旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年07月21日 『「開拓使官有物払下げ事件」が起こる(1881 明治14年) 』
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*北海道の開拓と経営のため、明治政府は「開拓使」という官庁を設け、1872年以降、当時の金で1500万円を投入して数々の事業を展開した。10年目を迎えた1881年の7月21日、開拓使長官で参議(政府首脳)でもあった黒田清隆は、それらの事業の多くを民間に払い下げる方針を明らかにする。具体的には、開拓使の所有する倉庫、官舎、地所、船舶、工場、牧場、鉱山などを、たったの39万円で、しかも無利息30年賦という破格な条件で、黒田と同じ薩摩藩出身の五代友厚らが設立した関西貿易商会などに払い下げるというものであった。この件が諮られた閣議では、左大臣の有栖川熾仁(たるひと)や参議・大隈重信らが反対したが、政府としては払い下げを承認する。しかし『東京横浜毎日新聞』が7月26日から3日連続で「関西貿易商会の近状」という社説を掲げてこれを暴露すると世論が沸騰、特に自由民権派からは強い憤激の声があがった。8月25日には沼間守一、肥塚竜、福地源一郎といった人々が東京・新富座で反対演説会を開き多くの聴衆を集めたのをはじめ、反対運動が盛り上がる。結局、政府は払い下げを中止せざるを得なかった。以上が「開拓使官有物払下げ事件」の概略であるが、この時期の政府と政商との「絆」はかくも強固だったのである。今もあまり変わっていないのかもしれないが。
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- 2016年07月20日 『人類が初めて月面に到達する(1969 昭和44年) 』
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*「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)」。47年前の今日、人類史上初めて月面に達したアメリカの宇宙飛行士アームストロングがはいた言葉である。すべて日常の易しい言葉で語られているが、それだけにみんなの心にしみわたる歴史的名言となった。アームストロング、オルドリン、コリンズの3宇宙飛行士を乗せた宇宙船アポロ11号は1969年7月16日13時32分、ケネディ宇宙センターから打ち上げられ、38万kmを旅して同20日20時17分、月面「静かの海」のサビンクレーター南西約10kmの地点に着陸した。そして翌21日2時56分、まずアームストロング船長が月面に一歩を踏み出す。冒頭で引用した発言は、まさにその一歩が踏み出される寸前に彼の口から出たものである。続いてオルドリン操縦士も月面に立った。彼らが月面を歩くようすはテレビ等で全世界に送られ、重い宇宙服を着た人間がふわふわと浮き上がるように動く姿が人々に強い印象を与えた。乗組員らは月面活動2時間32分を含めて21時間36分月面に滞在し、岩石を採集したり、地震計など各種機器を設置したりしたのち、地球に帰還した。月面には「惑星地球の人間、ここに月面への第一歩をしるす。1969年7月、われらは全人類のため、平安のうちにここに到達した」と刻まれた銘板も残された(以上、文中の時刻は世界共通のUTCによる)。
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- 2016年07月19日 『初の女性大臣が生まれる(1960 昭和35年) 』
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*わが国の内閣に初の女性大臣が誕生したのは1960年の今日のこと。中山マサ・衆議院議員が池田隼人内閣の厚生大臣に就任した。2年後の1962年、近藤鶴代・参議院議員が同じ内閣の科学技術庁長官として入閣したが、以後は途絶え、70年代はゼロ。ところが1980年代以降どんどん増えて今日に至っている。筆者の調査によると、現在就任中も含め、これまでの女性大臣経験者は39人(一人で違う職を兼任したり、違う内閣で再任したりしたのは除いた実人数)である。以下、初入閣の年代順に敬称略で氏名のみあげる。1980年代は石本茂、森山真弓、高原須美子の3人。1990年代に入って山東昭子、赤松良子、久保田真苗、広中和歌子、浜四津敏子、田中眞紀子、長尾立子、石井道子、野田聖子、清水嘉与子の10人。2000年代は扇千景、川口順子、遠山敦子、小池百合子、小野清子、南野知恵子、猪口邦子、大田弘子、高市早苗、上川陽子、中山恭子、小渕優子、千葉景子、福島瑞穂の14人。2010年代は蓮舫、岡崎トミ子、小宮山洋子、稲田朋美、森雅子、松島みどり、山谷えり子、有村治子、丸川珠代、島尻安伊子の10人である。懐かしい「昔の名前」もあり、面白いリストだが、この行数で全員の名前が書ききれてしまったことで、女性大臣の少なさを改めて実感した。女性を大臣の座から遠ざけているのは、何なのだろう。
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- 2016年07月18日 『カラヴァッジョが死去する(1610 慶長15年)』
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*イタリアの画家カラヴァッジョは、近年日本でも大変有名になり、最近も東京・上野の国立西洋美術館で展覧会が開かれた。この人の描いた宗教画はドラマチックな臨場感にあふれていることで知られる。一例として『聖マタイの召命』を見てみよう。これは当時パレスチナの支配者だったローマ帝国の取税人(ユダヤ人からは蔑視されていた)を務めるマタイを、キリストが弟子に選んだ場面(『マタイによる福音書』第9章など)を描いた作品である。画面右端にいるのがキリスト、左端の若者(または1人おいた老人)がマタイであるとされるが、暗い収税所に差し込む光に照らされた人々の表情や衣装、手前後ろ向きの若者の動きのある肉体表現などに尽きせぬ魅力を感じる。実はローマの中心部、パンテオン近くにあるサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会に入ると、この絵と『聖マタイと天使』『聖マタイの殉教』の3部作がいつでも無料で見られる。筆者は昨年春、実際に足を運んで見てきたが、名画の前で実にぜいたくな時を過ごすことができた。ただし、薄暗いところにかけられているので、普通では細部がよく見えない。すぐ横にすえ付けられたスロットに硬貨を入れると、数十秒だけ明かりがともり、みんなが目を凝らす。こんな鑑賞法も一興であった。今日はカラヴァッジョの命日である。
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- 2016年07月17日 『経済白書が「もはや戦後ではない」と書く(1956 昭和31年) 』
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*「もはや戦後ではない」とは昔よく聞いたフレーズだが、「それ、出典は経済白書でしょ」という人と「中野好夫っていう人の言葉ですよね」という人がいて、どっちが本当なんだろうと悩んでいる人もいらっしゃるのではないか。結論からいうと両方正しいのだが、今日7月17日は1956年にこの文言を含む経済白書が発表された日なので、両者の関係をまとめておくことにした。このフレーズを最初に使ったのは、英文学者で評論家の中野好夫である。この年の『文芸春秋』2月号に書いた論文のタイトルがずばり「もはや戦後ではない」。それからおよそ半年後の7月17日、当時の経済企画庁が発表した経済白書(正式には「年次経済報告」。副題「日本経済の成長と近代化」)が、それを引用する形で「もはや『戦後』ではない」と書いたため、この言葉をさらに普及させることになった。白書の方の筆者は後藤誉之助という同庁課長である。一般の国民はこのフレーズを「苦しく貧しかった『戦後』がもう終わり、これからは世の中がどんどん豊かになっていくんだ」という意味でとらえた。しかし白書では、「復興」による成長から「近代化」による成長への転換の必要を説く表現として使われている。
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- 2016年07月16日 『板垣退助が死去する(1919 大正8年) 』
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*〈いたがき・たいすけ〉は名前の語呂もいいし、歴史教科書の写真で顔も売れているので、〈いとう・ひろぶみ〉と並んで明治の政治家としては超有名である。伊藤が藩閥政府の象徴みたいに見られるのに対し、板垣には「自由民権の闘士」というイメージが強い。特に「板垣死すとも自由は死せず」という名文句には引かれる人が多いだろう。これは1882年(明治15年)、自由党総理として遊説中、岐阜で刺客に襲われ負傷したとき叫んだ言葉だとされる。しかしどうもだれかの創作であるらしく、本当にそういったかどうかは、かなりあやしい。同じ年、政府筋の資金で後藤象二郎とともに半年にわたるヨーロッパ漫遊の旅に出たことからも分かるように、権力に対し融和的なところがあり、三つの内閣で内務大臣を務めてもいるから、今日風の「反体制」の人とはいえない。そんな板垣退助は1919年の今日、82年余りの人生を生き抜いて死んだ。墓は数カ所にあるが、東京のそれは、JR品川駅にほど近い品川神社の裏にひっそりとたっている。もとそこは東海寺という大きな寺の支院の境内だったのだが、支院が移転してしまい、墓だけが残ったという面白い経緯があり、一見の価値がある。
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- 2016年07月15日 『宝塚歌劇団の基礎が築かれる(1913 大正2年) 』
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*宝塚歌劇団は1914年に創設されたと書いてある文献もあるが、さらに源をたどっていくと、1913年の今日、小林一三(阪急電鉄の創始者)によって始められた「宝塚唱歌隊」という小さな少女合唱団に行き着く。その活動の舞台は、宝塚新温泉内の室内プールを改装した「パラダイス劇場」だった。「タカラヅカ」は、温泉地の客引きのための余興から始まったのである。同唱歌隊は同年中に「宝塚少女歌劇養成会」と改称し、翌14年4月1日から初公演を行なった。18年には東京・帝国劇場に出演する。19年、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)が創立され、その生徒と卒業生とからなる「宝塚少女歌劇団」がスタートした。1927年(昭和2年)に日本初のレヴュー『わがパリよ<モン・パリ>』(岸田辰弥演出)、30年には『パリゼット』(白井鉄造演出)を上演してヒットを重ねる。後者の挿入歌が有名な「すみれの花咲く頃」である。40年、「宝塚歌劇団」と改称。戦後の大ヒットは1974年初演の『ベルサイユのばら』(池田理代子原作、植田紳爾脚本・演出)である。宝塚歌劇団からは越地吹雪、淡島千景、音羽信子、鳳蘭、大地真央らの大スターが生まれ、わが国芸能史に輝く存在となった。
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- 2016年07月14日 『「パリ祭」――フランス革命が始まる(1789 寛政元年) 』
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*今日はフランス革命記念日。蜂起した民衆が、政治犯を収容するバスティーユ監獄を襲撃した日である。「パリ祭」ともいわれるが、これは日本だけの呼び名である。どうしてそういうようになったのか。――「映画」がからんでいるのである。1933年(昭和8年)、ルネ・クレール監督のフランス映画 Quatorze Julliet(カトルズ・ジュイエ=7月14日)が日本に輸入されたが、公開にあたり、興行会社が邦題を『巴里祭』としたのだった。さりげないこの題名が名訳だったこともあり、同作品は大ヒット、以来わが国ではフランス革命記念日を「パリ祭」と呼ぶ習慣が定着した。このように、かつて日本の映画産業には、洋画の原題を換骨奪胎し、味のある邦題を創造するという技巧的伝統があった。戦前では『望郷』(原題 Pépé le Moko、1939公開)、戦後では『哀愁』(同 Waterloo Bridge、1949。製作は1940)などの「名作」がある。ところがこの技は1970年代以降衰え、代わって原題をそのままカタカナで表記した邦題(『ポセイドン・アドベンチャー』1973、『タワーリング・インフェルノ』1975、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』1985など)が幅をきかせるようになったのは残念なことである。
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- 2016年07月13日 『優生保護法が公布される(1948 昭和23年) 』
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*この法律が存在したころは、産婦人科医院の前に「優生保護法指定医」と書かれた看板が出ていたものである。夕暮れの裏通りなどでそれを見かけると、医院の奥で何やらまがまがしいことが行なわれているような気がしてならなかった。同法第1条は、その目的の一つを「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」こととうたっており、そのための不妊手術や妊娠中絶を行なうことが許されていたからである。1948年の今日公布されたこの法律は、このように、障害や病気を持った子どもの存在を許さないという時代遅れの「優性思想」に基づくきわめて差別的な内容を含んでいた。このような法律が21世紀に存在できるはずがない。1996年(平成8年)に改正・改称され、「母体保護法」に生まれ変わっている。現在の第1条からは上のような文言が消え、法の目的が「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護すること」とされている。この分野についてはまだまだ多くの問題が残され、新たに生起してもいるが、ともかくも「優性保護」の時代よりは前進していることを確認したうえで、国民の英知を集め、多くの赤ちゃんが祝福されて生まれてくるような社会を築きたい。
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- 2016年07月12日 『日本初のラジオ本放送が始まる(1925 大正14年) 』
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*1925年の今日は、社団法人東京放送局(NHKの前身の一つ)が日本初のラジオ本放送を始めた日である。これに先立ち、同じ年の3月1日から「試験送信」が行なわれ、同22日からは「仮放送」に切り替わった。この段階の送信所は、当時芝区(現・港区)にあった東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身)である。一方、7月12日からの本放送は、同じ芝区内の愛宕山に新設された放送局から新鋭機器を使って行なわれた。今そこはビルの谷間のようになっているが、標高26メートルのこの山は(自然の地形としては)東京市街で最も高所だったので、電波を送出するには最適だったのである。現在その地にはNHK放送博物館があり、歴史を今に伝えている。このころの放送は朝9時に開始、5分間の「天気予報」ののち休みが入り、9時30分から「相場」(株式市況)と「物価献立」(内容不詳)が合わせて25分間あってまた休み、という具合に断続的ながら午後9時まで、計3時間50分間だった。番組のうち最長なのは「娯楽」(連続1時間10分)だが、その次を「相場」(のべ1時間)が占めており、「新聞記事」(ニュース。のべ45分)、「講演」(連続30分)がそれに続いた。以上は平日(月曜~土曜)の番組で日曜・祭日は異なるが、当時の放送に何が求められていたかが分かり、興味深い。
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- 2016年07月11日 『御木本幸吉が真珠の養殖に成功する(1893 明治26年) 』
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*今日市場に出回っている真珠の大半は天然ものではなく養殖されたものだが、今日7月11日は、1893年に〈みきもと・こうきち〉がその養殖に初めて成功した日である。といっても、いま普通に見られるまん丸い真珠ができたのではなく、このときできたのは半円殻付き真珠だった。三重県・鳥羽に生まれた御木本は1888年(明治21年)、ふるさとの海で真珠貝の養殖を始め、90年以降は、箕作佳吉(みつくり・かきち。動物学者)らの指導を受けて真珠そのものの養殖に挑戦する。初めは失敗の連続だったが93年7月11日、英虞湾の養殖地で初めて半円真珠を産出することに成功した。そして1905年(明治38年)には、ついに真円の真珠を作り出す。この技術は主に、母貝の体内に人工の核と、真珠質を分泌する細胞を挿入することから成る。御木本は特許によってしばらくの間、養殖事業を独占できたため巨万の富を得、1899年に東京・銀座に真珠店を開いたのを始め各地に販路を広げ、外国へも進出して「ミキモト・パール」として国際的な名声を博した。銀座の店は現在の株式会社ミキモトに成長し、4丁目の目抜き通りに本店を構える。養殖の舞台となった相島(おじま)は「ミキモト真珠島」と改称され、毎日多くの観光客・買い物客でにぎわっている。
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- 2016年07月10日 『改造社と中央公論社が「自発的廃業」を指示される(1944 昭和19年) 』
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*雑誌『改造』の1942年(昭和17年)8、9月号に掲載された評論家・細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」は、日本の大陸政策を批判し、共産主義を宣伝するものであるとされ、同誌は発禁、細川は検挙された。関係者が続々検挙される中で、押収された1枚の写真に当局が目を付けた。後列中央の細川を中心に、『改造』『中央公論』の編集者らが写っているものだが、これは細川の著書の出版記念の宴での記念写真である。ところが当局は、それを日本共産党再建のための謀議であったと決めつけ、検挙した7人に凄惨な拷問を加えて「自白」を引き出した。検挙は45年まで続き、最終的には数十名の編集者、研究者らが投獄され、獄中または出獄後に4名の死者を出した。いわゆる「横浜事件」である。事件のあおりで上記2誌の出版元、改造社と中央公論社は1944年7月10日、内閣情報局から「自発的廃業」を指示され、同月末で解散した。第2次大戦中、最大にして最悪の言論弾圧である。実はこの事件は現在にも尾を引いている。元被告に対する有罪判決はすでに効力を失ってはいるものの、記録がない(敗戦時、裁判所が焼却した)のを理由に再審が受けられなかったことを不当として遺族が起こした国家賠償請求を、横浜地裁は2016年6月30日、棄却したのである。遺族側は控訴して戦うと述べている。
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- 2016年07月09日 『森鴎外が死去する(1922 大正11年)』
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*今日は森鴎外の命日である。鴎外には有名な遺言状がある。死を3日後に控えた1922年7月6日、生涯の友・賀古鶴所(かこ・つるど。医師)を自宅に呼び、口述筆記させたものである。その一節に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」とあり、一人の男として死んでいきたいという鴎外のきっぱりとした遺志が感じ取れる。鴎外は賀古を枕頭に座らせ、苦しい息の中で遺言の一語一語を語り、賀古はそれを毛筆でしっかり書きとめたという。その遺言状(本物)を、だれでも肉眼で見ることができる。東京の文京区立森鴎外記念館に出かけると、鴎外のデスマスクとともに、それが展示されているのだ。当初納められた封筒も見ることができるが、その表書きは賀古の筆で「森林太郎言フ/賀古鶴所書ク」となっている。帝国大学出の医師ならこんなとき、「言フ」ではなく「口述」、「書ク」ではなく「謹書」などとするのが普通だと思われるのに、両人の親密な関係を反映してか、くだけた日常語なのは興味深い。この遺言は石碑となって、東京・三鷹の禅林寺と、島根県津和野の鴎外記念館に、それぞれたっている。ここに紹介するのは前者。
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- 2016年07月08日 『ペリーが浦賀に来航する(1853 嘉永6年)』
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*ペリーが日本に来たのが1853年だったことは、比較的多くの人が知っている。しかしそれが何月のことだったかになると、今度は多くの人が首をひねるだろう。実はペリーの来航は、旧暦の6月3日。今の暦では7月8日となる。この日の午後5時ごろ、浦賀沖に異形の外国軍艦4隻が現れ、測量をしたり、大砲を撃ったり(空砲だったが)し始めたので、海辺の人々は驚きあわてたという。それはそうだろう。砲撃を受けたり、兵士が上陸してきたりしたら一大事である。幕府の役人も相当おびえたようだ。それでも浦賀奉行所は与力以下数名を乗せた船を出し、応接にあたる。黒船に近寄った彼らは、フランス語で書かれた巻物(!)を広げ、退去を求める。それはアメリカ側にも分かったが、それ以外の「会話」がなかなか成立しない。互いに通じそうな言葉でがなり立てるのだが、ちっとも通じないのだ。双方困っているときに、日本側の蘭通詞(オランダ語通訳)が「余は和蘭語を話すことができる(I can speak Dutch. または I talk Dutch.)」と、なんと英語で叫んだ。日本語学者の清水康行氏は、《この記念すべき最初の英語発言》がアメリカ人の耳に入ったことが、以後オランダ語での会話が成立するきっかけになったというエピソードを紹介している(『黒船来航 日本語が動く』岩波書店)。
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- 2016年07月07日 『東京大学文献情報センター、開所する( 1984 昭和59年)』
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1970年代後半米国で進む学術情報データベースの整備を見て、1980年文部大臣の諮問を受けて学術審議会は学術情報システムの整備を答申した。これを受けて、学術情報流通を担う基盤的役割を担う組織として、学術情報センターの設置を目指した準備が始まった。1983年4月1日、同センターへの先駆的役割を果たす機関として、東京大学図書館学研究センターを改組・転換し、東京大学文献情報センターが設立された。ただし、同センターは同大学大型計算機センターと総合図書館に分散して業務を行う仮住まいの状態であった。そして、1984年のこの日、筑波大学大塚地区に独立の庁舎が設立された。1986年4月5日、いよいよ学術総合センターが同地で開設され、初代所長には、学術情報データベースの米国独占の危機を長く訴えてきた猪瀬博が就任した。同年、各大学図書館で書誌情報データベースを統一書式(MARC)により入力することで、書誌・所在情報を含む全国レベルの総合目録データベース(後のNACSIS-CAT)の提供を開始(データベース構築は1985年から)。1986年度から、自営パケット交換設備の設置と整備を進め、同年中には、東京・名古屋・京都・大阪の5大学が接続された。この学術情報ネットワークは、現在のSINETである。1987年4月から、上記の総合目録データベースを含む13種類の研究者向けオンライン情報検索サービスを開始。海外の論文全文・抄録データベースや科研費研究成果、学位論文抄録などが含まれる。2000年4月、学術情報センターを廃止・転換し、現在の国立情報学研究所となる。初代所長には、前出の猪瀬が就任するものの、就任11日目に73歳で逝去する。現在は、前出のサービスに加え、国内雑誌論文や科研費成果のデータベース、機関リポジトリポータルなどを提供し、国内の学術情報流通の基盤としてさらに重要な役割を果たすようになっている。
参考文献
「東京大学文献情報センターオープン」『ドクメンテーション研究』34(9),
418
「学術情報センターの発足」『ドクメンテーション研究』36(6),
315
内藤衛亮(1988)「学術情報センターの現状と展望」『日本農学図書館協議会会報』69,
1-7
根岸正光(1987)「学術情報センター・システム
-オンライン共同分担目録システムを中心に」『情報処理学会研究報告1987-IS-018』9, 1-10
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- 2016年07月06日 『画家・高橋由一が死去する(1894 明治27年) 』
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*明治初期の洋画家〈たかはし・ゆいち〉は、1828年3月20日(旧暦では2月5日)、江戸に生まれた。初め狩野派の日本画を学んだが、のち洋画の魅力に取りつかれる。幕府の洋書調所(ようしょしらべしょ。洋学研究教育機関)画学局に入り、川上冬崖の指導を受け、のちにはイギリス人ワーグマンに油彩画法を学んだ。ここまではみな江戸時代の話である。1873年(明治6年)には、東京・日本橋に画塾を開き、洋画の普及に努めた。この人の作品でもっとも有名なものの一つに「鮭」がある。新巻鮭を精細に描いた作品だが、露出した赤い肉と乾燥した皮の対比が強い印象を与え、一度見たら忘れられなくなる。これに類似した作品が複数ある。もう一つは「美人(花魁)」である。こちらは東京・吉原の売れっ子芸者・小稲を描いたもの。これまた強いインパクトのある作品だが、そのインパクトはもっぱら花魁のかんざしや着物の柄などから来ており、「美人」であるはずの小稲はどう見ても美しくなく、キツネみたいでグロテスクだ。事実、この絵を見せられた小稲は「ひどい!」と泣いて抗議したという。由一の関心は、「モデルの持つ本質」をとらえることにのみ注がれていて、美人に描こうという気はさらさらなかったのだろう。今日はその由一の命日。66年と3カ月の生涯だった。
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- 2016年07月05日 『日本最初の「号外」が発行される(1868 明治元年)』
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*1868年の今日(旧暦5月16日)の朝、江戸・上野山内には、前日の戦いで敗れた彰義隊士の遺体がまだ置き去りにされていた。この日付けで発行された『別段中外新聞』がその様子を生々しく伝えているが、これが日本の新聞が号外を出した最初といわれる。早稲田大学所蔵の原本の一部(4コマ目8-14行目、同19-20行目、5コマ目3-8行目)を現代風に書き直すと、次のようになる。《かくて此日も大雨止まず砲声屡々(しばしば)轟き火勢益々盛にして、老弱婦女難を逃れて道路にさまよふ者哀みの声街市に満つ。然(しか)れども皆狼狽して逃れ来れる者のみなれば、今日の様子を問へども一人として慥(たしか)に答ふる者無し。/出火の場所は上野山下湯島天神の辺広小路池の端仲丁下谷辺谷中辺、凡(およそ)五、六ケ処に火の手上り、すさまじき事いはん方無し》《火事は益々はげしく上野山内にも火の手起り、中堂御本坊悉く焼失す。宿坊も半ば焼失せしよし》《今朝上野辺より来りし者の話を聞けば、広小路片側焼失仲町大抵焼失したる由。山下は雁鍋の辺より東側の小屋敷焼失し、広徳寺前少々類焼す。/広小路辺より山内に死骸六十余人有り。其外(そのほか)火災に依て怪我せし者且双方の怪我人多く有るべし。追て委(くわ)しき報告を得て書載すべし》(文中「雁鍋(がんなべ)」は料理屋の名前)
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- 2016年07月04日 『上野戦争で彰義隊が敗北する(1868 明治元年)』
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*東京の上野は江戸初期、天海僧正の見立てによって、比叡山延暦寺の「写し」である寛永寺、琵琶湖のそれである不忍池などを配し、京都の霊力を移して江戸城の鬼門を守る聖地とされた。だから幕府滅亡の折、彰義隊はここに立てこもったのである。彼らが官軍と戦った上野戦争は、1868年の今日(旧暦では5月15日)行なわれ、その日のうちに敗北が決まった。翌16日、歌舞伎役者・3代目中村仲蔵(もちろん江戸っ子)がこわごわ現場に出かけて見分したところ、敗れた彰義隊士の死骸が何十体も転がっていた。《然かし官軍がたの死骸は一ツもな》い。《是みな夕辺(ゆうべ)のうちに運び取しならん。お手際といふべし》と、仲蔵は官軍をほめている(仲蔵自伝『手前味噌』)。これを引用した『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』(ちくま学芸文庫)で、建築史家の鈴木博之は《いかにも江戸っ子らしいあっさりした終戦の感慨がこも》っていると評し、次のように述べる。《この官軍の手際をほめて、江戸の人たちはその町を譲りわたしたのだった》。彰義隊は《上野という場所の意味を、徳川の歴史を込めて振り返ってみせ、その場所を自分たちの死に場所にすることによって江戸を官軍に譲り、江戸の中で上野が占めているとくべつな位置を教えたのだった》。(明日に続く)
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- 2016年07月03日 『中村彜が生まれる(1887 明治20年) 』
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*明治・大正期の洋画家・中村彜(つね)は、1887年の今日、現在の水戸市に生まれた。軍人を志したが病気で挫折、美術に転じて当時の一流校、白馬会研究所と太平洋画会研究所で研さんを積み、文展(文部省美術展覧会)・帝展(帝国美術院展覧会)で活躍した。レンブラント・ルノアール・セザンヌの影響を受け、優れた肖像画を描いたことで知られる。その一つ、「エロシェンコ氏の像」(1920)は、当時日本に滞在していたロシア人の詩人でエスペランティストのワシリー・エロシェンコを描いたもの。エロシェンコの人柄が文字通り透けて見えるような作品である。もう一つ有名なのが「田中館博士の肖像」(1916)である。こちらは、東京帝国大学教授でローマ字論者の田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)を描いたもの。物理学者の田中館は自分の姿がどう描かれるかは意に介さなかったが、手にしている計算尺が曲がって描かれているのだけは許せず、まっすぐに描き直させたという逸話がある。彜は東京・新宿で中村屋を営む相馬愛三・黒光夫妻の援助を受け、夫妻の娘・俊子を愛して結婚を申し込んだが、夫妻の反対にあって実現しなかった。俊子をモデルにした作品がいくつも残されている。結核を病んでいた彜は、1924年(大正13年)12月24日、37年5カ月という短い人生を閉じた。
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- 2016年07月02日 『上州安中藩で長距離競走「安政遠足」が行なわれる(1855 安政2) 』
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*上州(今の群馬県)安中(あんなか)藩主・板倉勝明(かつあきら)は学者大名として知られるが、同時に藩士の体育振興にもことのほか力を入れた。それを象徴する行事が、1855年の今日(旧暦5月19日)から数日間にわたって行なわれた「安政遠足」である。「遠足」は「えんそく」でなく「とおあし」で、今風にいえば長距離競走を意味する。具体的には、安中城から上信国境の碓氷(うすい)峠にある熊野神社までの30kmほどを一気に駆け上るもので、50歳以下の藩士のべ98名(実数は96名)が参加した。フルマラソンに比べれば距離こそ短いが、ゴールである旧碓氷峠との標高差は1000mに及ぶから、平地を出たあとは全部が「心臓破りの丘」みたいなルートだったにちがいない。ところで、この史実は長く忘れられていたが、1955年に発見された古文書で世に知られることになり、翌年には『まらそん侍』という映画(森一生監督)も作られた。脚本家・土橋章宏が「遠足」に取材して書いた『幕末まらそん侍』(角川春樹事務所)もある。一方、地元の安中市では1975年以降、毎年5月の第2日曜日に「安政遠足 侍マラソン」というイベントを開いている。すでに40回を超え、すっかり定着したが、特に仮装した人々が思い思いに走ることで知られる。