木材で作られているのがみごとだった。あとで聞くとそれは恩物(おんぶつ)と呼ばれる遊具で、フレーベルが創案したものであった。「恩物」はドイツ語 Gabe の訳で、「神様からの贈り物」の意(英語の gift にあたる)。そのフレーベルは1852年の今日、満70歳で亡くなった。
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- 2016年06月20日 『二葉亭四迷の「浮雲」が発行される(1887 明治20年) 』
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*二葉亭四迷の代表作の一つ『浮雲』(第1編)は、1887年の今日、当時の一流出版社・金港堂から出版された。ところが、その本の表紙は「坪内雄蔵著 新編浮雲」となっていて、二葉亭の名が見当たらない。本来は二葉亭と師・坪内雄蔵(逍遥)の共著となるはずだったのに、版元がそれでは売れないからと、坪内の新作として出したためである。それでも、中を開いて「はしがき」をちゃんと読めば、最後に「二葉亭四迷」とあるから、坪内の名義貸しであると分かったはずである。その「はしがき」を、途中からはしょって読んでみよう。〔 〕は筆者による省略と補いである。《是はどうでも言文一途の事だと思立〔おもいたっ〕ては矢も楯もなく〔‥‥〕春の舎先生〔坪内のこと〕を頼み奉り欠硯〔かけすずり〕に瀧の月の雫〔しずく〕を受けて墨摺流〔すみすりなが〕す空のきほひ〔=競い〕夕立の雨の一しきり〔‥‥〕書流せばアラ無常始末にゆかぬ浮雲めが艶〔やさ〕しき月の面影を思ひ懸なく閉籠〔とじこ〕めて黒白〔あやめ〕も分かぬ烏羽玉〔うばたま〕のやらみつちや〔「やらみっちゃ」は「むちゃくちゃ」の意〕な小説が出来しぞやと我ながら肝を潰して此書の巻端に序するものは 明治丁亥〔ひのとい。この年の干支〕初夏 二葉亭四迷》
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- 2016年06月19日 『初めて「父の日」が祝われる(1910 明治43年) 』
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*1909年(明治42年)のアメリカ。ワシントン州に住むソノーラ・ドッド(Sonora S. Dodd)という27歳の女性が、スポケーン市の教会での説教で、その数年前に提唱された「母の日」のことを聞いた。すると彼女の心に、「それなら『父の日』もあっていいのに」という考えが芽生える。16歳で母を亡くし、父親の手で育てられた(彼女の下に、乳飲み子を含む5人の弟たちもいた)ソノーラは、一家を支える父にいつも感謝していたのである。彼女は教会に、「私のお父さんの誕生日6月5日を、国中のお父さんをたたえる日として祝ってほしい」と提案する。牧師らは話し合いの結果、日をちょっと変えて、6月の第3日曜日を「父の日」とし、翌1910年から実施することを決めた。この年6月の第3日曜日は19日だった(今年と同じである!)。この日、同地の教会で行なわれた礼拝が「父の日」を祝う初めての機会となった。これが国中の評判になり、1916年にはウッドロー・ウイルソン大統領が「父の日」のアイデアを称賛する。50年後の1966年には、ジョンソン大統領が「父の日」を公的に認証する布告を出し、72年にニクソン大統領がそれを法的に追認したため、今では「父の日」が全米の記念日となっている。
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- 2016年06月18日 『「ひめゆり学徒隊」に解散命令が出る(1945 昭和20年) 』
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*「ひめゆり学徒隊」は、第2次大戦末期、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒らによって編成され、陸軍病院での看護活動にあたった。生徒らは1945年3月末、那覇郊外の南風原(はえばる)に置かれていた同病院に動員され、働き始めたが、4月1日に沖縄本島に上陸した米軍の進撃を逃れ5月25日、南部へ撤退する。行き先は摩文仁村伊原(現・糸満市)周辺のガマ(自然の洞窟)群であった。生徒らは砲弾の飛び交う極めて危険な状況下で、手術の手伝いや看護だけでなく、食料の運搬、水汲みや汚物処理などに従事したが、米軍が間近に迫った6月18日夜、解散命令が出される。今後は壕を出て、各自の判断で行動せよというのである。翌19日未明、脱出寸前の第3外科壕に米軍のガス弾が撃ち込まれ生徒38人が死亡したのをはじめ、解散命令が出された後、107人の生徒が死亡(自決を含む)している。それも含め、ひめゆり学徒隊222人のうち、123人が命を落とした(引率教員13人も殉職)。現在、上記の第3外科壕のほとりに「ひめゆりの塔」がたつ。「ひめゆり学徒隊」の生き残りの女性らは戦後、戦争の悲劇を語り継ぎ、反戦平和を訴えるため「ひめゆり平和祈念資料館」を設立した。
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- 2016年06月17日 『「大森貝塚」のモースが来日する(1877 明治10年) 』
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*アメリカ人の動物学者 E・S・モースは、海産動物の研究のため1877年の今日、横浜港に着き、初めて日本の土を踏んだ。後日、東京に向かうため汽車に乗ったモースは窓外の景色を眺めていたが、大森駅を過ぎたあたりで、線路わきの土手から目が離れなくなる。土の中に、小さな白いかたまりが見えるのだ。「貝塚ではないか‥‥」。そう直感したモースは、この年9月と10月に現地で調査を行ない、多数の貝殻のほか、土器や石器、人骨などを発掘した。これが縄文時代後期・晩期の遺跡「大森貝塚」発見のいきさつである。モースはこの年創立された東京大学の動物学教授になり、1879年に「Shell Mounds of Omori」という英語の論文を書いて大森貝塚を紹介した(矢田部良吉による和訳「大森介墟古物編」がある)。当時の日本人には貝塚に関する科学的知識がなく、モースによる貝塚の発掘と研究とが、日本における近代的考古学研究の幕開けとなったといわれる。モースが発見、発掘した場所は、東京都品川区大井6丁目の東海道線西側であるとされ、今そこには大森貝塚遺跡庭園があり、「大森貝塚」碑がたっている。そこからほど近い大田区山王1丁目にも「大森貝墟」碑のたつ小区画があり、両地とも国の史跡に指定されている。
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- 2016年06月16日 『甲府の工女らがストライキで譲歩を勝ち取る(1886 明治19年) 』
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*1886年の6月、当時製糸業の中心地だった甲府で起きた「雨宮製糸争議」は、日本初の工場労働者によるストライキとして歴史に残る。今日6月16日は、ストが終結し、工女らが工場主から譲歩を勝ち取った日である。過酷な労働に苦しむ工女たちは自然発生的に職場放棄を行ない、寺に立てこもって戦った。当時の『山梨日日新聞』が争議の背景を解説した記事を読んでみよう。原文の8行目以下を現代風に書き改めるとこうなる。《‥‥工女は4時30分に出場し、退場7時30分にて、昼食時間30分を除いたところが、その労働時間は実に14時間の多きに居る。さて工女連中、14時の労働はさほど苦には思わねど、当時は4時30分にはまだ夜が充分に明け離れず、多勢呼び集えて無事に行けばよし、さなくば厭浥〔ゆうゆう=ぬかるんだ〕たる行露途中にて如何なる悪漢に出遇うかも知れず、さりとて夜の明くるを待ち、時間が後るれば、同盟の厳しい御規則で容赦なく賃銭を引き去られ、ことに子持ちの婦人は、時間通りに出勤しても20分時間の賃銭を引き去られ、長糞、長小便は申すに及ばず、水1杯さえ飲む隙のないのに工女連中は腹を立て、雇い主が同盟規約という酷な規則を設け、妾〔しょう=わたし〕らを苦しめるなら、妾らも同盟しなければ不利益なり‥‥》
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- 2016年06月15日 『安保反対闘争で東大の女子学生が死亡する(1960 昭和35年) 』
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*日米安全保障条約(1951年締結)は10年の期限付きだったが、岸信介内閣はこれを改定し、期限を延長する方針を打ち出した。1960年1月19日、訪米した岸首相は新安保条約に調印。国会では5月19日の安保特別委員会に続き、翌日未明の本会議でも、自民党が条約批准案を強行可決した。民主主義を無視したこの暴挙に国民の怒りは爆発、国会には連日抗議デモが押し寄せるようになる。そして6月15日、安保阻止国民会議が開いた第2次実力行使の過程で、東大生樺美智子(かんば・みちこ)さんが死亡するという痛ましい事件が起きた。樺さんは当時、東大文学部学生自治会の副委員長で、全学連(全国学生自治会総連合)主流派の活動家だった。樺さんともう一人の東大女子学生(のちの歴史学者・長崎暢子氏)は、国会南通用門から構内に突入したデモ隊の一員だったが、「女子は後尾につけ」という指揮者の指示を振り切って最前列近くに入り、機動隊の暴行を受けて死亡したものである。実は樺さんの父で中央大学教授だった俊雄氏も同じころ、学者グループのデモ隊の一員として国会周辺にいた。のちのインタビューで、《そのうちに、救急車がしきりに走り出しました。途中で私は娘の乗った救急車に会っているかもしれないですね》と語っている(『昭和史探訪6』角川文庫)。樺さんの死亡時刻は午後7時10分ごろ。満22歳だった。
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- 2016年06月14日 『柳田国男の「遠野物語」が発行される(1910 明治43年) 』
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*《この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来りこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ》。1910年の今日、出版された『遠野物語』の冒頭である。「遠野(とおの)」とは、岩手県中南部の地方名。現在の遠野市とその周辺である。郷土研究を志した〈やなぎた・くにお〉が、遠野出身の佐々木喜善(ささき・きぜん。上の引用文中の「鏡石」は号)と東京で知り合い、遠野地方に伝わる説話を聞き書きしてまとめたのが『遠野物語』である。1910年の出版当時、柳田は数え年36歳。佐々木は同25歳で、早稲田大学に籍を置き、文学者としての活動を始めていた。本書は柳田民俗学の門出となったとされるが、出版自体はささやかなもので、たった350部の自費出版だった。なお、引用文最後に出てくる「陳勝呉広(ちんしょう・ごこう」とは「先駆け」の意味。
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- 2016年06月13日 『太宰治が入水自殺する(1948 昭和23年) 』
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*無頼派の作家として知られる〈だざい・おさむ〉は、この日の深夜、愛人・山崎富栄と東京近郊(現・三鷹市)の玉川上水に身を投げ、自殺した。2人の死体は6日後の19日に発見されるが、この日は奇しくも太宰の39回目の誕生日だった。投身と発見の現場はいずれも井の頭公園近くで、山本有三記念館や三鷹の森ジブリ美術館などがある一帯である。そのあたりを訪れ、今も流れる玉川上水を見たことのある人もいらっしゃるだろうが、今の上水は水量が少なく、飛び込んでもとうてい自殺できそうにない。太宰らはどうして死ねたのか、という素朴な疑問がわいてくる。その疑問に、フリーライターの内田宗治氏はこう答えている。《結論からいえば、昭和40年〔1965年〕、新宿にあった淀橋浄水場が閉鎖され、玉川上水からの送水が停止になるまで、三鷹付近の玉川上水には、現在の水量の約30倍、1日30万~40万トンの水が流れていた。太宰治が、むらさき橋付近(〔‥‥〕三鷹駅のやや下流)で流れに飛び込んだのは昭和23年で、当時はまだ轟々と水が流れていた》『凸凹地図でわかった!「水」が教えてくれる東京の微地形散歩』(実業之日本社)。当時の玉川上水は、都心に飲料水を送る幹線だったのだ。「淀橋浄水場」跡地は、都庁などのある新宿高層ビル街に変わっている。
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- 2016年06月12日 『アンネ・フランクが生まれる(1929 昭和4年)』
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*筆者は高校の英語教師だったとき、『アンネの日記』を何度も教材にとり上げた。初めのうちは、アンネを何十年も前に死んだ「歴史上の人物」ととらえていたのだが、ある日、彼女の生まれた1929年が日本の昭和4年であることに気付き、考えが変わった。アンネは、昭和3年生まれの筆者の母と同年代だったのである。年はとっているがちゃんと生きているわが母の「生」と、アンネの「死」との対比に、筆者は胸を突かれた。アンネは「歴史上の人物」なんかじゃない。いま生きていてもおかしくない「現代の人」なのだ。その人が1945年の初めに、16歳以降の生存を拒まれた。それが戦争であり、ホロコーストであったのだ。筆者はそう教えるようになった。――アンネ・フランクは1929年6月12日、ドイツのフランクフルトで、実業家の父オットーと母エーディトの二女として生まれた。4歳の時、ナチスのユダヤ人弾圧を逃れて一家でオランダに移住、アムステルダムで暮らし始めるが1940年、ドイツ軍がオランダを占領。ここでもユダヤ人狩りが始まったため、1942年7月6日から、父の会社の社屋の一角に家族で身を隠す。会社内外の人々に支えられたこの隠れ家生活は2年以上続いたが1944年8月4日、露見して全員が連行される。家族と切り離されたアンネと姉マルゴットは1945年の早春、ドイツ北部、現ニーダーザクセン州のベルゲン・ベルゼン収容所で、チフスのため相次いで亡くなった。もし生きのびていれば、今日で87歳になったはずである。