動詞のヴォイスに魅せられて(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
-
- 2022年09月27日 『12. 動詞のヴォイスに魅せられて:受身文研究のこれから 志波彩子(名古屋大学)』
-
12回にわたって連載してきました「動詞のヴォイスに魅せられて」も今回が最終回となります。最初はなるべく一般の読者向けに軽めの話で…と思っていたのですが,どんどん深入りして,相当に専門的な話になってしまいました。ここまで読んでくださったみなさん,本当にありがとうございます。
この連載では動詞のヴォイスについて,特に受身構文を中心に,自発や可能,中動態という現象を見て来ました。こうした意味が,ヴォイスの体系の中でどのように関わり合いながら広がっているかということを前回は見ました。今回は今後の受身研究に向けて,どんなことが未だ問題として残されているのか,ということを見ていきます。
受身の研究というのは本当に多くの研究の蓄積があって,もうこれ以上研究することなんかないんじゃないかと思うくらい研究されつくしている感じがありますが,それでもまだまだ未解決なことはたくさんあります。
例えば,「(はた)迷惑の意味はどのような条件で表れるか?」という問題があります。迷惑の意味というのは,間接受身が表す次の(1)のような意味です。
(1) 今日は,子供に一日中家にいられて,全然仕事ができなかった。
(2) 今日,学校で友達にからかわれて,嫌だった。
(1)の「家にいる」という動詞は,その意味に何ら攻撃性やマイナスの意味はないにも関わらず,受身になることで明確な「迷惑」の意味が出ています。これに対し,(2)の「からかう」という動詞は,動詞の意味自体がマイナスのもので,受身になったから迷惑の意味が出ているわけではありません。しかも,「友達にからかわれて」ははたで受ける迷惑(はた迷惑)ではなく,直接的な迷惑の意味になっています。このような意味の違いはどのように出るのでしょうか。
これは基本的には受身構文の文構造と関係しています。つまり,受身構文の主語が動詞の直接的な対象であれば直接的な被害・迷惑の意味になり,主語が動詞の取る項(補語)ではない場合には(はた)迷惑の意味が出る,ということです。(2)は「友達が私をからかう」という能動文のヲ格の直接対象が主語に立っているので直接的な被害の意味であるのに対し,(1)は「子供が家にいる」という元の文には現れない人=私が主語に立っているため,迷惑の意味が出るということですね。前者は直接受身で後者は間接受身です。
しかしながら,この対応は基本的には成立しているのですが,一部の動詞では直接受身であるにもかかわらず強い迷惑の意味が出るものがあります。例えば,
(3) 会社の前で山田さんに2時間も待たれて,迷惑だった。
(4) 昨日駅前で,友達に見られた。
のような受身構文です。これらの「待つ,見る」という動詞には,それ自体に攻撃性やマイナスの意味はないんだけれども,受身構文になることで,強い迷惑の意味が出る,というわけです。これは一般的には「インヴォルヴメント(巻き込まれ性)」という概念で説明されます。つまり,主語が,動詞が表す動作に直接的に巻き込まれていればいるほど迷惑の意味は出ず,巻き込まれ性が低いほど受身構文で迷惑の意味が出るということです。「待つ,見る」のような動詞は,直接対象を取るものの,動詞の表す事態にあまり巻き込まれていないということなんですね。
この説明はなんとなく「そうか,確かに」と思うところもあるものの,やっぱり万能ではありません。例えば,「招待する,話しかける」という動詞は確かに「待つ,見る」などに比べて対象の巻き込まれ性が高いので,受身になっても迷惑の意味は出ません。
(5) 昨日,先生のお家に招待された。
(6) 学校に行く途中,芸能人に話しかけられた。
これに対し,「先生が私たちを鎌倉に連れて行く」なども,事態に直接的に巻き込まれていますが,
(7) 私たちは,先生に鎌倉に連れて行かれました。
という文を留学生が書いたとしたら,迷惑の意味が出過ぎているので修正する必要があるでしょう。ここでは,(5)や(6)のような動詞と(7)のような動詞との間に,受身の主語の巻き込まれ性に関して違いがあるとは考えにくく,インヴォルヴメントの説明も万能ではないことが分かります。よって,どのような動詞や条件がある場合に受身の「迷惑」の意味が出るのかというのは,まだまだ解明されていない問題なんですね。
このほか,最近,わたしは受身構文と能動構文との「非対称性」に興味を持っています。みなさんは,受身構文は能動構文から作られると考えているかもしれませんが,必ずしもそうとは考えられない場合があります。例えば,
(8) a. 秋男は葉子の手をにぎった。
b. 葉子は秋男に手をにぎられた。
この能動構文と受身構文は対応しています。上の受身構文は「持ち主の受身」と呼ばれる,動作対象の所有者が主語に立つ受身でした。これに対し,
(9) 彼女は{若く/スリムに/大人っぽく/大人しそうに}見られる。
などの受身構文は,対応する能動構文が成立しません。
(10) ??みんなは彼女を若く見る。
という文は変ですね。このように,受身構文はあるのに,それと対応するはずの能動構文がない場合があります。これは先の間接受身とは別の現象です。
さらに,能動構文が成立するように見えても,あまり使われないような対応も見られます。例えば,
(11) a. 多くの国に共通の特徴が見られる。
b. 宇宙飛行士に骨の退化が見られた。
のような受身構文は,特に書き言葉のジャンルの中で非常によく使われます。こうした受身は,受身と言うより可能の意味も帯びていて,「AにBがある」というような存在文の代わりにとてもよく使われます。一方で,この対応する能動構文である,「私たちは,多くの国に共通点を見る」という文は現代日本語ではほとんど使われません。
このように,それぞれの動詞,特に多義の(意味がたくさんある)動詞には,それが構成する構文がいくつかあり,それぞれの構文は能動で使われやすいとか,受身で使われやすいとかいう特徴があって,いつも対称的なわけではないんですね。こうした受身と能動の非対称性についての研究はほとんどされていませんので,これからの課題だと思います。
最後に,受身の機能に関する課題を見たいと思います。受身構文は,人が主語か事物が主語かで大きく機能が異なることを見て来ました。ざっくり言うと,人が主語の受身は,「わたしが人に~された」という形で「影響を受ける」という意味を表します。と同時に,日本語では話し手に行為が及ぶ場合は話し手に視点を置いて述べる方が自然な言語なので,この「話し手の視点」の転換に関わる働きをしています。例えば,
(12) 昨日,田仲君がわたしにプロポーズしました。
(13) 先週,国の母がわたしにお金を送りました。
などの文は,日本語として文法的にはまったく間違いではないので意味は分かるものの,日本人ならばこういう文は言わない,という感じがします。留学生が話す日本語のように見えますね。これらの文では,話し手が何らかの働きかけを受ける立場であるにも関わらず,話し手に視点が置かれていない文なんですね。こういう場合,日本人なら,「プロポーズされました」とか「送ってきました/送ってくれました」のような形で述べるのが自然だと思います。述語をこのような形にすると,話し手に視点がある文になるわけなんですね。こうした視点の転換は,留学生には非常に難しく,日本語の中でもどのような場合に視点の転換が必要で,どの構文(受身やテクレルやテモラウ等)を使うのが適切か,ということなども,まだまだ研究されつくしていない課題だと思います。
もう一つ,事物主語の受身については,「動作主を不問に付す」というのが大きな機能ですが,対象を主語=主題にして述べるという特徴も持っています。しかし,日本語では,対象を主題にして述べるだけなら,次の(14)ような文で述べればいいわけですね。
(14) この城は,16世紀に豊臣秀吉が建てた。
(15) この城は,16世紀に豊臣秀吉によって建てられた。
(14)の文は,動詞が能動形のままで対象が主題化された構文です。こうした主題化構文と事物主語の受身構文との機能の違いについても,それほど研究が進んでいるわけではないと思います。今後の課題です。
以上,「受身」について,いくつかの残されている課題を見て来ました。このほかにも,他の言語との対照研究や歴史的な研究など,まだまだ残された課題はたくさんあります。受身を取り巻く可能や自発,自動詞の構文との関係についての研究もまだまだ多くの課題が残されています。受身の研究は,今後も研究者たちを魅了していくでしょう。わたしも自分の生涯の研究として,受身を中心としたヴォイスの体系について突き詰めていきたいと思っています。長い連載を最後までお読みくださいまして,本当にありがとうございました!
【参照文献】
志波彩子(2022)「日本語の他動性構文の記述を目指して―奥田靖雄構文理論の継承と発展―」『人文学研究論集』5,名古屋大学.
-
- 2022年09月20日 『11. 動詞のヴォイスに魅せられて:自動詞・受身・可能・自発 志波彩子(名古屋大学)』
-
前回まで古代日本語と現代スペイン語の受身を中心としたヴォイスの体系について見て来ました。今回は,現代日本語を例にして,自動詞と受身,可能,自発の関係を探っていきます。一口に自動詞構文と言っても,いろいろな意味を表していて,今回はこれを受身や可能との関係から分類して,ラレル文との連続性を見ていきたいと思います。
ラレという接辞は,自然発生の意味を表す自動詞から取り出され,本来は動作主がいなければ起こり得ない事態を表す動作主必須動詞にまで付いて,その事態を自然発生的に捉える接辞なのでした。この動作主必須動詞というのは,典型的には無対他動詞で,自然に起こりうる事態を表す動詞は有対動詞(自他動詞のペアがある)なんですね。つまりラレルは自動詞のないところ(無対他動詞)を補完するために取り出された,とも言えるわけです。例えば次の例を見てください。
(1) a. 庭の老木が倒れた/砂山が(振動で)崩れた。【自然発生の自動詞構文】
b. 大きな木が何とか倒れた/砂山がやっと崩れた。【実現系可能の自動詞構文】
(2) a. 工業化が進み,海にたくさんのゴミが捨てられた。【事物主語受身構文】
b. 一度に捨てられるか不安だったが,結構な量のゴミが捨てられた。【実現系可能構文】
例えば,(1)aのように,人間の動作主の存在を問題にせずに単に変化(事態)が実現したことを表す自動詞構文タイプの延長には(2)aのような事物主語の受身構文があると考えられます。古代日本語にはこのタイプはなかったのですが,近代以降の欧文翻訳の影響により,現代語では完全に自然な日本語として定着しています。これに対し,(1)bのような人間の動作主の側から,その意図・期待を含意して述べる自動詞構文タイプの延長には(2)bのような可能構文があると考えられます。
早津(1987)によれば,「倒れる,剥がれる」等の有対自動詞とは,「働きかけによってひきおこしうる非情物の変化を,有情物の存在とは無関係に,その非情物を主語にして叙述する動詞である」(p.102)ということです。よって,対応する自動詞のない無対他動詞の場合,その自動詞的表現を補う構文は,やはり事物の対象が主語に立つ構文が中心であると考えられます。これに対し,「私は人に~された」のような人主語の受身は,事態参加者の誰の立場から述べるか,という「視点の転換」に関わる構文と体系を成していると考えられます。これについては次回,また触れたいと思います。
以下,自動詞構文と受身,可能,自発との関係を見ながら,受身と可能の意味が競合する場合などを紹介し,自動詞構文とラレル文の体系について考えていきます。
まず,事物主語の受身ですが,これはもっとも基本的で中心的な構文である自然発生の自動詞構文の延長にあると考えられます。
(3) 古い二層式洗濯機が壊れた。【自然発生の自動詞構文】
(4) A社の製品は,いつも同じ部品が{取れる/ダメになる}。【自然発生の自動詞構文】
(5) この本は1970年に{書かれた/出版された}。【事物主語受身構文】
(6) 工業化が進み,次第に海が汚染されていった。【事物主語受身構文】
ラレル文というのは必ず動作主の存在を含意するので,「書かれた」などが自然発生の延長にあるというのは少し分かりにくいかもしれませんが,「動作主を不問に付す」という機能を共有しているんですね。また,事物主語の受身には(6)のように「誰によって」という動作主の存在がほとんど想定できない文もありますし,「(文化が)形成される,凝縮される,失われる」など,動詞そのものが動作主の存在を想定しにくいものもあります。
次に可能との連続性を見てみます。可能には潜在系と実現系があるのでした。潜在系の可能とは次のような文です。
【潜在系可能の自動詞構文】
(7) このスプーンは簡単に曲がる。
(8) アワビの貝柱は帯が太くて,容易には外れない。
こうした潜在系可能は,主に,対象が持つ属性・特徴が要因となって当該事態が実現する・しないということを述べています。時制的には,一回的な出来事ではなく,時間を超えた事態として述べているのが特徴です。上の動詞は完全な自動詞なので少し分かりにくいかもしれませんが,例えば「庭の木の枝が折れた」というのは自然発生ですが,「この折り紙は簡単に折れる」のような文は可能の意味が含意されると思います。こちらは他動詞「折る」に-e-という可能の接辞が付いた可能動詞と考えられます。
この自動詞文の延長には潜在系の次のような可能構文があると考えられます。典型的には事物の対象が主語に立つ可能構文です。
【潜在系可能の可能動詞文】
(9) この傘は,形状記憶だから,簡単にたためる。
(10) この本は難しくてなかなか読めない。
もう一つの可能である実現系可能の自動詞構文とは,次のような文です。
【実現系可能の自動詞構文】
(11) (私が)何度もかき混ぜたら,やっと薬が溶けた。
(12) 彼は二撃,三撃と撃ち続けたが,どうしても距離が縮まらなかった。
(13) (思い切り力を込めて,やっと蓋が)開いた!/開かない!
(14) やっと{切れた/折れた/取れた/割れた}。【自動詞と可能動詞が同形】
こうした自動詞文は,時間軸上に生起する一回的な出来事として述べられていて,かつその事態を実現しようとする動作主の意図が含意されています。動作主の意図は,先行談話や「やっと,ようやく,なかなか」などの副詞によって導入され,これによって可能の意味が感じられるのだと考えられます。このような自動詞構文の延長にあるのは,次のような可能構文です。
【実現系可能構文】
(15) やっと論文が書けた。
(16) 思い出の写真がどうしても捨てられなかった。
最後に動作主の意志やコントロールと関係なく事態が実現するという場合です。これを「偶発的実現」と呼んで行きます。自動詞構文が表す偶発的実現とは,例えば次のような文です。
【偶発的実現の自動詞構文】
(17) 絶対にできないと思っていた仕事が,別の仕事が偶然キャンセルになったおかげで,思いがけず{間に合った/片付いた}。
(18) 傘をさしてきたが,カバンがびしょびしょに濡れてしまった。
こうした文は先の自然発生によく似ていますが,動作主が関与している点が異なります。当該事態の実現に動作主が何らかの形で関与していて,しかも本来はその事態の実現をコントロールできるような立場にあるにもかかわらず,自分の意志やコントロールの及ばない形で事態が実現するという意味を表しています。この偶発的実現の文は,当該事態の実現が好ましいものか否かでそれを補完するラレル文も異なってきます。
まず,(17)のように好ましい事態の場合,こうした自動詞構文の延長にあるのは現代日本語では可能構文です。
【偶発的実現の可能構文】
(19) 通りすがりに話題のメロンパンを偶然買えてラッキーだった。(林2007: 33例文(9))
(20) その懇親会には全く期待していなかったが,思いがけず楽しい時間が過ごせた。
この偶発的実現の事態は,動作主が当該事態の実現を意図していたとは考えにくく,可能の定義からは大きく外れるような文です。よってこの文は「可能」とは呼べないと思いますが,現代日本語ではこれを可能動詞文で表現するわけですね。
これに対し,(18)のように動作主に意図がないのに好ましくない事態,もしくは好ましさに中立の事態が実現する場合は,「自発」に相当します。現代日本語では自発は「思い出される」などの一部の心理動詞に限られていますが,古代日本語では動作動詞も自発構文を構成するのでした。
(21) 【相手の好意の深さが推し量られて,】かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇もうち置かれぬれ。 (枕草子・いみじう暑き昼中に)
〔(氷を持つ一方で)使っていてさえ物足りなく感じられる扇も,思わずそばに置いてしまうのだ〕
このように,偶発的実現は,古代日本語では,それが好ましい事態であれば可能,特に好ましさがない事態であれば自発と解釈されたのだと考えられます。現代日本語では,好ましさがない偶発的実現は,上の現代語訳にあるように「シテシマウ」という表現が補完していると考えられます。なお,この偶発的実現も,事態が実現することに焦点が当たっているので,時間の中に一回的な出来事として位置付けられる事態だと言えます。
以上,受身,可能,自発とどんな自動詞構文が連続的なのかを見て来ました。こうした自動詞構文とラレル構文(可能動詞も含む)は意味的に連続しており,かつそれぞれの下位構文間においても連続的に関係し合いながら,体系をなしていると考えられます。ここでは,現代日本語において特にその連続性が顕著である受身と可能について最後に見ていきます。
事物主語の受身と,事物の対象が主語(主格)に立つ可能構文は,事物が主格に立って動作主が背景化されているという点で,構造的に非常によく似ています。
(22) a. 工業化が進み,海にたくさんのゴミが捨てられた。
b. 一度に捨てられるか不安だったが,結構な量のゴミが捨てられた。
上の2つの文は,「ゴミが捨てられた」というところは共通しているのですが,(22)aでは誰にも共感を寄せずに,動作主を不問に付して述べているのに対し,(22)bでは動作主の側から(動作主に共感を寄せる,と言います)動作主の意図が含意されています。つまり,この2つの構文は動作主の側から述べるか否かということと,動作主の意図を含意しているかという点でのみ対立しています。前者が事物主語受身で,後者が実現系可能ですが,この対立は自動詞構文にも見られます。
(23) a. 少し太ったせいか,ズボンのホックが外れた。
b. ぐいぐい引っ張ったら,(指輪が)やっと外れた。
(23)aは動作主の関与も意図もない自然発生の自動詞構文であり,(23)bは動作主が意図して実現したことを表す実現系可能の自動詞構文です。
同じように潜在系の可能と事物主語の受身の間にもこうした現象が見られます。
(24) A この魚は生で食べられます。
Q1:生で食べたいのですが,食べられますか。
Q2: この魚は日本ではどうやって食べているんですか。
(25) 図書館では毎日たくさんの本が借りられる。
(24)の文は,Q1の答えとして述べるのであれば,動作主の意図が含意されるので潜在系の可能となり,Q2の答えとして「日本では生で食べられています」という意味で述べるのであれば事物主語の受身ということになります。(25)も同様に,借りたいと思っている動作主の側から述べれば潜在系可能であり,単に図書館の毎日のこととして客観的に述べる(「人々によって借りられる」)のであれば事物主語の受身ということになります。この意味の競合の現象は,次のような自動詞構文にも見られます。
(26) a.バイメタルは,温度が変化すると伸びの小さい板の方へ曲がる。
b.バイメタルは,簡単に曲がる。
(26)も,aのように動作主が関与しないこととして述べれば自然発生の意味であり,bのように「簡単に」のような副詞があると,そのように実現したいという動作主の意図が含意されやすくなり,潜在系可能の意味が出てくると言えます。
以上,今回は現代日本語を主な例にして,自動詞の構文と受身,可能,自発がどのように関係し合い,体系を成しているかということを見て来ました。次回はいよいよ最終回になります。最終回では,今後の受身研究に向けて,残されている問題などを見ていきたいと思います。どうぞお楽しみに!
【引用文献】
林青樺(2007)「現代日本語における実現可能文の意味機能―無標の動詞文との対比を通して」『日本語の研究』3-2早津恵美子(1987)「対応する他動詞のある自動詞の意味的・統語的特徴」『言語学研究』 6
-
- 2022年09月13日 『10. 動詞のヴォイスに魅せられて:古代語の自動詞とラレ 志波彩子(名古屋大学)』
-
前回は,スペイン語の中動態の体系と古代日本語のラレの体系の共通点と相違点を見ました。今回は古代日本語の自動詞構文とラレ構文の似通い,近さについて,もう少し詳しく見ていきます。
古代語のラ行下二段動詞を調べると,人の心理・生理的な状態変化,つまり人を主語にした自然発生の自動詞が多いように見えることを前回述べました。国立国語研究所が公開している『日本語歴史コーパス(CHJ)』で上代(奈良時代)のラ行下二段動詞を調べると,そのおよそ9割が自然発生自動詞でした。これに対し,上代の四段動詞では約5割が他動詞,約2割が意志的自動詞,そして残りの約3割が自然発生動詞(無意志自動詞)です。また,下二段動詞全体では,約6割が他動詞,1割が意志的自動詞,3割が自然発生動詞であることと比べるとラ行下二段には自然発生自動詞が相当に多いことが分かると思います。そして,その自然発生動詞の中でも,特に人が主語に立つ動詞が多いようだということです。
さらに,個々の動詞を見ていくと,ラレ構文に意味的にも構文的にも非常に近いということが分かりました。まず,ラ行下二段の人が主語に立つ自然発生動詞の文を見てみます。
(1) …君,なほ,我を宮に心寄せたてまつりたると思ひてこの人々の言ふ,いと恥づかしく,心地にはいづれとも思はず,ただ夢のやうにあきれて,いみじく焦られたまふをばなどかくしもとばかり思へど,頼みきこえて年ごろになりぬる人を,今はともて離れむと思はぬによりこそ,かくいみじとものも思ひ乱るれ。(源氏物語・浮舟)
〔女君,「やはり,わたしを,宮に心寄せ申していると思って,この女房たちが言っている。とても恥ずかしく,気持ちの上ではどちらとも思っていない。ただ夢のように茫然として,ひどくご執着なさっているのを,どうしてこんなにまで,と思うが,お頼り申し上げて長い間になる方を,今になって裏切ろうとは思わないからこそ,このように大変だと思って悩むのだ。…」〕
(2) また三ばかりなるちごの寝おびれて,うちしはぶきたるもいとうつくし。(枕草子・正月に寺に籠りたるは)
〔三歳ぐらいの子供が寝ぼけてこわがって,咳をしているその物音もかわいらしい。〕
(3) …ことにもの深からぬ若き人々さへ,世の常なさ思ひ知られて涙にくれたり。(源氏物語・須磨)
〔たいして思慮深くない若い女房でさえ,世の中の無常が思い知られて,涙にくれた。〕
このように,特にラ行下二段自動詞構文には人が主語に立ち,人の意志やコントロールの及ばないところで,何らかの要因によって心理・生理的変化が実現することを表す動詞が多く,この場合にはラレ構文の自発の意味(人に対してその意志に関係なく事態が生じる)に非常に近い意味を表していると考えられます。
さらに,こうした人を主語(主格)に取る動詞ではない動詞,つまりモノの変化を表す動詞であっても,人に対してその事態が実現することを表す文が少なくありません。それは,主語(主格)に「涙,心,袖,裳,髪」など,人の広義所有物が立つ場合です。このように,人の広義所有物を主語に立てる自然発生自動詞構文というのは,ラ行下二段動詞に限らず,全ての動詞に共通していると考えられます。
(4) 人の広義所有物を非情物対象(主格)として取るラ行下二段動詞
(魂,心)憧る,(名)うづもる,(心)遅る,(声,御末)枯る,(目,心地)暗る,(胸)焦がる,(涙,髪,愛敬)零る,(胸)潰る,(涙,血)流る,(衣,耳,目)慣る,(袖,髪,衣)濡る,(髪)外る,(心)離る,(もの思ひ)晴る,(目)腫る,(衣)はつる,(腹)ふくる,(手,袖)触る,(もの悲しさ,心細さ,わが苦しさ,頭の痛さ)紛る,(心)乱る,(裳)破る,(胸)割る,etc.
人の広義所有物が主格に立つ次のような構文は,その所有者である人に対して,やはりその人の意志やコントロールの及ばない変化=事態が実現する,という意味を表しています。
(5) 見し人のかげすみはてぬ池水にひとり宿もる秋の夜の月と独りごちつつ,殿におはしても,月を見つつ,心は空にあくがれたまへり。「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」と,御達も憎みあへり。(源氏物語・夕霧)
〔「あの人がもう住んでいないこの邸の池の水に独り宿守りしている秋の夜の月よ」と独言を言いながら,お邸にお帰りになっても,月を見ながら,心はここにない思いでいらっしゃった。〕
(6) 「さらにな思し憚りそ。天下に目つぶれ,足折れたまへりとも,なにがしは仕うまつりやめてむ。国の中の仏神は,おのれになむなびきたまへる」(源氏物語・玉鬘)
〔まったく,そのようなことなどご遠慮なさいますな。万が一,目が潰れ,足が折れていらしても,私めが直して差し上げましょう。国中の仏神は,皆自分の言いなりになっているのだ〕
(7) 屋形といふものの方にて押す。されど,奥なるは,たのもし。端にて立てる者こそ,目くるる心地すれ。早緒とつけて,櫓とかにすげたる物の弱げさよ。(枕・うちとくまじきもの)
〔屋形というものの方で櫓を押している。けれど,置くにいる者は安心だ。舟の端に立っている者は,目がくらむような気がする〕
(8) 尼君,のぞきて見たてまつるに,老も忘れ,もの思ひもはるる心地してうち笑みぬ。(源氏物語・松風)
〔尼君,のぞいて拝すると,老いも忘れて,物思いも晴れるような心地がして,思わずにっこりしてしまった。〕
上の(7)や(8)のような,「くる(暮る),はる(晴る)」も,もともとはモノや自然の変化を表す次のような自動詞構文であったと考えられますが,人の心持ちや思いの変化を表す意味を派生させたのだと思います。上代では,「暮る」はすべて「日暮る」の例のみでした。
(9) 苦しくも暮れ行く日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに(万葉集・巻9・1721)
〔残念ながら日が暮れて行く。吉野川の清らかな川原は見ていても飽きがこないというのに〕
この上代の例でも,「暮れ行く」というのはモノの変化を表す動詞なのですが,「苦しくも」と言ってる主体に視点があり,この人に対して,コントロールの及ばないこととして「暮れ行く」という事態が発生する,と述べているようにも見えます。こうした解釈が重なり,「心暮る」「涙に暮る」のような,人に対して,その人の意志やコントロールの及ばないところで変化(事態)が実現するという意味を拡張させていったのではないかと推測されます。
こうした人の広義所有物が主語に立つ文は,「モノの変化」を表す動詞でありながら,「動作主の介在なしに変化が実現した」という意味よりも,むしろ「ある人に対して,その人の意志やコントロールの及ばないところで対象=所有物の変化が実現する」という意味を表しています。そして,このときには所有者である人の視点から事態が述べられていると考えられます。
さらには,人の主題を取っていると見られる自動詞文も散見されます。次のような文です(上の(8)の「尼君」も同じ)。
(10) 何ごとかあらむとも思したらず,さぶらふ人々の泣きまどひ,上も御涙の隙なく流れおはしますを,あやしと見たてまつりたまへるを。(源氏物語・桐壺)
〔(若宮は)何が起きたのかもお分かりにならず,おそばの人々が泣きまどい,帝もとめどなく落涙しておいでになるのを,ただ不審そうに眺めていらっしゃるばかり。〕
(11) 「さることをこそ聞きしか。情なき人の御心にもありけるかな。大臣の,口入れたまひしに執念かりきとて,ひき違へたまふなるべし。心弱くなびきても人笑へならましこと」など涙を浮けてのたまへば,姫君,いと恥づかしきにも,そこはかとなく涙のこぼるれば,はしたなくて背きたまへる,らうたげさ限りなし。(源氏物語・梅枝)
〔「こういうことを聞いた。薄情なお心の方であったな。大臣が,口添えなさったのに,強情だというので,他へ持って行かれたのだろう。気弱になって降参しても,人に笑われることだろうし」などと,涙を浮かべておっしゃるので,姫君,とても顔も向けられない思いでいるにも,何とはなしに涙がこぼれるので,体裁悪く思って後ろを向いていらっしゃる,そのかわいらしさ,この上もない。〕
これらは自動詞ですが,ラレ構文に非常によく似た構文形式を取り得るのだと考えられます。次のような構文形式です。
(12) [人-主題(視点) モノ-主格 自然発生自動詞]
「帝は涙が流れた」
(13) [人-主題(視点) モノ-主格 V-ラレ]
「私は故郷が思い出された」
ここでは分かりやすいように現代語の例を添えました。自動詞文というのは,普通は文法的な項(必須の補語)が1つ,つまり主語だけを取る文ですが,日本語では,「私は胸が痛む」のように,特にガ格が所有物の場合には所有者が主題として立つことができます。このように主題を取っていると,ラレ文の構造にそっくりになります。古代語ではラレ文における視点の置かれる「人」は,格表示された例がなく,主題として添えられていただけだと考えられます。格表示というのは「が,を,に」等の格助詞が明示されるということですね。これに対し,主題というのは「は,も」のようなとりたての助詞(係助詞)によって表される場合です。次の例では,「大殿の君」が「思さるる」と「何ごとも思い分かれず」というラレ述語の主題であると同時に「御心もくれて」という自動詞文にとっても,主題となっています。
(14) 大殿の君は,まれまれ渡りたまひて,えふともたち帰りたまはず,静心なく思さるるに,「絶え入りたまひぬ」とて人参りたれば,さらに何ごとも思し分かれず,御心もくれて渡りたまふ。(源氏物語・若菜下)
〔大殿の君は,たまたまお渡りになって,すぐにはお帰りになることもできず,落ち着いていらっしゃれないところに,「息をお引きとりになりました」と言って,使者が参上したので,まったく何を考えることもおできになれず,お心も真暗になってお帰りになる。〕
ここに挙げた例はすべて中古の例ですが,少なくとも中古には,ラレ構文と自動詞構文は,意味的にも構文的にも非常によく似ていて,両者が上代から中古にかけてこうした構造形式を並行して発達させてきたのではないかと考えられます。
このように,古代日本語では,「自然発生」の意味の自動詞,特にラ行下二段の自動詞は,モノの変化を語るよりも,人が主格に立って「ある人に対して,その人の意志やコントロールの及ばないところで事態(対象の変化)が実現する」という意味を表すことが多かったのだと考えられます。この意味はラレ構文の意味とほぼ同じで,自発の意味はこのままですし,可能は「ある人に対して,何らかの要因(状況)があって行為をコントロールできず,事態が実現しない」という不可能の意味を中心に表していましたし,受身は「ある人に対して,自分の意志やコントロールの及ばないところで他者による行為が実現する(降りかかってくる)」という意味だと考えられます。このようにして,古代日本語は,人の変化を述べる自然発生自動詞から人主語の受身や自発,不可能を中心に発達させたのですね。
さて,次回は現代日本語に戻って,自動詞と受身,可能,自発の関係をまとめたいと思います。どうぞお楽しみに!
-
- 2022年09月06日 『9. 動詞のヴォイスに魅せられて:古代日本語のラレ文とスペイン語の中動態 志波彩子(名古屋大学)』
-
第7回と第8回でスペイン語の中動態(再帰構文)の体系について紹介しました。今回は,スペイン語(正確には現代スペイン語)の中動態と古代日本語のラレの体系を対照し,その共通点と相違点をまとめたいと思います。
Shibatani(1985)では,受身を表す形式が多くの言語で自発や可能を表すことが指摘されていて,受身構文とその周辺に拡がる構文の通言語的な共通点がフォーカスされています。ただ,それぞれの言語の例文の扱いは非常に大雑把で,例えば,スペイン語のseによる構文が可能を表すのは,日本語のラレルが可能を表すのと同じだというようなことが述べられています。しかし,スペイン語のseによる可能は,「私は100mを11秒で走れる」とか「やっと論文が書けた」のような可能を表すことはできません。また,自発については,seによる自然発生の構文(「ドアが開いた」等)と日本語のラレルによる自発(「故郷が思い出された」等)を同列に扱ってしまっています。しかし,前者(自然発生)は,「動作主を介さずに対象の変化が実現する」という意味であり,後者(自発)は「動作主に対して,意志がないのに自分の行為が実現する」という意味で,これは同じものとして扱うべきではありません。では,西欧諸言語の中動態と日本語のラレルでは,何が共通していて,どこが本当は違うのか。このことをまとめたいと思います。
ここで,「西欧諸言語の中動態」と書きましたが,実は中動態の体系は英語以外のほとんどのインドヨーロッパ諸言語にあります。それぞれの言語によって,「身づくろい」等の中動状況からどの程度用法を拡げているかには違いがありますが,フランス語やポルトガル語などのラテン系言語以外でも,ドイツ語やロシア語,トルコ語,アルメニア語,古代のサンスクリット語など,インドヨーロッパ諸言語は基本的に中動態の体系を持っています。英語は,中動態も失い,ヨーロッパ諸言語の顕著な特徴である動詞の活用体系もほぼ失ってしまった特殊な言語なんですね。
さて,その西欧諸言語の中動態の代表としてスペイン語のseとラレルを見ていきますが,まず共通点は,どちらも「自然発生」の意味を表す構文を動作主必須動詞にまで適用し,受身や可能といった意味を拡張させている点が共通しています。スペイン語のseは,再帰の意味の構文から中動状況(「入浴する」等)に拡張し,それが人の無意志的変化(「喜ぶ」等)」に拡張し,さらにそれが「服がしわになる」や「コップが割れる」などの自然発生の構文にまで拡張し,そこから可能受身(「この車は簡単に駐車できる」等)と受身(「条約が調印された」等)を拡張したのでした。日本語の方は,もともと自然発生の意味を表す自動詞(「割れる,折れる,荒れる」等)があり,こうした動詞の活用語尾が文法的接辞として取り出されて,動作主がいなければ起こり得ない事態を表す動作主必須動詞(「言われる,許される,寝られる」等)に使われるようになったのが古代語のラレ文なのでした。このとき,スペイン語では他動詞にseが付いた文法的な形が「自然発生」の意味を表したのに対し,日本語では語彙的な自動詞が「自然発生」の意味を表していたという違いはありますが,いずれも「自然発生」の捉え方を動作主必須動詞にまで拡張して受身や可能の意味を表す構文を発達させている点で共通していると言えます。
動作主必須動詞(書く,読む,話す,サインする等)+自然発生→受身,可能など
なぜ自然発生の捉え方を動作主必須動詞にまで適用すると受身や可能の意味になるのか,というところはなかなか難しいメカニズムで説明も難しいですが,次のように考えています。自然発生というのは,「動作主を介さずに対象の変化が実現する」という意味だと述べました。これは,「暖房を付けたら部屋が温まった」のように,たとえその変化を引き起こした動作主(人)がいたとしても,その存在を不問に付して,対象(事物)の変化を中心に捉えるという構文でした。この捉え方を「書く,読む,話す,捨てる,研究する」など,動作主がいなければそれが実現したとは解釈できない動詞=動作主必須動詞にまで適用した。すると,これらの動詞では,動作主がいなければ起こり得ないので,動作主の存在を含意しつつその存在を不問に付して事態の実現に焦点を当てる文ができあがる。これが「文字が書かれる,本が読まれる」などの事物主語の受身です。
これに対し,「可能受身」というのは,動作主がその事態の実現を意図したときに,それが実現するだけの特徴・属性を対象が持っているという意味を表しています。この可能受身の意味は,自然発生の動詞を,時間を超えた超時の事態として述べ,かつ動作主の意図を含意させると生まれてきます。例えば,「このタオルは乾く」という文は,一応成立しますが,タオルが乾く素材であるのは当たり前であまり有意義な属性を述べているとは言えません。これに対し,「このタオルは,使用後にすぐ乾く」と言うと,タオルの特徴または属性を述べた自然な文になります。ただ,ここに動作主の意図を読み込めるかどうかは非常に文脈に依存していると思いますが,一応,「使用後にすぐ乾く」ことを期待する動作主の意図を読み込むことも可能かと思います。「この布はよく切れる」とか,「この折り紙はきれいに折れる」等,可能動詞と同形の自動詞であれば,かなり可能の意味を読み込みやすくなるのではないでしょうか。このように,対象の属性を語る文が動作主必須動詞にまで広がると,動作主必須動詞では必ず動作主が含意されますので,「簡単に」とか「すぐ,よく」などの副詞があると,そこに動作主の意図を読み込みやすくなり,「この本は簡単に読める」のような可能受身が成立するということです。
さて,以上の説明はスペイン語の中動態における拡張の説明でした。スペイン語の中動態では,自然発生の捉え方を動作主必須動詞にまで適用し,事物主語の受身と可能受身を発達させたわけですね。ちなみにこの可能受身というのは,時間を超えた事態なので潜在系可能であり,かつ対象の属性が事態実現の条件・許容性になっているという点で,対象可能であると言えます。つまり,スペイン語の中動態では「やっと論文が書けた」のような実現系可能や「わたしはクロールで500m泳げる」のような潜在系の動作主可能を表すことはない,ということですね。また,現代スペイン語の中動態では人が主語の受身も存在しないことを前回述べました。
これに対し,古代日本語のラレは,潜在系の可能は表すことができず,すべて一回的な事態である実現系可能でした。かつ,動作主を取り巻く状況が事態実現の要因・許容性になっている可能文なのでした。また,事物主語の受身は「屏風が畳まれている」のような状態受身に限られ,受身の中心は人が主語の受身でした。つまり,古代日本語は同じように受身や可能を発達させていると言っても,まったく異なるタイプの受身文,可能文を発達させていたということです。同じように自然発生の捉え方を動作主必須動詞に拡張したのに,なぜこのような違いが生まれたのでしょうか。
当初,わたしは,次のように考えていました。これは,古代日本語が人に視点を寄せて述べることを好む言語であり,ある人の視点から「自分に対して事態が自然発生した」という風に述べる構文としてラレ文が発達したため,「自分に対して自分の行為が自然発生する」のが自発だと考えていました。しかし,上で述べたように,「割れる,折れる,荒れる」等の動詞は動作主を介さずに対象(事物)の変化が実現するという意味であり,これが動作主必須動詞に拡張すれば,動作主の存在を不問に付す事物主語の受身が生まれるのが自然だと思うようになりました。
そこで,古代語のラ行下二段自動詞を調べてみました。ラ行下二段動詞は,ラレの発生に直接に影響を与えたと考えられる動詞だからです。すると,ラ行下二段動詞には,次のように,モノの変化を語るというよりも人の無意志的な変化,特に生理・心理的変化を語るものが多いことに気づきました。
(1) 離る(あかる:散り散りになる),呆る(途方に暮れる),憧る(あくがる),あぶる(落ちぶれてさまよう),現る(人に知られる),焦らる(いらる:気を揉む),思ひ浮かる(動揺する),埋もる(引きこもる),生まる,うらぶる(悲しみに沈む),遅る(先立たれる),恐る,寝おびる(ねぼける),溺ほる,面馴る(おもなる:見慣れる),愚る(おる:放心状態になる),隠る (亡くなる),頽る(くづほる:衰える,気落ちする),暗る(くる:心が暗く沈む),気圧さる,穢る(けがる),焦がる,潮垂る,萎る(しをる:悲しみに打ちひしがれる),時雨る(涙がこぼれる),痴る,知る(「人知れず」で慣用的),優る,倒る(たふる),疲る,慣る,離る(はなる:官職をとかれる),思ひ離る,放る(はふる:さすらう,落ちぶれる),ひかさる(引き付けられる),惚る,紛る(まぎる),纏はる(はつはる:とらわれる),丸かる((涙で髪が)丸くなる ),乱る,羸る(みつる:やつれる),耳慣る,結ぼほる(気がふさぐ),睦る(むつる:親しみなつく),目離る(めかる:疎遠になる),目慣る,もの慣る,やつる等
これらの動詞も従来「無意志動詞」と呼ばれてきた動詞ですが,こうした動詞が表す意味は,「ある人に対して,自分の意志やコントロールの及ばないところで変化が実現する」という意味です。これも「自然発生」と言えますが,モノの変化を語る自然発生の自動詞とはかなり異なることが分かります。そして,「自分の意志やコントロールの及ばないところで変化=事態が実現する」という意味は,まさにラレの自発や受身の意味に連続していると感じました。つまり,ラレは「人に対して事態が自然発生する」という人の無意志的な変化を表す動詞の語彙的な意味を継承して,自発や可能,人主語の受身を発達させてたのだと考えられます。自発は,「自分の意志やコントロールの及ばないところで(何らかの状況により)自分の行為が実現する」,不可能は「本来コントロールできるはずの自分の行為が(何らかの状況により)実現しない」,受身は「自分のコントロールの及ばないところで他者による行為が自分に対して実現する」という意味を表しています。
以上,今回は古代日本語のラレとスペイン語のseについて,両者は自然発生の捉え方を動作主必須動詞にまで適用させて受身や可能を発達させた点で共通しているが,スペイン語はモノの変化を表す自然発生構文から事物主語の受身や可能受身(潜在系対象可能)を発達させたのに対し,古代日本語は人の変化を表す自然発生自動詞から自発や人主語の受身,実現系の可能を発達させた点で異なっていることを述べました。
次回は,古代日本語の自動詞文とラレ文について,その連続性をさらに詳しく見ていきます。どうぞお楽しみに!
【引用文献】
Shibatani, Masayoshi (1985) Passive and related constructions: A prototype analysis. Language 61(4).
-
- 2022年08月30日 『8. 動詞のヴォイスに魅せられて:スペイン語の中動態における受身と可能 志波彩子(名古屋大学)』
-
第7回ではスペイン語の中動態の体系の全体をざっとご紹介しました。今回は,この中動態マーカーであるseが表す受身と可能の意味について掘り下げていきたいと思います。
中動態のマーカーseは,「romper壊す」という他動詞にくっついて「romperse壊れる」という自動詞相当の意味になる,ということを見ました。この自動詞化の機能は非常に生産的で,多くの他動詞にseがついて自動詞になります。この場合,seの構文は「自然発生」の意味を表しています(なお,スペイン語では語順が非常に自由です)。
(1) a. Juan rompió el vaso. フアンがコップを割った。
b. El vaso se rompió. コップが割れた。
(2) a. María arrugó los papeles. マリアが紙をしわくちゃにした。
b. Se arrugaron los papeles. 紙がしわくちゃになった。
(3) a. Jorge calentó la sopa. ホルヘがスープを温めた。
b. La sopa se calentó. スープが温まった。
こうした自然発生の構文は,「動作主の介在なしに変化が実現する」という意味を表しています。これは,たとえ働きかける動作主がいたとしてもその存在は不問に付して,対象である事物の変化を中心に述べるという機能と共にあるのでした。
対象変化他動詞
romper(break 壊す),
derretir(melt 溶かす),
endurecer(harden 固める),
arrugar(wrinkle しわを作る),
hundir(sink 沈める),
calentar(温める),
doblar(折る),等自然発生動詞
romperse(壊れる),
derretirse(溶ける),
endurecerse(固まる),
arrugarse(しわになる),
hundirse(沈む),
calentarse(温まる),
doblarse(折れる),等
こうした動詞は,seが付くと,モノが自然に変化したと解釈できる動詞なんですね。ところが,そのseの機能がさらに拡大して,自然に変化したとは解釈できない動詞,つまり動作主がいなければ起こり得ない事態を表す動詞にまでseを使うようになった。これが受身の構文です。この動作主がいなければ起こり得ない事態を表す動詞を,動作主必須動詞と呼んでいます。
動作主必須動詞
leer(read 読む),
escribir(write 書く),
poner(put 置く),
estudiar(study 研究する),
firmar(sign 署名する),
hablar(speak 話す),
decir(say 言う),
alquilar(rent 賃貸する),
aprender(learn 習う),等受身
leerse(読まれる),
escribirse(書かれる),
ponerse(置かれる),
estudiarse(研究される),
firmarse(サインされる),
hablarse(話される),
decirse(言われる),
alquilarse(賃貸される),
aprenderse(習われる),等
(4) a. Juan leyó muchos libros. フアンはたくさんの本を読んだ。
b. Se leyeron muchos libros este año. 今年はたくさんの本が読まれた。
(5) a. El presidente firmó los tratados. 大統領は条約に署名した。
b. Se firmaron los tratados. 条約が署名された(調印された)。
このseによる受身構文は,まさに「動作主を不問に付す」という機能を持っていて,「~によって」という形で動作主を明示することはできません。動作主を言わずに,「何が起こったか」に注目して述べる構文であり,事物主語受身の典型と言えます。そして,現代スペイン語では,このseによる受身は,一部の動詞を除いて,人が主語に立つことができません。これは,次のような理由によります。
例えば,「amar愛する」という動詞の場合,これにseを付けて「amarse」とすると,「愛される」という意味にはならず,「自分を愛する」という再帰の意味になってしまうんですね。中世には,seによる受身で人が主語に立つものがあったようですが,だんだん再帰の意味に押されて,今ではなくなってしまいました。
(6) a. Jorge ama a Mariana. ホルヘはマリアナを愛している。
b. Mariana se ama. マリアナは自分を愛している。
ただし,スペイン語には英語と同じように「be+過去分詞」に相当する受身文もあります。こちらの受身文では人が主語に立つことができます。しかし,この受身文でも,1・2人称が主語に立つことはほとんどありません。例えば,スペイン語で,「私は太郎にたたかれた/褒められた」というようなことを受身文で表現することはありません。能動文で,「私のことを太郎がたたいた/褒めた」と言うのが自然です。つまり,スペイン語には日本語のような人主語の受身はない,ということになります。
さて,話を中動態に戻します。中動態の受身はこのように典型的な事物主語の受身でした。次に可能はどうでしょうか。
スペイン語の中動態が可能の意味を表すということは,かなり前から指摘されています。受身を表す形式が可能も表すということで,日本語との共通性が感じられて着目されました。
(7) ¿Se va por aquí a la estación? (Shibatani 1985: 828, 出口1982: 314)
se goes via here to the station ここから駅に行けますか。
しかし,スペイン語のseが表す可能の意味というのは,日本語のラレルが表す可能に比べてかなり制約があり,いつでも自由に可能を表せるわけではありません。では,どのような場合に可能の意味が出るのでしょうか。
最も安定して可能の意味を持つのは,前回紹介した「可能受身」の構文です。
(8) Este libro se lee fácilmente. この本は簡単に読める。
(9) Los pantalones de algodón no se planchan fácilmente. 綿のズボンはアイロンをかけるのが簡単ではない(アイロンをかけにくい)。
第5回でラレル文の可能を見たときに可能の意味が出るためには2つのファクターが必要だと書きましたが覚えているでしょうか。それは,動作主の意図・期待と行為実現の許容性の存在です。この可能受身の文は,典型的には「fácilmente(easily)」とか「bien(well)」といった副詞が必要です。こうした難易や評価の副詞があることで,「簡単に読む」,「簡単にアイロンをかける」という行為を実現したい動作主の意図・期待が読み込まれるのだと思います(英語の中間構文と同じですね)。
さらにこの構文は,必ず事物が主題に立っていなければならず,かつ時制は必ず現在形(未完了時制)でなければなりません。事物が主題に立ち,現在形で述べられることで,その事物の特性・属性を語る文になっているんですね。例えば,「この本は」とか「綿のズボンは」のように主題にして,一回的な出来事ではなく,時間を越えて成立するような属性を語るわけです。なお,主題と主語というのは密接にかかわる概念ですが,スペイン語では主語は必ずしも文頭に立たなくてもいいんですね。しかし,主題であるためには文頭に立つ必要があります。このようにして語ることで,主題に立つ事物の属性が行為実現の許容性と解釈されるのだと思います。つまり,動作主が「簡単に読む」という事態の実現を意図したときに,それが実現するだけの許容性を「この本」が属性として持っているという意味です。こうして,可能受身は安定して可能の意味を持っているのだと思います。
なお,日本語ではこの可能受身の文は,自動詞がある場合は自動詞で表されます。例えば,次の文も可能受身ですが,日本語では「乾く」という自動詞で表されています。
(10) Esta toalla se seca rápido. このタオルは早く乾く。【可能受身】
このほか,「この薬はすぐに水に溶ける」とか「この枝は簡単に折れる」なども可能受身の文です。日本語では,「折れる,切れる,割れる」等の動詞を見ると分かるように,自動詞と可能動詞が重なっていて,意味領域も重なっているんですね。
そして,(10)の可能受身が,過去形(完了時制)で述べられると,一回的な出来事になり,自然発生の文になります。
(11) Se secaron las toallas (con el viento). (風で)タオルが乾いた。【自然発生構文】
これに対し,(8)の動作主必須動詞による可能受身が過去形で述べられると,受身の文になります。
(12) Se leyeron muchos libros este año. 今年はたくさんの本が読まれた。【受身構文】(=4b)
なんだか複雑になってきましたが,自然発生,可能受身,事物主語の受身の関係が分かったでしょうか。表にまとめたいと思います。
表1:可能受身と自然発生,事物主語受身の関係
現在形(時間を超えて成立する事態) 過去形(一回的な出来事) 自然に変化が起こるような動詞(有対動詞) 【可能受身】
このタオルはすぐ乾く。
この薬はよく溶ける。
この枝は簡単に折れる。【自然発生】
タオルが乾いた。
薬が溶けた。
枝が折れた。動作主必須動詞(無対動詞) 【可能受身】
この本は簡単に読める。
この字は簡単に書ける。【受身】
本が読まれた。
字が書かれた。
上の表ではスペイン語は省略して日本語で書きましたが,スペイン語でも同じようになります。その変化が自然に生じるものと解釈されるような動詞では,一回的な出来事は自然発生の意味になり,動作主がいなければ起こり得ない事態を表す動詞では,一回的な出来事は受身になる,ということです。
なお,スペイン語では可能受身の文以外でも,条件が整えば可能の意味を持つことがありますが,説明が複雑になるのでここでは省略します。興味のある方は,参考文献にある論文を参照してください。
ちなみに,日本語の可能動詞(「読める,書ける」等)は室町後期から江戸時代にかけて現れて使われるようになったと考えられていますが,この日本語の可能動詞について,ポルトガル人の宣教師,ジョアン・ロドリゲスは『日本大文典』(1604-08年)の中で,ポルトガル語のseによる「中相」に相当すると書いています。「中相」というのはここで言っている中動態のことです。ポルトガル語はスペイン語との似通いが8割以上とも言われる言語で,かなりスペイン語に似ています(もともとはどちらもラテン語の方言でしたので)。日本語の可能動詞がポルトガル語のseの可能受身の用法にそっくりだと考えたのかもしれません。
以上,スペイン語の中動態における受身と可能を見ました。中動態から拡張した受身は典型的な事物主語の受身であり,中動態の可能は主に事物の属性を語る可能でした。これは典型的な潜在系可能ですね。次回はいよいよ古代日本語とスペイン語の対照をしていきたいと思います。どうぞお楽しみに!
【引用文献】
出口厚実(1997)『スペイン語学入門』大学書林.Shibatani, Masayoshi (1985) Passive and related constructions: A prototype analysis. Language 61(4).※この連載では(7)のような,自動詞(「ir行く」等)が可能の意味を表す場合について説明できませんでした。興味のある方は,次の論文を参照してください。志波彩子(2020)「スペイン語のse中動態(再帰構文)における可能の意味」『名古屋大学人文学研究論集』3
-
- 2022年08月23日 『7. 動詞のヴォイスに魅せられて:スペイン語の中動態(再帰構文) 志波彩子(名古屋大学)』
-
わたしは高校3年生,17歳のときにメキシコに留学してスペイン語に出会ったと第1回に書きましたが,なぜメキシコ?と聞かれることがよくあります。AFSという留学斡旋団体の試験を受けて行ったのですが,当初はもちろん,アメリカとかオーストラリアなどの英語圏に行きたいと思っていました。AFSは,英語圏以外にも,アジアやヨーロッパ,中南米の50か国以上に高校生を派遣していて,派遣国のリストには,タイやホンジュラスなど,当時の自分には想像もつかない国が並んでいました。その中で「メキシコ」というのは,何となくメジャーな国に見えました。そこで,あまり考えることもなく,アメリカ,オーストラリアについで,第3希望にメキシコと書いたらメキシコに決まったということです。
スペイン語はもちろん話せませんでしたので,出発前には簡単な文法を勉強したりして準備しましたが,しゃべることはほぼできませんでした。ホストファミリーも最初は英語で話してくれましたが,だんだんスペイン語だけになり,楽しそうな会話に入れないときにはいつも孤独を感じていたものです。現地では普通の高校に通うので,授業は全く理解できず,お経を聞いている状態でした。そんな中,1つだけ完璧に理解できた授業があります。何の授業だと思いますか?(ちなみに,メキシコには,音楽や美術のような情操教育はありませんでした)
それは数学でした。わたしは中学の数学まではほぼ完ぺきに理解できていましたが,高校に入ると全く理解できなくなり,日本での数学の授業はお経を聞いている状態でした。それが,メキシコでは,他の授業が全てお経になり,数学だけは完璧に理解できたのでした。なぜ理解できたかというと,メキシコでは高校3年生の授業で2次関数をやっていたからです。日本では中学2年生が習う単元です。試験はもちろん満点で,みんなには数学の神のように呼ばれていました(笑)。
メキシコでの1年間は本当に毎日が全力疾走で,大変だったという印象もありますが,自分にとってかけがえのない体験になりました。何よりスペイン語に出会ったことで,今の素晴らしい仕事に就くことができたわけで,本当に人生は分からない,と感じています。
さて,前置きが長くなりましたが,今回はスペイン語の中動態(middle voice)について紹介します。中動態という概念を聞いたことがあるでしょうか?数年前に國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)という本が話題になっていましたが,この本で取り上げられている中動態が,今回紹介する中動態です。國分氏の本では哲学的に中動態が説明されていましたが,ここでは言語学的に,中動態とはどんなシステムなのかを紹介していきます。
まず,中動態とは何か,ということですが,これは能動態(active voice)が「主語が自らの意志で,他者に対して行為を発する」という意味を表し,受動態(passive voice)が「主語が,他者から行為を被る」という意味を表すのに対し,中動態とはこの中間(middle)であるという意味です。つまり,「主語が(自らの意志で)行為を発すると同時にその行為を被る」というのが中動態の本質的な特性だと思います。中動態の体系というのは,それぞれの言語で用法の拡がり方が異なっており,ロシア語などは非常に広範囲に用法を拡げていて,この本質的特性には当てはまらないような用法もあるのですが,しかし,中動態の中心でありかつ本質は主語が動作主であり同時に対象でもあるというところだと思います。ちなみに,ヨーロッパ諸言語の受動態(受身文)は,この中動態から派生・拡張したことが一般的に知られています。
中動態というのは,古典ギリシャ語や古典ラテン語では動詞の活用の体系としてあったのですが,動詞の活用として中動態を持つ言語は現在ではないと思います(あったとしても非常にまれです)。多くの言語では,中動態のマーカーを接辞のような形で持っています。スペイン語では,seという接辞が中動態のマーカーと考えられます。このseというのは,スペイン語学では一般に「再帰代名詞」と呼ばれています。スペイン語以外の言語(ロマンス諸語であるフランス語やポルトガル語はもちろん,ドイツ語など)でも,中動態の領域をこの再帰代名詞がカバーしていることが多いです。
再帰代名詞ということで,もともとは「自分を/自分に」という意味を表していたのですが,それが古典ラテン語の動詞の活用で表されていた中動態の領域へとどんどん用法を拡大させていき,今では代名詞というよりも,動詞と一体となって一つの意味を表す接辞になっているということです(受身や使役のラレルやサセルも同様に接辞と考えられます)。
説明が長くなりましたので,実際にどんなものが中動態なのかを見たいと思います。ここでは,Kemmer(1993)という人が提案した「中動状況タイプ」を紹介します。Kemmerは,この中動状況タイプに1つのマーカー(標識)が現れる場合,その言語は中動態を持っているとしました。以下のKemmerが挙げる状況タイプを見ると,ほぼ全てにスペイン語ではseが現れることが分かります。よって,seは中動態のマーカーだと考えられます。スペイン語の動詞は,語尾が「-ar」もしくは「-er/-ir」という形で終わるのですが,ここではその動詞の不定形(原形)にseを付けて示しています。
例えば,最初の「身づくろい」の行為ですが,これは中動状況タイプの中でも最も中動態らしい,中核的な事態タイプ(状況タイプ)だと思われます。自分の意志で行為を発して,自分自身に働きかける行為ですね。ここで,例えば「bañarse入浴する」では,seが付かないbañarという形は「人(赤ちゃん等)を入浴させる;物を(シロップなどに)浸す」という他動詞の意味を表します。しかし,「入浴」というのは本来的に自分自身への行為であり,bañarseという形で「自分が入浴する」という意味で使われる方が多いです。「髭をそる,髪をとかす」なども同じです。
◆ Kemmer(1983)の提案した中動状況タイプ
1.身づくろい(Grooming or body care)
bañarse 入浴する,afeitarse 髭をそる,peinarse 髪をとかす,pintarse 化粧する, ponerse 身につける,ducharse シャワーを浴びる,lavarse los dientes 歯を磨く,lavarse la cara 顔を洗う,等
2. 姿勢変化(Nontranslational motion, change in body posture)
sentarse 座る,levantarse 立つ,agacharse しゃがむ,acostarse 横になる,inclinarse お辞儀する,montarse またがる,等
3. 自己利益(Self- benefactive middle)
(1) Se construyó una casa.
se built a house
彼は(自分のために)家を建てた
4. 本来的相互行為(Naturally reciprocal event)
pelearse 喧嘩する, encontrarse 会う,combinarse 合同する,abrazarse 抱き合う,等
5. 感情・心理変化(Emotion middle)
enfadarse 怒る,irritarse いらだつ,alegrarse 喜ぶ,afligirse 嘆き悲しむ,enamorarse 恋する,aburrirse 退屈する,divertirse 楽しむ,calmarse 落ち着く,arrepentirse 後悔する,preocuparse 心配する,cansarse 疲れる,等
6. 感情的発話行為(Emotive speech act)
quejase 嘆く,不平を言う,enorgullecerse 自慢する,lamentarse 嘆く,愚痴をこぼす,confesarse 告白する,reconocerse 自分の罪を認める,等
7. 認知(思考,Cognition middle)
pensarse 思案する,creerse 思い込む,saberse 覚えこむ,知り尽くす,conocerse 知り尽くしている,acordarse 覚えている,negarse 拒否する,等
8. 自然発生の「なる」(Spontaneous events)
ponerse,volverse,hacerse,convertirse:すべて主語がある状態に「なる」の意
9. 移動運動(Translational motion)
irse 立ち去る,marcharse 立ち去る,subirse 登る,pararse 立ち止まる,quedarse 留まる,等
10. その他の内向的行為
portarse 振る舞う,suicidarse 自殺する,等
3の自己利益という状況タイプのみ文で提示していますが,この自己利益を表す動詞というのはなくて,自分で起こした何らかの事態が自分自身の利益になるときに,文の中にseが現れるというタイプです。これらの状況タイプを見ると,1~4と9は意志的な行為ですが,5~8は意志性の弱い行為のようです。
以上がKemmerの中動状況タイプなのですが,スペイン語のseにはこうした状況以外にも,様々な場合にseが使われます。ここに例文を挙げてみます。
(2) Juan se ama.
Juan se loves
フアンは自分を愛している。【完全再帰full reflexive】
(3) José se duchó.
José se showers
ホセはシャワーを浴びた。【中動状況middle situation】
(4) La puerta se abrió.
the door se opened
ドアが開いた。【自動詞化(自然発生)intransitivization】
(5) Este libro se lee fácilmente.
this book se reads easily
この本は簡単に読める。【可能受身potential passive】
(6) Se firmaron los tratados.
se signed the treaties
条約が調印(サイン)された。【受身passive】
中動態マーカーseは,本来は再帰代名詞だったと書きましたが,このseの用法(構文)は,およそ上に並べた順に拡張していったと考えられます。最初の(2)の完全再帰とは,再帰代名詞としての本来の用法で,本来は他者に働きかける行為の対象がたまたま自分自身であるような事態を表すものです。日本語や英語のように中動態がない言語でも,この完全再帰の用法には「自分」という再帰代名詞が現れます。これに対し,「シャワーを浴びる」という(3)は,先ほど見た中動状況で,これは本来的に自分自身に働きかける行為です。ここから中動態の領域となります。この中動状況が最初は意志的な行為に使われていたのだと思いますが,次第に上の「感情・心理変化」を表す「怒る,いらだつ,恋する」のような無意志的行為にまで使われるようになったと考えられます。この無意志的行為も,seの付かない形は「怒らせる,いらだたせる,恋心を抱かせる」という他動詞で,seは中動状況を表しつつ,同時に他動詞を自動詞化するという機能も担っています。この「他動詞の自動詞化」という機能が強く意識され,(4)のような事物の変化を表す動詞にまで使われるようになったのだと考えられます。
つまり,再帰代名詞というのは「自分自身」という意味なので,本来は人が主語のものに使われるのが本当です。それが,「自動詞化」ということが意識されて,事物の変化を表す文にまで拡張したということですね。この自動詞化の用法は非常に生産的に用いられます。「romperこわす」「derretir溶ける」「endurecer固める」「arrugarしわにする」「hundir沈める」など,非常に多くの他動詞にseがついて,「壊れる,溶ける,固まる,しわになる,沈む」という自動詞になります。これは,第1回で見た,日本語の有対動詞(対のある自他動詞のペア)にそっくりです。このとき,他動詞は対象である事物を変化させる意味を表し,自動詞は「動作主の介在なしに変化が実現する」という「自然発生(自ずから然る)」という意味を表しています。なお,こうした動詞は英語では自他両用の動詞(自動詞でも他動詞でも使える)であることに注意しておいてください。
この「自然発生」というのは,「動作主の介在なしに変化が実現する」という意味ですが,これは「たとえ動作主がいたとしてもその存在を不問にして事物の変化を中心に述べる」という機能と表裏の関係にあります。例えば,「暖房を入れたら,すぐに部屋が温まった」と言ったとき,実際には人が働きかけて部屋を暖めたわけですが,そうしたことは不問に付して部屋の変化を中心に捉えているということです。その「動作主を不問に付して事物の変化を中心に述べる」という機能が,動作主がいなければ起こり得ない事態にまで拡張していきます。
(5)の可能受身における「leer(本を)読む」という動詞は,動作主がいなければ起こり得ない事態です。「本が読まれる」という変化が動作主の介在なしに自然に起こることはないわけですね。しかし,どんな動作主が「読む」という行為をしても「簡単に読む」という事態が起こりうるだけの属性を本が持っている,という意味の文にまで拡張したわけですね。これが(5)の「この本は簡単に読める」です。この文が「可能受身」と呼ばれるのは,可能の意味を持ちつつ,動作対象が主語に立って動作主が含意されるという受身の性質も持っているからです。この可能受身の文は,英語では「中間構文middle construction」と呼ばれて盛んに研究されています。「This book reads easily.この本は簡単に読める」という文は,他動詞が能動態のままで,動作の対象が主語に立つという受身構造を持つため,「中間middle」と呼ばれて注目されています。
そして,これが対象の属性を語るだけではなく,何らかの動作主によって対象=主語に引き起こされた変化を語る文にまで拡張しました。これが(6)の受身「条約が調印された」(もしくは「本が読まれた」等)です。この受身は「動作主の存在を不問に付す」という機能を持つ事物主語の受身ですね。この拡張を英語で例えるなら,「This book reads easily.」のように主語である対象の属性を語る文だったのが,「This book has already read.この本はすでに読まれた」と言えるようになる,ということです(が,実際には英語ではこうした文は言えません)。このようにして,中動態から受動態が生まれたのですね。
なお,先の(2)完全再帰,(3)中動状況,(4)自動詞化,(5)可能受身,(6)受身という用法(構文)のうち,(2)完全再帰は能動態の領域です。能動態(他動詞文)の対象がたまたま自分自身である,という文です。よって,わたしは,(3)の中動状況~(5)の可能受身までが中動態の領域だと考えています。(6)の受身は受動態の領域ですね。このようにスペイン語のseは能動態の領域から中動態の領域,受動態の領域へと用法を拡げていると考えられます。
さて,ここまで一気にスペイン語の中動態の体系と拡張の歴史について述べてきました。非常に複雑な体系ですが,何となく理解できたでしょうか。今回も長くなりました。ここまでお読みいただいて,ありがとうございます! 次回は,このスペイン語の中動態における受身と可能の意味について,もう少し詳しく見ていきます。どうぞお楽しみに!
【引用文献】Kemmer, Suzanne (1993) The Middle Voice (Typological Studies in Language 23). Amsterdam and Philadelphia: John Benjamins.
-
- 2022年08月16日 『6. 動詞のヴォイスに魅せられて:古代日本語のラレ文体系(まとめ) 志波彩子(名古屋大学)』
-
動詞のヴォイスに魅せられて:⑥古代日本語のラレ文体系(まとめ)
これまで第3回~第5回にわたって,古代語のラレの受身,自発,可能について書いてきました。ばらばらに色々なことを書いてきましたので,ここでいったん,古代語のラレ文の体系についてまとめたいと思います。
まず,ラレ文の中で用例数が多く中心的な用法だったのは,作品にもよるのですが,自発と人主語の受身だと思います。現代語の自発文は認識や感情を表す一部の心理動詞に使用が限られていますが,古代語では心理動詞の使用がやはり多いものの,動作動詞や自動詞にも使われるのでした。
人が主語の受身は現在使われている人主語の受身と変わらない意味を表しましたが,現代語では自由に使われる間接受身文はまだほとんど使われていませんでした。
可能のラレ文は,「私はアラビア語が書ける」「この魚は生で食べられる」のような潜在系の可能文は古代語にはなく,すべて実現系の可能でした。また,動作主の能力や対象の特性が行為実現の許容性(条件・要因)になるものはなく,基本的に動作主を取り巻く状況や動作主の心情が要因になるもので,多くは否定形でした。
この不可能文は,動作主の側から何らかの要因によって行為が実現する/しないことを述べる文として,自発文と裏表の関係にあることを述べました。自発も可能も「動作主のコントロールが及ばず,行為が実現する/しない」という,行為の実現を語る文の肯定と否定の文としてありました。
そして,この自発・不可能と人主語の受身が古代語のラレ文の用例の大半を占めていました。これらの文は,特に他動詞が使われるとき,次のような共通の構文形式を持っていたと考えられます。
(1) 自発・不可能と受身の構文形式
[人《主題》 モノ-φ/ヲ/ノ・ガ 他動詞-ラレ]
これはどういう意味かというと,自発・不可能でも受身でも,人の主題が立って,他動詞の対象がゼロ(φ格)もしくはヲ格もしくは主格(ノorガ)で表されたという意味です。ここでゼロという新しい用語が出てきましたが,これは格を明示する標識がないということです。現代語でも,「わたしφもうご飯φ食べたよ」のように,格助詞は言わない方が話し言葉では自然になることが多いです。古代語でも,格助詞は現れない方がふつうでした。例えば,次の例は,自発と受身の対象がゼロで現れている例です。
(2) あやしの事どもや,下り立ちて乱るる人は,むべをこがましきことは多からむと,いとど御心をさめられたまふ。(源氏物語・紅葉賀)
〔「見苦しいことばかりだな。うつつを抜かして好色事におぼれる者は,なるほどこうして愚にもつかぬ失態も多かろう」と,いよいよ慎まなければと思わずにはいらっしゃれない。〕【自発,対象φ格】
(3) …へだてたりつる御屏風も押しあけつれば,かいま見の人,隠れ見の人隠れ蓑取られたる心地して,あかずわびしければ,御簾と几帳との中にて,柱の外よりぞ見たてまつる。(枕草子・淑景舎,春宮にまゐりたまふほどの事など)
〔…今まで隔ててあった御屏風も押しあけてしまったので,のぞき見の人であるわたしは,隠れ見をしている人が隠れ蓑を取られた気持がして,残念でつらい感じがするので,御簾と几帳との間で,柱の外からお見申しあげる。〕【人主語受身,対象φ格】
このように,対象がある場合は格標識がないのがふつうでした。また,主題も省略されていることが多いです。古代語では,いったん人の主語を立てると,しばらくその人の行為をつらつらと並べて述べていくことが多く,(2)では「御心をさめられたまふ」の主題(主語)としての源氏は現れていません。ただ,述語に尊敬語が使われているので,行為主体(動作主)が源氏だと分かるのですね。一方,(3)では「かいま見の人」というのがラレ述語の主題になっています。
以上のような特徴が典型でしたが,ヲ格とノ格・ガ格(主格)が現れる例もまれに見られます。
(4) 「…人の嫉み深くつもり,やすからぬこと多くなり添ひはべりつるに,横様なるやうにて,つひにかくなりはべりぬれば,かへりてはつらくなむ,かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」(源氏・桐壺)
〔…人様の妬みが深く積り積って,気苦労がだんだん多くなってゆきましたところ,ついに尋常ならぬ有様で,とうとうこんなことになってしまいましたのですから,畏れ多い帝のお情が,かえってつい恨めしく存ぜられるのでございます。子ゆえに盲いております親心の闇でございまして」〕【自発,対象ヲ格】
(5) あさくら山,よそに見るぞをかしき。おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人などの思ひ出でらるるなるべし。(枕草子・山は)
〔朝倉山は「よそに見る」のがおもしろい。おおひれ山もおもしろい。石清水八幡の臨時の祭の舞人などが自然思い出されるからにちがいない。〕【自発,対象ノ格】
(6) 我もいかで,人より先に,深き心ざしを御覧ぜられんとのみ思ひきほふ男女につけて,高きをも下れるをも,…(源氏物語・蓬生)
〔男も女も,自分こそはどうぞして人におくれをとることなく君に対する誠意をお認めいただこう(見られよう)とばかりに競い合うのを,源氏の君はごらんになって,身分の高下なく,〕【受身,対象ヲ格】
(7) なほ,才をもととしてこそ,大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。(源氏物語・少女)
〔やはり,学問を基礎にしてこそ,政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。〕【受身,対象ノ格】
このように,自発・不可能と人主語受身は共通の構文形式を持って,意味的には「人に対して,自分のコントロールの及ばないところで事態が実現する」という意味を共有していたと考えられます。このとき,自発・不可能は「人に対して,自分のコントロールが及ばず,事態(自分の行為)が実現する/しない」という意味であり,受身は「人に対して,自分のコントロールが及ばず,事態(他者の行為)が実現する」という意味になるということです。
一方,自発・不可能と受身の意味の違いを分けるのは,次のような構文的違いです。まず,主題である人は,自発・不可能では動作主(行為者)です。例えば,「私は(相手の)罪が(自然と)許された」と言ったときには,主題の「私は」は「許す」の動作主であり,何らかの要因があって,自分では無意識に相手の罪を許してしまったという意味になります。これに対し「私は(自分の)罪が(人に)許された」となった場合は,相手に自分の罪を許してもらったという受身の意味になり,主題の「私は」は動作を受ける人であることになります。この違いと連動して,自発・不可能では何らかの状況が要因となって,自分の行為が実現する/しないことを語ります。これに対し受身では,他者が要因となって,他者の行為が自分に対して実現するということになります。例を挙げると次のようなことです。
(8) 右近,大夫のけはひ聞くに,はじめよりのことうち思ひ出でられて泣くを,君もえたヘたまはで,我ひとりさかしがり抱き持たまヘりけるに,この人に息をのべたまひてぞ,悲しきことも思されける,とばかり,いといたくえも止めず泣きたまふ。(源氏物語・夕顔)
〔右近は大夫の参上した気配を耳にするにつけ,最初からのことがしぜんに思い出されて泣くと,君もまたこらえられなくなって-ご自分一人で気を張って女を抱きかかえていらっしゃったところが,惟光の顔を見るとふっと気がゆるんで,はじめて悲しいお気持がわいてくるのだったが,しばらくの間は,激しく止めどもなくお泣きになる。〕
(9) 法師なれど,いと心恥づかしく,人がらもやむごとなく世に思はれたまへる人なれば,かるがるしき御ありさまを,はしたなう思す。(源氏物語・若紫)
〔法師とは言え,じつに気のおける方で,人品も世間で重く尊敬されていらっしゃる人であるから,君はご身分にそぐわぬお忍びの姿をきまりわるくお思いになる。〕
(8)では「大夫の参上した気配を聞くに」とあり,これがきっかけとなって,「思い出す」という行為が自然に実現することを述べています。これが(9)では「世に」となって,「世の中に(よって)思われる」という受身の意味になっています。このように,自発・不可能と受身はいくつかの構文的な違いを持ちながらも,非常によく似た特徴を共有し,古代語のラレ文の中心的用法として使われていたのだと考えられます。
以上が古代語のラレ文の主要な文タイプでしたが,これ以外にも第3回では事物が主語に立つ受身として「状態受身」があることを紹介しました。次のような,事態実現の後の結果状態を表す「タリ」が下接する文です。
(10) 「【略】まゐりて見たまへ。あはれなりつる所のさまかな。台の前に植ゑられたりける牡丹などの,をかしき事」などのたまふ。(枕草子・なほめでたきこと)
〔参上して御殿の様子を見てごらんなさい。しみじみとした風情のある所ですよ。台の前に植えられていた牡丹などが,おもしろいこと」などとおっしゃる。〕
この状態受身のほかに,人の広い意味での所有物が主語に立つ受身もあることを見ましたが,実はこの受身は,先の(7)の例に相当します。(7)の例は,人が主題としてあって,「人は自分の大和魂が世の中に用いられる」と述べていると考えられます。よって,これも人主語の受身の一種と捉えています。
このほか,ラレ文には尊敬の用法がありますね。ただ,尊敬の用法は上代(奈良時代)にはなくて,中古(平安時代)に現れた後発の用法です。よって,尊敬は自発かもしくは受身から拡張した用法ではないかとも言われています。また,ラレの尊敬用法は和文資料には用例が少なく,変体漢文などの固い書き言葉の資料の中でよく使われていました(変体漢文とは,日本語を漢文風に,中国語風に書いたもので,男性が書く書簡や日記などで使われていました)。和文資料では,次のように,男性の会話に多いと言われています(森野1971)。
(11) 【源氏が命婦に向かって】「こと人の言はむやうに,咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば,女のありさま苦しからむ」(源氏物語・末摘花)
〔「ほかの誰かが言いたそうに,そんなあら捜しは取り下げていただきたいな。この程度のことを浮気なふるまいというのなら,どこぞの女の身持なぞ弁解もなるまいが」〕
変体漢文で主に使われていて,和文資料では男性の会話に多いということは,当時,教養のある男性は変体漢文で日記などを書いていましたから,物語の中で,身分が高く教養のある男性のステレオタイプを想起させる話し方として,尊敬用法が使われたのかもしれません。
さらに,同じく変体漢文の中で多く用いられ,従来の研究では尊敬用法とされてきたラレ文の中に,事物主語の受身に非常によく似た機能を持つ文がありました。
(12) 唐めいたる舟造らせたまひける,急ぎさうぞかせたまひておろし始めさせたまふ日は,雅楽寮の人召して,船の楽せらる。(源氏物語・胡蝶)
〔源氏の大臣は,かねて唐風の船をお造らせになっていたのを,急いで装いをおつけさせになって,はじめて池にお浮かべになるが,その日は,雅楽寮の楽人をお召しになって,船楽を催される〕
この種のラレ文は,現代人から見ると事物主語の受身にそっくりです(「船楽が催される」)。このラレ文は,従来尊敬用法と分類されていた中に,動作主(行為の主体)が漠然として不特定であり,かつ主体が行為を間接的に行うという意味を表す特殊な文があるとして,吉田(2019)で「主催」と呼ばれた用法です。なぜ尊敬用法と考えられたかというと,対象を主格表示した確例がない上に対象がヲ格表示される例があるからです。事物主語の受身なら,対象が主格表示されるはずだというわけですね。この主催の文は,多くは動作主が朝廷などの公の機関や組織だと考えられます。このため,個人の特定の動作主が想定されておらず,動作主が漠然としているのです。
しかし,動作主が不特定で漠然としている,というのは事物主語の受身の特徴とそっくりです。事物主語の受身は,動作主を不問に付したいときに用いられるのでした。つまり「動作主背景化」という機能を持っています。もしこの事物主語の受身を,受身とは呼ばずに「動作主背景化構文」と呼ぶなら,主催の文はまさに動作主背景化構文だと考えられます。さらに言うなら,古代語のヲ格の用いられ方は現代語とはかなり異なりました。よって,対象がヲ格表示されるからと言って,これが絶対に受身用法ではないとは言えないと思います。
よって,古代日本語のラレ文に,事物主語の受身に相当する用法が全くなかったとは言い切れないのではないかと私は考えています。『源氏物語』などの和文資料の中ではほとんど用いられなかったものの,変体漢文や和漢混交文の中ではこうした用法が使われていて,それらが近代(明治期)以降に急速に定着した事物主語受身の下地になっていったのではないかと考えています。
以上,古代語のラレ文についてまとめました。古代語のラレ文は,和文資料の中では自発・不可能と人主語受身が中心的な用法でした。しかし,その周辺には,状態受身や尊敬,そして主催と呼ばれる用法が存在しました。
次回はいよいよスペイン語の中動態についてご紹介します!スペイン語の体系を見ることで,古代語のラレ文の体系への理解も深まっていくと思います。どうぞお楽しみに!
【引用文献】
森野宗明(1971)「古代の敬語Ⅱ」『講座国語史5 敬語史』大修館書店.吉田永弘(2019)『転換する日本文法』和泉書院.
※今回の連載に書いたことは,次の論文及び口頭発表の予稿集に書きました。また,引用している古代語の用例は基本的に国立国語研究所『日本語歴史コーパス(CHJ)』からの用例です。
志波彩子(2018)「ラル構文によるヴォイス体系―非情の受身の類型が限られていた理由をめぐって」岡﨑友子ほか(編)『バリエーションの中の日本語史』くろしお出版.志波彩子(2019)「古代日本語ラル構文の構文ネットワーク」日本言語学会第158回大会ワークショップ「構文ネットワークの可能性と課題」(6月23日,於:一橋大学).志波彩子(2020)「受身・可能とその周辺構文によるヴォイス体系の対照言語学的考察―古代日本語と現代スペイン語」『言語研究』158.志波彩子(近刊)「自然発生(自動詞)から自発へ―古代日本語と現代スペイン語の対照-」青木博史ほか(編)『日本語文法史研究』6.
-
- 2022年08月09日 『5. 動詞のヴォイスに魅せられて:可能(古代日本語も含めて) 志波彩子(名古屋大学)』
-
今回は「可能」について考えていきます。「読める」とか「起きられる」とかが可能を表す形ですが,「する」の可能形式は「できる」になるわけですね。子供が1歳~2歳くらいのころ,「する」の可能形を「しれられる」と言っていました。おそらく,わたしが「ら抜き」をせずに「食べられる,見られる」と言っていたので,「られ」がすごく耳に残ったんだと思います。「する」の未然形(?)「し」に「れ」を入れて「られ」をつけた感じです。否定形は「しれられない」と言っていました。
「見れる,来れる,食べれる」などの「ら抜き」表現は,NHKなどでは未だに発言者が「ら抜き」表現を使っても字幕で訂正するくらい,正しくない日本語として認識されていますが,これは言語の自然な変化の形であって間違いではありません。言語がより合理的できれいな体系へと変化する過程だと見ています。このことは最後に説明したいと思います。
さて,日本語の可能を表す形式というのは1つに定まっていなくて,いろいろな形式が可能を表します。文法的な受身の意味を表すのは「-(r)are-(ラレル)」という形だけですが,可能の場合は五段動詞と一段動詞で形が異なっています。
(1) 五段動詞:読む:yom-u+-e- → yom-e-ru読める
(2) 一段動詞:食べる:tabe-ru+-rare- → tabe-rare-ru食べられる
五段動詞の「読める,書ける」類は一般に可能動詞と呼ばれ,一段動詞はラレル形の可能用法とされていますが,表面上の形は違っても文法的な意味はまったく同じです。このほか,より改まった固い文体に用いられる表現として「―することができる」も可能を表しています。
動詞の形がいろいろあるのと同時に,可能は構文論的にもいろいろなバリエーションがあって,名詞の格もつぎのように様々な形を取り得ます。
(3) 道夫が魚をさばけることはみんな知っている(道夫は魚をさばける)。
(4) 空美には,英単語がどうしても覚えられない。
(5) 陸が生魚が食べられないことはみんな知っている(陸は生魚が食べられない)。
(格を明確にするために上のように「こと」の中に入れて例文を見せています。)
このように,他動詞が可能文になるとき,「―が―を」「―に―が」「―が―が」という格パターンを取りうるんですね。ラレル文の自発と受身と比べると,「―が―を」と「―に―が」は受身文も取りうる格パターンで,「―に―が」は自発文の格パターンです。
(6) 道夫は背中を押されて前に出た。《―が―を》
(7) 先生にぼくが褒められることはない。《―に―が》
(8) わたしには故郷が懐かしく思い出された。《―に―が》
第1回の連載で,ヴォイスについて,「主語が自らの意志で行為を発するか否かを動詞の形と構文論的な手段で表し分ける文法カテゴリー」ということを少し述べましたが覚えているでしょうか。つまり,他動詞文(能動)が「主語が自らの意志で行為を発する」文であるのに対して,自発や受身はそうではないことを表すためにラレルを付けて名詞の格の配置も変えているわけですね。これに対して,可能は,特に「―が―を」という格パターンを取ったときには,ガ格は動作主ですし,他動詞文と全く同じ構造を持っていることになります。これは,可能文のある種のタイプは非常に他動詞文に近い性質を持っていることを意味しています。
ただしこれは現代語の話であって,古代日本語では可能と自発と受身は非常によく似た格パターンを取っていました。そのことはいずれ見たいと思います。
さて,文法における「可能」とはどのような意味なんでしょうか。可能とは,「動作主がその行為をしようという意図を持った場合にその行為が実現するだけの許容性,萌芽がその状況の中に存在する」(尾上1998:93)という意味だと尾上圭介という人が定義しています。この定義は,なかなか難しいですが,可能の意味を,初めて「できる」とか「可能だ」という言葉を使わずに定義したものとして注目に値すると思います。この定義によれば,「可能」の意味には,(i)「動作主の意図」と(ii)「行為実現の許容性(要因・条件)の存在」という2つのファクターが必要だということになります。この2つのファクターは可能の意味を他の自発や受身と区別するときに,非常に重要になってきます。
以上のような意味を持つ可能文はまず大きく2つのタイプに分類されます。1つは時間の中に展開する出来事ではない,潜在的な事態を表すもので,「潜在系可能」と言われます。可能というのはそもそも現実に起きることではない可能世界のことを言うのが本質なので,「潜在系可能」こそが可能らしい表現ということになります。もう1つのタイプは,時間の中で一回的な出来事として実現することを表す実現系の可能です。それぞれ,次のような文のことです。
(9) 花子は部下の名前が覚えられない(人だ)。【潜在系可能】
(10) 花子は部下の名前がやっと覚えられた。【実現系可能】
上の例では,潜在系可能は花子の潜在的な能力について言っていて,実現系可能は実現が難しい事態が一回的な出来事として実現したことを述べています。
さらに可能文は,先の定義にあった「行為実現の許容性」がどこにあるのかによって,次のように分けられて呼ばれることがあります。
【潜在系可能】
(11) 時雄は人の名前がすぐに覚えられる。《能力可能》
(12) この本は簡単に読める。《対象可能》
【実現系可能】
(13) 時雄はその人の名前がすぐに覚えられた。《能力可能》
(14) この本は簡単に読めた。《対象可能》
能力可能というのは,行為実現の許容性が動作主の能力にあるもので,対象可能というのは実現の許容性が対象にあるものです。例えば,「この本は簡単に読める」というのはどんな動作主にとっても「読む」ということが「簡単に」実現するだけの許容性(条件)が,「この本」の特性としてあるということです。ここはかなり専門的な言い方になってしまいました。
このほか,「あの人のことが恋し過ぎて水も飲めない」などは動作主の心情が行為実現の許容性・非許容性(要因)になっているので「心情可能」と呼ばれたり,「空いていたので,すぐに店に入れた」などは「空いていた」という状況が許容性(要因)になっているので「状況可能」などと呼ばれたりします。
実際の使用では,「この論文は難しすぎて私には読めない」など,いくつかの条件が複合的に行為実現の許容性に関わっていることが多いです(ここでは対象と動作主の能力が許容性)が,典型的にはこのように分けることができます。こうした分類は,「この時代にはこのタイプのこの可能しか存在しなかった」というような歴史的変遷を捉えたり,「この言語にはこのタイプのこの可能表現しかない」などの他の言語と対照したりするときに役に立ってきます。
さて,現代語では一段動詞と五段動詞で可能の形式が違ってしまっているわけですが,江戸時代まではどちらの動詞でもラレル形が使われていました。また,格パターンも可能,自発,受身でそっくりでした。特に可能と自発は構文論的にも意味的にも非常によく似た用法でした。そのことを少し紹介したいと思います。
古代日本語のラレによる可能文は,潜在的な動作主の能力などを表すものはなく,すべて一回的な実現の如何を語るものでした。つまりすべて実現系可能だったということです。その中でも動作主の能力を述べるものは別の可能形式で表現され,ラレはむしろ動作主の心情や動作主を取り巻く状況によって,その行為が実現しないということを述べるものが大半でした。
(15) 召し入れて,のたまひ出でんことのあヘなきに,ふとものも言はれたまはず。(源氏物語・夕顔)
〔すぐお呼び入れになって,さてこの顚末をおっしゃろうにも,それがあまりにもあっけないことになってしまったので,急には何もおっしゃれない。〕
(16) 使はるる人も,年ごろ慣らひて,立ち別れなむことを,心ばへなどあてやかにうつくしかりつることを見慣らひて,恋しからむことの堪へがたく,湯水飲まれず,同じ心に嘆かしがりけり。(竹取物語)
〔使用人たちも,何年もの間慣れ親しんで,気立てなども高貴でかわいらしかったことを見慣れているので,別れてしまうと思うと,恋しい気持ちがこらえきれそうになく,湯水ものどに通らないありさまで,翁,媼と同じ心で嘆き合うのであった。〕
(17) 御胸つとふたがりて,つゆまどろまれず,明かしかねさせたまふ。(源氏・桐壺)
〔帝は胸がいっぱいにふさがって,とろりともお寝みになれず,夏の短夜を明かしかねておいでになる。〕
このように,ラレ文の可能用法が表していたのは,「花男は英語が話せる」のような能力可能ではなく,かつ潜在的な可能でもないことが分かります。すべてある特定の時間の中で,何らかの状況や心理的な状態が要因となって,普通であれば自分がコントロールできるはずの事態が実現しないことを述べています。ここでは全て否定の例を挙げましたが,古代日本語では肯定の可能も少し見られるものの,可能文は否定に偏っています。
ここで先の可能の意味に必要なファクターを振り返ると,可能には自発と違って,行為実現に対する「動作主の意図」があるのでした。上の例は,動作主がその動作を意図して行っても,ある要因によってそれが実現しないということを表しています。例えば,「胸がふさがって眠れない」というのは,「眠ろう/眠りたい」という意図があっても「胸がふさがって」という要因のために行為が実現しないという意味です。
意図のあるなしでは自発と可能は異なっていますが,次のような共通点もあります。1つは,行為実現に関わる要因があるということです。前回の自発でも,よく注意して例文を観察すると,「遠くの山を見ると,故郷が思い出される」のように,行為を実現させる要因(ここでは「遠くの山を見る」)があるのが普通でした。何らかの要因がきっかけとなって,自分の意志と関わらず自分の行為が実現してしまう,というのが自発でした。これに対し,否定の可能の場合は,「行為実現の許容性の存在」というのは,「行為実現を許容しない状況の存在」と言えると思います。上の例では,(17) 「あまりにもあっけなくて」,(18) 「恋しい気持ちが耐えられなくて」,(19) 「胸がふさがって」という「実現を許容しない状況=要因」があります。
さらには,自発でも可能でも「動作主(行為者)」の視点から事態を述べているという共通点があります。いずれも動作主に視点があり,動作主の側から,自分の行為が実現する/実現しないことを述べています。これは受身とは大きく異なる点です。受身では,動作主ではなく,動作を受ける対象の方に視点があり,動作主からの行為を受けるという意味を表しています。
以上のような共通点から,ラレの自発と可能は,動作主の行為の実現を語る文として,肯定では自発,否定では不可能を表していたと言っていいと思います。
◆通常であれば意志的にコントロールできるはずの行為が,何らかの要因によって
(意志と関係なく)実現する⇒自発
(意図があっても)実現しない⇒不可能
このように解釈されたという意味です。
さて,今回もなかなか専門的な難しい話が多くなってしまいましたが,前回述べた「古代日本語は西欧諸言語が事物主語の受身を発達させた領域に自発・可能を発達させた」という仮説に戻りたいと思います。日本語は,「扇が捨てられる」という事物が主格に立つ事態は,「扇が(誰かによって)捨てられる」という受身の意味ではなく,「扇が(自然と)捨てられてしまう」という自発,もしくは「扇が(恋し過ぎて)捨てられない」という不可能の意味として中心的に発達したため,事物主語の受身がほとんどなかったのだということになります。その後,鎌倉時代から江戸時代にかけて,可能の意味はラレ文の中で肯定用法を発達させてどんどん勢力を拡大していきます。これに対し自発は,可能に押されて次第に勢力が弱まり,一部の動詞のみに使われる用法になっていきます。そして江戸時代後半に,現在私たちが使っている可能動詞の接辞「-e-」というのが,再び自動詞からの類推で取り出されました。これは,古代語では受身・可能・自発というのが非常に隣り合う意味として共存していたのに対し,可能と受身が明確な用法として確立するにつれて,可能の形式が受身とは別にほしくなったためだと考えられます。
そこへ明治になり,西欧文典の翻訳が盛んに行われ,西欧語にある事物主語の受身をラレル文で翻訳するようになった。このため,可能はますますラレル文から追い出されて行ったというわけです。つまり,「扇が捨てられる」等の事物が主格に立つラレル文は事物主語の受身の意味を確立していった,ということです。
この変化は現在でも続いていて,今では一段動詞までもがラレル文から追い出されて可能動詞化しつつあります。つまり,一段動詞でも五段動詞でも「-(r)e-」という接辞を付けて可能動詞化しているということですね。これが「ら抜き」と呼ばれる現象です。
(18) 五段動詞:読む:yom-u+-e- → yom-e-ru読める
(19) 一段動詞:食べる:tabe-ru+-re- → tabe-re-ru食べれる
これは言語の体系が合理的なものになっていく過程だと考えられます。つまり,可能文はすべて可能動詞が担うことになり,ラレルは受身専用の形式になりつつある,ということですね。
以上,今回は可能文について紹介しました。次回は古代日本語のラレ文についてまとめた上で,第7回からはスペイン語の中動態の体系の話へと進んで行きたいと思います。どうぞお楽しみに!
【引用文献】尾上圭介(1998)「文法を考える6 出来文(2)」『日本語学』17-10
-
- 2022年08月02日 『4. 動詞のヴォイスに魅せられて:自発(古代日本語も含めて) 志波彩子(名古屋大学)』
-
動詞のヴォイスに魅せられて:④自発(古代日本語も含めて)
わたしは,博士論文を書いているときに長女を出産し,その後東京外大の研究員をしていたときに次女を出産し,その後非常勤講師の仕事をしていたときに三女を出産しました。研究員のときには,最低限の産休育休が取れましたが,非常勤講師の場合は出産となるとすべての仕事を断って辞めなければなりませんでした。三女が生まれたときには次女はまだ2歳で,おむつをしている状態,お風呂はもちろん,着替え,食事,自分の荷物準備などもまだ一人ではできない年齢でした。朝5時ごろ起こされて,三女に授乳して朝ごはんを作り,次女のおむつを替えて三女のおむつを替えて,次女を着替えさせて長女にも準備させて幼稚園に送って行って朝食を片付けてまた三女に授乳しておむつを替えて洗濯して干して買い物に行ってまた授乳して部屋を片付けたらもう幼稚園のお迎え・・・,という目まぐるしい日々を送っていました。赤ん坊は1日当たり1リットルくらいの母乳を飲みますので,毎日自分の血液を使ってこれを生産し続けるわけです。これは激しいエネルギーの消耗でした。しかも,胸に血液を奪われて脳への血液が不足するせいか?,何か抽象的なことを思考することが非常に難しくなります。無職となった自分はこのまま一生研究者には戻れないんじゃないか,という不安と焦りでいっぱいでした。少しでも前に進まなければと,子供たちが寝た後に何とかパソコンの前に座ろうと思っても,そんな体力は1mmも残っておらず,毎日が地を這うような思いだったのを覚えています。こんなとき,夫がもう少し「自発的に」家事・育児をやってくれたら…,と多くのお母さんが一度は思ったことがあるのではないでしょうか。
今回はラレルの自発の用法について紹介したいと思います。しかし,文法用語としての「自発」というのは,上で使ったような,一般的な意味での「自発」とは真逆の意味を表しますね。一般的な使い方は,「自分からすすんで,自分の意志で」という意味ですが,文法用語としての自発は,「人の意志と関係なく,自然に起こる」という意味です。
現代日本語では,ラレルの自発の用法は非常に限られた動詞でのみ使われているので,あまりなじみがないかもしれません。自発文とは,例えば次のような文です。
(1) 遠くの山を見ると,故郷が懐かしく思い出される。
(2) 彼の態度からは,かなり余裕があることがうかがわれた。
(3) 迷惑にならないかと心配で,そのことを口にするのは憚られた。
いずれも何らかの要因がきっかけとなって,自分の意志に関わらず行為が実現するという意味を表しています。こうした自発文は,現代語ではやや改まった固い文体の中で用いられ,日常的な砕けた会話の中ではあまり使われません。さらに,受身文に比べて使用が非常に限られ,文法的な形式としての生産性をなくしています。
文法的な形式というのは,より多くの語に広く使われるものほどより中心的な形式である(文法化している)と考えられています。例えば,受身文の場合,第2回に書いたように,全ての他動詞が用いられるのはもちろん,人の行為を表す自動詞までもが受身文になることを見ました(「いる,座る,歩き回る」など)。ただし,受身文にならない動詞も存在します。それは事物の自然発生的な変化を表す自動詞(「割れる,崩れる,溶ける,曲がる」など)です。これに対し自発文の場合は,「思う,考える,思い出す,うかがう」などの思考動詞と,「憚る,待つ,期待する」などの感情や態度を表す一部の動詞に使用が限られています。つまり,受身に比べると,自発というのはラレルの用法の中では生産性が非常に低く,周辺的な用法であることが分かります。
それでも,現代語の自発文は受身文,特に直接受身文と次のような共通点があります。まず,自発文も他動詞の対象がガ格になります。(1)から(3)の文のもとの他動詞文を挙げると,次のようになります。
(4) 遠くの山を見ると,故郷を懐かしく思い出す。
(5) 彼の態度から,かなり余裕があることをうかがった。
(6) 迷惑にならないかと心配で,そのことを口にするのを憚った。
このように,自発文のガ格名詞はもとの他動詞文のヲ格名詞の対象である点で直接受身と共通しています(ただし,上のような意味で使う場合は,「うかがう」や「憚る」は自発形の方が自然かもしれません)。
さらに,もし自発文で動作主の人を表示する場合はニ格名詞になります。これも直接受身と共通する文構造の特徴です。
(7) わたしには《動作主》故郷が《対象》懐かしく思い出された。
(8) 一男が《対象》先生に《動作主》褒められた。
しかしながら,上の文を見ると分かるように,次のような相違点もあります。まず,語順がぜんぜん違います。受身文では基本的に動作主のニ格名詞は対象のガ格名詞の後ろに来るのがふつうの語順です。これに対し,自発文では,もしニ格の動作主が現れる場合は対象のガ格名詞よりも前に来て,さらに「は」で主題化されるのがふつうです。動作主が主題化されることと関連して,自発文の動作主の人は典型的には話し手である「わたし」で,対象は事物です。これも受身文とは大きく異なる構文論的特徴です。受身文では,むしろ対象のガ格の方が「わたし」であることが多いです(「わたしは先生に褒められた」のように)。
こうした共通点と相違点を持ちながら,受身文と自発文は同じラレル文の用法として共存しているわけですね。
ただし,古代日本語の自発文は現代日本語の自発文とはかなり様子が異なりました。以下では,古代日本語の自発文について紹介し,前回最後に提起した「なぜ古代日本語には事物主語のふつうの受身文が存在しなかったのか」という問題を考えて行きたいと思います。
現代日本語の自発文はその使用が非常に限られてしまいましたが,古代日本語の自発文はラレ文(る・らるの文)の中で最も多く使われる中心的な用法でした。古代語には,例えば次のような自発文がありました。まず,現代語と同じように心理的な動詞の自発文です。
(9) げに,そもことわり,人のにくむをよしと言ひ,ほむるをもあしと言ふ人は,心のほどこそおしはからるれ。(枕草子・この草子,目に見え心に思ふ事を)
〔だが,なるほどそれも道理で,人のにくむものをよいと言い,ほめるものをも悪いと言う人については,そういう人の心底がおしはかられるというものだ。〕
(10) おほかたに花の姿をみましかば露も心のおかれましやは御心の中なりけんこと,いかで漏りにけむ。(源氏物語・花宴)
〔(もしも世間の人並にこの花のようなお姿を見るのであったら,露ほどの気兼ねされることもなく心ゆくまで賞賛することができたであろうに)心中ひそかにお詠みになったのであろうが,これがどうして世間に漏れ伝わったのだろうか。〕
(11) 「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたるわりなきこと」と聞こゆるさまの馴れたるに,すこし罪ゆるされたまふ。(源氏物語・若紫)
〔「寄せてくる波の心をよく確かめもせずに,和歌の浦に美しい藻ー姫君が波のまにまになびきましては,あまりに軽々しいことになりましょう)無理な仰せでございまして」と申し上げる少納言の扱いが心得たものなので,君はいくらかご機嫌をおなおしになる。
(10)の「心の置かる」というのは,「心置く」がもとの形で,「心をへだてる,気兼ねする」という意味です。また,(11)の「罪許す」というのは「非難されるべきことを許す」という意味で,ここでは「相手の罪を自然と許してしまう⇒(嫌な気分になっていた)機嫌を直す」という意味になっています。こうした心理的な行為が自然と実現するという意味の自発文が一番多かったのですが,次のような動作動詞による自発文も少なからず使われていました。
(12) 格子押し上げ,妻戸ある所は,やがてもろともに率て行きて,昼のほどのおぼつかなからむ事なども言ひ出でにすべり出でなむは,見送られて名残もをかしかりなむ。(枕草子・暁に帰らむ人は)
〔格子を押し上げて,妻戸のある所は,そのまま一緒に女を連れて行って,別れ別れでいる昼の間の,不安な思いで過す気持なども,口にしながらそっと女の家を出て行ってしまうのなどは,自然,女はその男の後ろ姿を見送る気持になって,別れの名残もきっと風情があるはずのことであろう。〕
(13) 「【前略,女性の漢字の多い消息は】心地にはさしも思はざらめど,おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ,ことさらびたり。【後略】」(源氏物語・帚木)
〔本人としてはさほどにも思っていないのでしょうが,こちらではしぜんにごつごつした声で読ませられることになって,わざとらしい感じになります。〕
(14) 【相手の好意の深さが推し量られて,】かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇もうち置かれぬれ。(枕草子・いみじう暑き昼中に)
〔(氷を持つ一方で)使っていてさえ物足りなく感じられる扇も,思わずそばに置いてしまうのだ〕
(12)の「見送る」という行為はやや心理的な態度を含むかもしれませんが,動作でもありますね。(13)は,手紙に漢字が多いので,自然とごつごつした声で読んでしまうという意味です。(14)は「扇も置かれた」と言っていて,手に持っていた扇を自然と置いてしまうという意味になっています。
さらに,現代語では自発文になるのは他動詞だけですが,古代語では次のような「ほほ笑む,走る,引き入る」などの自動詞も自発文になりました。
(15) とうち誦じたまひても,鼻の色に出でて,いと寒しと見えつる御面影,ふと思ひ出でられて,ほほ笑まれたまふ。(源氏物語・末摘花)
〔とお吟じになって,その詩句から,鼻の先が赤く色づいて,ほんとに寒そうに見えていた姫君のお顔つきが,ふと思い出されて,つい苦笑せずにはいらっしゃれない。〕
(16) 「などかこと御門御門のやうにもあらず,土御門しも,頭もなくしそめけむと,今日こそいとにくけれ」など言ひて,「いかで帰らむとすらむ。こなたざまは,ただおくれじと思ひつるに,人目も知らず走られつるを。あう行かむ事こそいとすさまじけれ」とのたまへば,「いざ給へかし。内へ」と言ふ。(枕草子・五月の御精進のほど)
〔侍従殿は,「どうしてほかの御門のようではなく,土御門に限って,屋根もなく作り上げたのだろうと,今日のような日はとてもにくらしい」などと言って,「どうして帰って行けようか。こちらの方に来るのは,いちずに遅れまいと思ったので,人目もかまわず(自然と)走ったのですよ。もっと遠くへ行くとなると,全くおもしろくない」とおっしゃるので,「さあ,いらっしゃいませ。宮中へ」と言う。〕
(17) いかばかりなる人,九重をならすらむなど思ひやらるるに,うちにて見るは,いとせばきほどにて,舎人の顔のきぬにあらはれ,まことに黒きに,白きもの行きつかぬ所は,雪のむらむら消え残りたる心地して,いと見苦しく,馬のあがりさわぐなども,いとおそろしう見ゆれば,引き入られてよくも見えず。(枕草子・正月一日は)
〔いったい,どれくらい前世からの果報にめぐまれたしあわせな人が,宮中をなれなれしくふるまっているのであろうなど想像されるのだが,宮中で実際にこうして見るのは,たいへん狭い範囲で,舎人の顔の地肌そのままにあらわになって,本当に黒い上に,おしろいが行きわたらない所は,雪がまだらになって消え残っているような感じがして,とても見苦しく,馬がおどりあがってあばれているのなども,とても恐ろしく見えるので,自然に身体が車の中に引き入れられて,十分にも見ることができない。〕
このように,現代語よりもかなり広い範囲の動詞に用いられ,生産的な用法だったことが分かります。ラレ文の中での使用が最も多く,中心的な用法だったと考えられます。
さて,古代語ではこのように自発文がラレの中で大きな位置を占めていたことを見ました。ここで前回の問いに戻りたいと思います。なぜ古代日本語には事物主語のふつうの受身文がなかったのか,という問題です。
わたしは,この問題を次のように考えました。今回の自発文と次回紹介する可能文というのは,基本的に対象が事物であるのが特徴です。(9)「心が推し量られる」,(10)「心が置かれる」,(11)「罪が許される」,(12)は人が対象ですが,(13)「手紙が読みなされる」,(14)「扇が置かれる」のように,事物の対象が主格に立っています。ここで「主格」という言語学用語を使いましたが,これは動詞の補語として一番重要な名詞の格,つまり主語になる名詞の格という意味です。古代語の主格にはガ格とノ格がありますが,ラレ述語の対象は「は,も,こそ,なむ,ぞ」などの係助詞でとりたてられることが多いです。いずれにしても,自発文と可能文では事物の対象が主格に立つ(ことが多い)というのが構文的特徴になっています。
そこで気づいたのですが,日本語では西欧諸言語が事物主語の受身を発達させたその領域に自発と可能を発達させたから,事物主語のふつうの受身がなかったのではないかと思いました。つまり,「扇が置かれる」というのは西欧諸言語では「扇が(誰かによって)置かれる」という事物主語受身の意味になったのが,古代日本語では「扇が(自然と)置かれる」という自発の意味として発達した,ということです。これだけ聞いてもみなさん,「え?どういうこと?」と思うかもしれません。このことに気づいたのは修士論文を書いていたときでしたが,体中の血がざわざわしたのを覚えています(笑)。自分としては大発見だ!と思いましたが,このことを確かな用例と精緻な議論で説明することは非常に難しく,長い時間がかかりました。
次回,可能文を紹介し,その後スペイン語の中動態を見ていく中で,「古代日本語は西欧諸言語が事物主語受身を発達させた領域に自発・可能を発達させた」ということを少しずつ明らかにしていきたいと思います。どうぞお楽しみに!
-
- 2022年07月26日 『3. 動詞のヴォイスに魅せられて:古代日本語の受身文 志波彩子(名古屋大学)』
-
わたしは大学時代に現代日本語学とスペイン語学を主に学びましたので,古代日本語については歴史研究を専門としている人たちのような厳しい訓練は受けていません。にもかかわらず古代日本語にも研究の手を広げているのは,現代日本語の受身の現象を見ているうちに,古代語を見なければ分からないことが多すぎると思い始め,古代語を勉強するようになったからです。
しかし,古代語を対象として研究する人たちは,古代日本語をネイティブのように自由に操る?(解釈する)ことができるのはもちろん,その資料がどのような性格のもので,どんな底本があるのか,どのように資料を見なければならないか,どんな問題があるのかなどを徹底的に叩き込まれています。このため,研究会や学会で自分のような素人が古代語について発表するのは非常に勇気がいることで,「そんなことも知らずに研究しているのか」というようなお叱りを受けることもあります。これは当然のことで,わたし自身もスペイン語研究者が安易に日本語との対照をしているのを見ると気分が悪くなることもあります。
それでも,古代語をどうしても研究したいので,できる限りの知識を持って研究していくしかないです。私には現代日本語のほかにスペイン語の知識があり,このことは自分の大きな強みだと思っています。自分が古代語を見ることで,古代語研究者たちが気づかない視点からの分析ができるのではないかと考えています。
さて,今回は古代日本語の受身文の特徴について紹介していきます。「古代」というのは一般的に上代(奈良時代)と中古(平安時代)を合わせた時代を指します。受身の助動詞は,上代にはラエ(ゆ・らゆ)という形がありましたが,あまり生産的ではなく,すでにかなり固定的(化石的)な言い回しの中でのみ使われていました。同時代にラレ(る・らる)も使われていましたが,これも非常に用例が少なく,使用は限定的でした。つまり,上代はラエが次第に固い表現として使われなくなっていくのと並行して,ラレが新しい表現として認識されつつあった時代だったと考えられます。
ラエにも自発,可能,受身の意味があったため,ラエの用法をラレがそのまま継承し,中古に入って尊敬用法が加わったと考えられています。今回は特に受身の用法を中心に見ていきます。
第2回の連載にも書きましたが,古代日本語には事物が主語に立つ受身文がなかった,もしくはその類型が非常に限られていたと言われています。明治の文法家の山田孝雄(やまだよしお)は,ドイツ語を直訳した次のような受身文は。本来の日本語には存在しない表現であるという趣旨のことを述べています。
(1) 煖爐ノ中ニテ火ガオコサル。
(2) 屋根ハ煉化石ヲ以テ蓋ハル。
(3) 白墨ハ地中ヨリ掘ラル。
(いずれも山田1908:293より)
同様に,明治から大正の文法家である松下大三郎も,日本語に昔からあった受身文は「利害を被る」意味があるとし,「利害を被る意味その他特殊の意味の無い」受身文のことを「単純の被動」と呼び,これは「日本語固有の言ひ方ではない」として,次のような例を挙げています。
(4) 國旗は高く檣上に掲げられた。
(5) 家毎に門松が立てられた。
(6) 自治制度が布かれ國會が召集された。
(いずれも松下1930:160-61より,傍線原文)
上の受身文はいずれも事物が主語で,「誰がやったか」ではなく「何が起こったか」を中心に述べるために動作主を不問に付して述べる機能を持つ受身文だと考えられます。これに対し,古代語の受身文の中心的なタイプは,次のような人が主語に立つものでした。
(7) 「あな恐ろしや,春宮の女御のいとさがなくて,桐壼更衣の,あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」(源氏物語・桐壺)
〔「まあ恐ろしいこと,東宮の母女御がじつに意地が悪くて,桐壺更衣が,露骨な態度でないがしろにあしらわれた例も忌まわしいことで」〕
(8) 「【前略】いかになりたまひにきとか人にも言ひはべらん。悲しきことをばさるものにて,人に言ひ騒がれはべらんがいみじきこと」(源氏物語・夕顔)
〔また,どうおなりになったと人に申せましょう。悲しいことはそれとしましても,人に何やかや言い立てられるのがつらくて。〕
(9) かうのみ見つけらるるを,ねたしと思せど,かの撫子はえ尋ね知らぬを,重き功に,御心の中に思し出づ。(源氏物語・末摘花)
〔頭中将にいつもこうして見つけられてばかりいることを,癪の種にお思いであるけれど,あの夕顔の宿の撫子を中将は捜しかねているが,その行方を自分が知っているのは大手柄よと,心中ひそかにお思い出しになる。〕
(10) まいて,験者などは,いと苦しげなめり。困じてうちねぶれば,「ねぶりをのみして」などもどかる,いと所せく,いかにおぼゆらむ。これ昔の事なめり。今はいとやすげなり。(枕草子・思はむ子を)
〔まして,修験者などは,ひどく苦しそうである。疲れきってついちょっと眠ると,「眠ってなどばかりいて」と非難されるのも,たいへん窮屈で,当人は,いったいどんなにつらく感じていることだろう。〕
これらの受身文はすべて人が主語に立つ受身文で,「人が(主に悪い)影響を受ける」という意味が表されています。このような受身文が古代日本語受身文の中心的なタイプでした。
ただし,古代語に事物主語の受身文がまったくなかったわけではありません。例えば,次のような受身文は普通にありました。
(11) 御腹も,すこしふくらかになりにたるに,かの恥ぢたまふしるしの帯の,ひき結はれたるほどなどいとあはれに,まだかかる人を近くても見たまはざりければ,めづらしくさへ思したり。(源氏物語・宿木)
〔お腹も少しふっくらとなっていたので,あのお恥じらいになる妊娠のしるしの腹帯が結ばれているところなど,たいそういじらしく,まだこのような人を近くに御覧になったことがないので,珍しくまでお思いになっていた。〕
(12) 立蔀,透垣などの乱れたるに,前栽どもいと心苦しげなり。大きなる木どもも倒れ,枝など吹き折られたるが,萩,女郎花などの上に,よころばひ伏せる,いと思はずなり。(枕草子・野分のまたの日こそ)
〔立蔀や透垣などが乱れているので,庭先のあちこちの植込みは,見た感じも気の毒である。大きな木々が倒れ,枝などが吹き折られているのが,萩や女郎花などの上に,横倒しになってかぶさっているのは,ひどく意外である。〕
(13) 「【略】まゐりて見たまへ。あはれなりつる所のさまかな。台の前に植ゑられたりける牡丹などの,をかしき事」などのたまふ。(枕草子・なほめでたきこと)
〔参上して御殿の様子を見てごらんなさい。しみじみとした風情のある所ですよ。台の前に植えられていた牡丹などが,おもしろいこと」などとおっしゃる。〕
(14) 御女(むすめ)の染殿后(そめどののきさき)の御前に,さくらの花のかめにさゝれたるを御覧じて,かくよませたまへるにこそ。(大鏡・太政大臣良房)
〔ご息女の染殿后の前に,桜が花瓶に活けてある(差されている)のをご覧になって,このようにお詠みになる〕
これらの受身文はすべて事物が主語ですね。ただ,先ほど見た山田孝雄や松下大三郎が挙げている事物主語の受身とは少し違うことが観察できるでしょうか。ラレの使われ方をよく見てみてください。
事物主語の受身は,通言語的にも大きく2つに分類できます。次の2つのようなタイプです。
(15) 屏風が畳まれた。
(16) 部屋の隅に屏風が畳まれている。
1つは,(15)のようにその出来事が起こる,まさにその実現の局面を捉えて述べる受身文です。この文は,「畳まれる」という出来事(変化)が起きるその実現局面を捉えて述べています。これに対し,(16)は「畳まれる」という変化が起きたあとの結果状態の局面を捉えて述べています。前者は通常の受身文なのですが,後者は「状態受身(stativepassive)」などと呼ばれています。
古代日本語に存在した(11)から(14)の事物主語の受身文を観察すると,すべて結果状態を表す「たり」という助動詞が下接(後接)しています。つまりこれらは状態受身なんですね。さらに特徴的なのは,こうした状態受身の多くが,「~されているのが」のような準体句(名詞化する句)の中で用いられているということです。例えば(11)なら,「帯が結ばれているのがたいそういじらしい」のようになっています。「たり」という助動詞は,それ自体が先行する変化をほとんど意識せずに,目の前の状態を静止画的に捉えて述べる助動詞だと言われているのですが,こうした準体句に現れることで,さらに状態的に場面を一枚の絵のように捉えて述べていることが分かると思います。
まとめると,古代日本語には,「帯が結ばれている(結ばれたる)」のような状態受身はあったが「帯が結ばれた(結ばれけり)」のような受身文はなかったということになります。
さて,古代日本語に存在した事物主語の受身文には状態受身以外にもう1つタイプがあります。それは,次のような受身文です。
(17) この大臣の御おぽえいとやむごとなきに,母宮,内裏のひとつ后腹になむおはしければ,いづかたにつけてもいとはなやかなるに,この君さへかくおはし添ひぬれば,春宮の御祖父にて,つひに世の中を知りたまふべき,右大臣の御勢は,ものにもあらずおされたまへり。(源氏物語・桐壺)
〔この大臣は,帝のご信任がまことに厚いうえに,姫君の母宮は帝と同じ后腹の妹宮でいらっしゃったので,どちらから見ても,まことに結構でいらっしゃるが,この源氏の君までが婿君として加わられたのだから,東宮の御祖父で,将来は天下の政治を掌握なさるはずの右大臣のご威勢は,ものの数でもなくけおされておしまいになった。〕
(18) 【六条御息所】かやうに待ちきこえつつあらむも心のみ尽きぬべきこと,なかなかもの思ひのおどろかさるる心地したまふに,御文ばかりぞ暮つ方ある。(源氏物語・葵)
〔…自分がこうしてずっと君のお越しをお待ち申しているというのも,ただ心の尽きる苦しみを味わわされることになるのだろう,こうして,なまじ君にお逢いしたばかりに,かえって物思いの呼び覚まされるお気持でいらっしゃるところに,君のお手紙だけが,暮れ方に届く。〕
このタイプは状態受身のタイプほどには多くありませんが,古代語に存在した事物主語の受身です。これらの受身文と先ほどの山田と松下の挙げた受身文をもう一度比べてみると,こちらの受身文は人の広い意味での所有物が主語に立っていることが分かります。そのため,これらの受身文は単に「何が起こったか」を中心に述べるだけではなく,「人が何らかの影響を受ける」という意味を表しています。つまり,主語に立つ事物の所有者である人が影響を受けるという意味を表しているわけです。
このように,古代日本語には非常に限られたタイプの事物主語の受身文が存在しました。1つは「~されたる」という形の状態受身,もう1つは人の所有物が主語に立つ受身でした。前者には「人が影響を受ける」という意味はありませんが,後者の受身は,人が主語の受身と同じように「人が影響を受ける」という意味がありました。というわけで,古代語の受身文の特徴をまとめると,次のようになります。
表1:古代日本語の受身文タイプ
人主語の受身 古代語の中心的な受身文タイプ 人が影響を受けるという意味あり 事物主語の受身 人の広義所有物が主語に立つ受身 結果状態を表す状態受身 影響を受けるという意味なし
さて,わたしが大学院生のころから興味を持って取り組んだのは,もともとの日本語にはなぜ「帯が結ばれた」という普通の事物主語の受身がなかったのか,という問題です。このタイプの事物主語受身文は,明治以降に西欧諸言語の翻訳の影響で広まったものと言われていますが,現在では完全に自然な日本語として定着しています。私たちは,「試験が始まり,問題用紙が配られた」という文を聞いても,翻訳っぽい不自然な日本語だとは感じないですね。こうした受身文が,なぜ江戸時代以前にはなかったのか,なぜ明治以降,急速に日本語の中に定着したのか。この問題は,ラレルがなぜ受身,可能,自発,尊敬という意味を表すのかという問題とも大きく関わっています。これらの問いを連載の中で解き明かしていきたいと思います。次回は,ラレルの別の用法である「自発」についてお話ししていきます。お楽しみに!
【引用文献】
松下大三郎(1930)『標準日本口語法』中文館書店(復刻:白帝社1961,増補校訂版:徳田政信編『増補校訂標準日本口語法』勉誠社1977,同修訂版1989).山田孝雄(1908)『日本文法論』寶文館.
-
- 2022年07月19日 『2. 動詞のヴォイスに魅せられて:日本語の受身文の種類 志波彩子(名古屋大学)』
-
前回,ラレルを研究しているということで,みなさん,なんて小さな現象を研究しているんだと驚かれたと思いますが,ラレル文の中でも今回の連載では特に「受身」を中心にお話していきます。実はこの「受身文」の研究というのは,常に言語学,日本語学の花形であり続けてきました。名を残している有名な研究者なら誰でも一度は「受身文」について議論していますし,有名でなくても多くの人が受身文について論文を書いています。常に研究者の関心を引き付けてきた文法現象なんです。それだけに受身文の種類から,動作主の表し方や「迷惑」の意味について,さらに他言語の受身文との比較など,論文の数は枚挙にいとまがありません。
受身文の何がそんなに研究者を引き付けるのかと言うと,一つには「太郎が私にプロポーズした」という文で表されるのとまったく同じ事実を「私は太郎にプロポーズされた」という別の文で表している,これはなぜかということが一つの関心のありかなんだろうと思います。しかし,受身文の面白さはこれだけにつきません。
今回は受身文の種類とそれぞれの特徴について見ていきたいと思います。まず,次の文を見てください。
(1) 一男は学校で先生に叱られて泣いている。
(2) 文男は母親に家の掃除を頼まれた。
(3) 箱の中にお菓子がぎっしり詰められていた。
(4) 光男は友達に肩を押されて前に出た。
(5) 駅前にショッピングモールが建てられ,チラシが配られた。
(6) 文男は仕事中に子供にうろうろされて困っている。
ずらずらと受身文が並びましたが,みなさん,もしこれらの受身文を日本語が母語でない学習者に教えるとして,大きく2つに分けて教えるとしたら,どのように分けるでしょうか。どれとどれを同じタイプにし,どれとどれを別のタイプにするでしょうか。直観的にどのように分けるか,まず考えてみてください。
受身文の分類については1950年ごろから多くの議論がなされてきました。その中で,現在もっともスタンダードになっているのは,三上章(みかみあきら)という数学教師であった人で,日本語学についてもたくさんの面白い論考を残している人が分類した「まともな受身vs.はた迷惑の受身」でしょう。この三上の分類を受けて,寺村秀夫という今の日本語学の礎を築いた人が「直接受身vs.間接受身」という呼び方を定着させました。上の分類の中で,どれが直接受身でどれが間接受身か,分かるでしょうか。
答えは,(1), (2), (3),(5)が直接受身,(4)と(6)が間接受身になります。これはなかなか難しい分け方なんですが,何を基準にそのように分けているのでしょうか。
直接受身というのは,「対応する能動文のヲ格名詞(直接目的語),もしくはニ格名詞(間接目的語)が受身文の主語に立つもの」と一応定義できます。「一応」というのは,研究者によって,どこまでを直接受身とするか,間接受身とするかが多少異なるためです。一般的には,対応する能動文のヲ格名詞が主語に立つのが直接受身の典型と思ってくださればいいと思います。これに対し,「対応する能動文がない」のが典型的な間接受身です。
直接受身の対応する能動文を書いてみると,次のようになります。
(1)’ 先生が学校で一男を叱って,一男が泣いている。
(2)’ 母親が文男に家の掃除を頼んだ。
(3)’ 誰かが箱の中にお菓子をぎっしり詰めた(詰めていた)。
(5)’ 誰かが駅前にショッピングモールを建て,チラシを配った。
このように直接受身の場合は,対応する能動文のヲ格名詞またはニ格名詞の補語(目的語)が主語に立っていることが分かります。これに対し,間接受身の場合は,次のようになります。
(4)’友達が光男の肩を押して,光男が前に出た。
(6)’仕事中に子供が(文雄の周りを)うろうろして,文雄が困っている。
(4)の場合は対応する能動文のヲ格補語の所有者が受身文の主語に立っており,(6)の場合はほとんど文中の成分とは言えないような人が受身文の主語に立っていることが分かります。この間接受身文というのは,英語の「be+過去分詞」の受身文では述べることができない受身文として,研究者たちの注目を集め,1980年代~90年代にかけて多くの論考が出されました。こうして,日本語教育の現場でも,この分類がスタンダードなものとして,今でも強固に支持されています。
しかし,どうでしょうか。みなさん,自分の直観で最初に分類したものと一致していたでしょうか?
わたし自身は,受身文そのものの意味・機能を考えたとき,直接受身と間接受身よりも先になされなければならない分類があると考えています。それは,人が主語の受身なのか,物事が主語の受身なのかという分類です。つまり,まずは次のように2つに分類すべきだと考えています。
【人主語の受身】
(7) 一男は学校で先生に叱られて泣いている。
(8) 文男は母親に家の掃除を頼まれた。
(9) 光男は友達に肩を押されて前に出た。
(10) 文男は仕事中に子供にうろうろされて困っている。
【事物主語の受身】
(11) 駅前にショッピングモールが建てられ,チラシが配られた。
(12) 箱の中にお菓子がぎっしり詰められていた。
人が主語の受身は,「人が人に~された」という形で,主語が何らかの「影響を受ける」という意味を表しています。受身文が表すのは通常は悪い影響ですが,「褒められる,表彰される,招待される」など特に悪い影響ではないものも表すことができます。これに対し,事物主語の受身は,「誰がやったか」ということには無関心で,「何が起こったか(起きるか)」ということを,動作主を不問に付して述べるための文として機能しています。このように,受身文自体の意味と機能を考えるならば,まずは人が主語か,事物が主語かということで分けるべきだと思うのですが,日本語教育の現場ではなかなかこの考え方が浸透していません。
もちろん,先の直接受身と間接受身という分類が不要だということではありません。ただ,直接受身と間接受身という分類は,人が主語の受身の下位分類としてあるものだと考えています。人が主語の受身は,主語がどの程度直接的に事態に巻き込まれるかによって分類でき,直接対象の受身(7),相手の受身(8),持ち主の受身(9),第三者の受身(10)などとも呼ばれます。このうち,直接対象と相手が直接受身,持ち主の受身と第三者の受身が間接受身だと考える研究者が多いです。
表1:人主語の受身文の分類
直接vs.間接 受身の主語が動詞が表す事態の 例文 直接受身 直接対象 (私は)昨日田中さんにからかわれた。 相手 (私は)先生に手紙を渡された。 間接受身 持ち主 (私は)電車の中で足を踏まれた。 第三者 (私は)変な音楽を流されて,集中できなかった。
直接対象,相手,持ち主,第三者とは,受身文の主語が,動詞が表す事態にとってどのような役割を担っているかによる分類です。動詞が表す事態にとっての直接対象(能動文のヲ格名詞)が主語に立つ,相手(能動文のニ格名詞)が主語に立つ,対象の持ち主(能動文の対象のノ格名詞)が主語に立つ,まったく関係ない第三者が主語に立つ受身という意味です。この辺の説明はごちゃごちゃしていて,頭がこんがらがってくるかもしれません。もしこの段落の議論を完璧に理解できるとしたら,相当に文法的なセンスがあると言えると思います。
間接受身文というのは,インドネシア語にも相当するものがあると聞いたことがありますが,世界の諸言語の中でも非常に珍しい受身文であることは確かです。日本語では,「座る,いる,歩き回る」のように,対象を持たない自動詞であっても「(私は)こんなところに座られて迷惑だ」とか「(私は)いつまでもあなたに家にいられても困る」,「うろうろ歩き回られるより,テレビでも見ていてくれた方が楽だ」のように,その事態から影響を受ける人を主語にして,かなり自由に受身文を作ることができるんですね。
先ほど述べたように,この間接受身文は対応する能動文を持たないという(構文論的)特徴があるのですが,意味的にも,直接的な影響の意味ではなく「はた迷惑」の意味を表すと言われています。直接の迷惑ではなく,「はたで迷惑を受ける」ということですね。
しかし,人が主語に立つ受身は直接受身でも間接受身でも,いずれも「影響を受ける」という意味を表している点で共通しています。また,先の(1)’, (4)’, (6)’を見ると分かると思いますが,受身文ではなく能動文を使って述べると,これらの文の主語がごちゃごちゃして文に統一感がなくなります。
(1)’ 先生が学校で一男を叱って,一男が泣いている。
(4)’ 友達が光男の肩を押して,光男が前に出た。
(6)’ 仕事中に子供が(文雄の周りを)うろうろして,文雄が困っている。
このように,人が主語の受身文は「主語をそろえて述べる」ために機能していることが分かります。
これに対し,事物が主語の受身文を能動文にしたものはどうでしょうか。
(3)’ 誰かが箱の中にお菓子をぎっしり詰めた(詰めていた)。
(5)’ 誰かが駅前にショッピングモールを建て,チラシを配った。
ここでは,「誰がやったか」ということは不問に付したいのに,能動文にすると「誰かが」という主語を立てる必要があり,やはり何だか不自然な文になります。ちなみにこれらの文の主語を省略してしまうと,どうでしょうか。
(3)’’ 箱の中にお菓子をぎっしり詰めた(詰めていた)。
(5)’’ 駅前にショッピングモールを建て,チラシを配った。
まるで話し手である「私」の動作として述べているかのように聞こえてしまいます。ですので,やはり受身文で述べる必要があるのですね。このような事物主語の受身は,対応する自動詞のない他動詞(無対他動詞)の事態を自動詞的に述べるために使われていると言われています。つまり,対象を主語にして「何が起きたか(起きるか)」を述べるとき,対応する自動詞があれば自動詞で述べるところを,自動詞がないので受身が使われる,ということです。
(13) 一男がコップを割った。【有対他動詞】
(14) コップが割れた。【自動詞】
(15) 試験官が答案用紙を配った。【無対他動詞】
(16) 答案用紙が配られた。【受身】
しかし,こうした事物主語の受身の機能については,日本語教育の現場ではまだあまり意識的に教えられることがありません。直接受身と間接受身という分類がとにかく強固にあるためです。
直接受身と間接受身という分類は1950年ごろから盛んに議論されるようになったと最初に書きましたが,実はそれ以前,特に明治の文法家(山田孝雄や三矢重松,松下大三郎など)たちは,むしろ人が主語の受身か,事物が主語の受身かということに着目して受身文を見ていました。それは,人が主語の受身こそが日本語に固有の,古代日本語の中で中心的な受身文であったのに対し,事物主語の受身は,明治時代に西欧諸言語の翻訳の影響で日本語の中に広まった受身文であり,このような受身文は古代の日本語にはなかったというように考えられているからです。
よって,日本語の歴史的な流れから見ても,人主語の受身か,事物主語の受身かという分類は非常に重要な分類なんですね。今回は,こうした主語の違いが,受身文の意味や機能の違いになっていることを見てきました。
次回は,この江戸時代以前の日本語,特に古代日本語に存在した受身文についてお話ししたいと思います。どうぞお楽しみに!
-
- 2022年07月12日 『1. 動詞のヴォイスに魅せられて:自動詞・他動詞と受身文 志波彩子(名古屋大学)』
-
私は現在,名古屋大学で学部では第二外国語としてのスペイン語を全学部の学生に向けて教え,大学院では日本語教育学分野に属して日本語学や日本語教育学を教えています。研究では,特に日本語の「ラレル文」を分析していて,この連載でも,「ラレル文」についてスペイン語と対照しながらお話ししていきたいと思います。
大学は東京外国語大学の日本語学科を卒業しました。大学に入学したばかりのころ,入学手続きをしようと事務に並んでいたら,前にいた人が大学院で日本語を研究していることを知り,何を研究しているのか聞いたことがあります。その人は,「助詞」を研究していると教えてくれました。当時,わたしは文法や言語学には全く興味がありませんでしたし,そもそもそんなものを研究する学問があることも知りませんでした。「助詞」を研究していると聞いて,「なんて狭い小さなことを研究してるんだろう!」と驚きました。今だったら,「助詞は,格助詞?終助詞?とりたて助詞?どんな助詞ですか?」と聞き返すところですが。ですので,みなさんが「ラレル(れる・られる)」を研究していると聞いたら,「なんて狭い範囲の小さなことをやっているんだ!」とびっくりされるかもしれませんね。当然だと思います。
私は,高校生のときにメキシコに1年間留学してスペイン語を覚えました。スペイン語を学ぶ過程で,とても陽気で楽しい言葉だと思うと同時に,自分の話す日本語がなんて美しい言葉なんだろうと思うようになりました。将来は海外で仕事をしたいと思っていましたので,海外で日本語を教える仕事がしたいと思うようになり,日本語学科に入学したのでした。しかし,勉強が好きではありませんでしたし,大学は単位を取って卒業できればいい,くらいに考えていました。授業にもあまり興味が持てないまま3年生になり,早津恵美子先生の語彙論の授業を受けることになりました。その授業は「語彙」の種類や体系について学ぶ授業だったと思いますが,それほど熱心には参加していませんでした。そんな私に転機が訪れたのは,この授業の夏休みのレポートを提出し,返却されたレポートに書かれていたコメントを見てからです。そこには,「ほとんど授業に出ていないにもかかわらず,非常によく理解しています。言語学的センスに驚きました」とありました。私はその言葉を見て舞い上がり,それ以降授業に真面目に出るようになりました(早津先生は人の良いところを見つけて褒めることに非常に長けている先生です)。
早津先生は今日でも日本語のヴォイス(受動態や能動態などの態)研究の第一人者ですが,当時から有対動詞(ゆうついどうし)の研究で知られていました。有対動詞とは,自動詞と他動詞の対のある動詞グループのことです。例えば,「大木を倒すvs.大木が倒れる」「枝を折るvs.枝が折れる」「スプーンを曲げるvs.スプーンが曲がる」などの動詞です。これに対し,「たたく,干す,置く」などの動詞は対応する自動詞がないので無対他動詞(むついたどうし)と言われます。それまで勉強にはまったく興味がなかった私ですが,早津先生の動詞研究には異常な興味を感じました。
早津先生の有対動詞の議論は,対のある動詞のグループには,ある「意味特徴」があるというものでした。それは,「対象の変化」という意味特徴です。どのようなことでしょうか。例えば,次の文を比べてみてください。
(1) 大介が洗濯物を干す。
(2) 大介が洗濯物を乾かす。
この「干す」と「乾かす」という動詞は,よく似た意味を表しているようですが,「干す」は対応する自動詞がないのに対し,「乾かす」は対応する自動詞「(洗濯物が)乾く」があります。これは「乾かす」という動詞には「洗濯物」という対象を「乾く」という状態に変化させる意味を持つのに対し,「干す」は「乾く」ことを目的として行う動作ではあるものの,対象が「乾く」という変化までは含意しない動詞だからと説明されます。「洗濯物を干したけど乾かなかった」という文が自然なのはこのためですね。
このことは偶然のように見えるかもしれませんが,「直す,溶かす,外す,枯らす,曲げる,割る,崩す,壊す,開ける,砕く,固める,高める」のように,対応する自動詞のある他動詞は,対象に働きかけて対象をもとの状態から変化させる意味を含んでいます。これに対し,「干す,押す,つねる,呼ぶ,言う,読む,書く」などの無対他動詞は,対象に働きかけて対象を変化させるかもしれませんが,動詞の意味自体は対象の変化までを含んでいない動詞です。
このように,対象の変化を含意するか否かと言うことが,自他動詞の対の有無と関わっているというのは非常に面白い事実です。そしてこの「変化」という動詞の語彙的な意味における意味特徴は,これから見ていくヴォイスやテンス・アスペクトと言った文法カテゴリーにおけるいろいろな意味に深く関わっています。文の意味を考えるときのヒントとしても,ぜひ「変化」という意味特徴を覚えておいてください。
さて,他動詞と自動詞についてもう少し形態的な特徴を見てみたいと思います。次の表を見て,どのようなことに気づくでしょうか。
表1:対のある自動詞と他動詞
(日本語教育学会(編)『新版 日本語教育事典』大修館書店2005年,p.85参照)他動詞 自動詞 移す,通す,直す,回す,こぼす,流す,倒す,壊,す動かす,鳴らす,乾かす,重ねる,染める,埋める,混ぜる,荒らす,溶かす,冷ます,濡らす,起こす,落とす,滅ぼす,折る,裂く,破る,取る 移る,通る,直る,回る,こぼれる,流れる,倒れる,壊れる,動く,鳴る,乾く,重なる,染まる,埋める,混ざる,荒れる,溶ける,冷める,濡れる,起きる,落ちる,滅びる,折れる,裂ける,破れる,取れる
私はラレル(れる・られる)を研究していますが,このラレルというのは,自発や可能,尊敬なども表しますが,現代日本語ではほとんど「受身(受動態)」の形式として使われます。「今日先生に褒められた」のような形です。このラレルに対立するものとして,サセル(せる・させる)という形式があります。これは一般的に「使役」を表す形式です。使役のサセルは,「子供に晩御飯の支度を手伝わせる」のように,人に何らかの動作をやらせることを表します。
さて,先の表1に戻ります。みなさん,他動詞と自動詞の形態的な特徴に気づいたでしょうか。これは有対動詞に限らない特徴ですが,他動詞には語幹の活用語尾の直前に「-s-」の音を持つものが多く,自動詞には「-r-」の音を持つものが多いことに気づきますね。この特徴は,受身の助動詞が「ラレルrare-ru」であり,使役の助動詞が「サセルsase-ru」であることと関係があります。なかなかミステリアスですね。
歴史的に,ラレルとサセルは,自動詞と他動詞の形の類推(再分析)から文法的な接辞として取り出されたのだろうという説が,現在最も有力な説として認められています。自動詞というのは,基本的にはその事態が自然に生じること,伝統的に「自ずから然る(しかる)」と言われる自然発生の意味を表します。この延長にあるのが受身や自発などを表すラレルなのですね。そして,他動詞は基本的に対象に働きかけて対象を変化させる意味を表します。この延長にあるのが使役のサセルだということですね。今回の連載の中では,自動詞とラレルがどのように連続的でありつながっているのか,ということも見ていきたいと思っています。
最後に,これまでも何度か出てきた「ヴォイス(態)」とは何かということを簡単にお話しします。ヴォイスとは,主語が自らの意志で行為を発するのか否かを,動詞の形態論的な形と構文論的な転換によって表し分ける文法カテゴリーだと言えます。次の文を見てください。
(3) 達夫が庭の桜の枝を折った。
(4) 庭の桜の枝が折られた。
(5) 庭の桜の枝が折れた。
(3)は他動詞文で,動作主の「達夫」が主語となり,主語が自らの意志で行為を発することが表されています。これに対し,(4)の受身文は,主語が「庭の桜の枝」となり,これは(3)の他動詞文ではヲ格(「庭の桜の枝を」)の対象であったものです。このように,受身文では対象が主語となっています。このことは英語で受動態を学んだみなさんはよく知っている現象かもしれません。そして(5)の自動詞文を見ると,(4)の受身文と同じように,他動詞文の対象が主語に立っていることが分かります。ただし(5)の受身文は「誰かによって」事態が発生したことが表されていますが,自動詞文ではそうした含意がなく,誰かが折ったかもしれないし,強風が吹いて折れたのかは分かりませんが,とにかくそうした動作主や原因は不問に付されて,「動作主の介在なしに変化が実現した」という自然発生(自ずから然る)の意味が表されています。受身文と自動詞文には意味的にはこうした違いがあるものの,いずれも対象が主語に立っている点で共通してます。そしてこの2つの文は,「主語が自らの意志で行為を発する」他動詞文と対立していると言えます。これが「ヴォイス(態)」です。つまり,主語が自らの意志で行為を発するか否かという意味を,「ラレル」という形を付けたり動詞の「他or-u:自or-eru」という形で区別したりした上で,対象がガ格に立つという構文論的な転換によって表し分けている,ということです。
「構文論的な転換」というのはかなり専門的な言い方で分かりにくいかもしれませんので,もう少し分かりやすい例を挙げます。
(6) 太郎が道子にプロポーズした。
(7) 道子は太郎にプロポーズされた。
上の(6)と(7)も他動詞文と受身文です。この2つの文を比べると,受身文の動詞に「-are-(ラレル)」がついているのは形態論的な変化です。この他にこれらの文には次のような構文論的な転換があります。それは,他動詞文では動作主の「太郎」がガ格に立ち,対象の「道子」がヲ格であったのに対し,受身文では動作主の「太郎」はニ格になり,対象の「道子」がガ格に立っているということです。このように,他動詞文と受身文は,動詞の表す動作に参加する「参与者」をどのような格(格助詞)で表すかということでも違っているわけですね。
ここはかなり言語学的な専門領域に踏み込んだ話になりました。これからもどんどん踏み込んでいきたいと思っていますが,できるかぎり一般の読者のみなさんにも理解できるように,かみ砕いてお話ししていきたいと思います。なお,上の議論の中で「意志」や「動作(行為)」という概念が出てきましたが,この「意志」や「動作」という概念も「変化」と同様に動詞の様々な現象を考える上で非常に重要な概念ですので,ぜひ心に留めておいてください。
動詞に異常な興味を示した話からヴォイスの話をしてきましたが,動詞というのはこのように「ヴォイス」の転換や,「テンス・アスペクト」といった時間に関わる文法カテゴリーと,「モダリティ」という話し手が文で述べられる出来事をどのように現実と結びつけて捉えるかという文法カテゴリーに関わっており,文を統括する「述語」の中心的な存在なんですね。このことに気づいたとき,すっかり動詞に惚れこんでしまいました。
次回は,日本語の受身文の種類についてお話していきます。どうぞお楽しみに!
-
- 2022年07月05日 『7月からの新連載のお知らせ』
-
4月から12回にわたり、「世界の屋根でフィールド言語学を」というタイトルで、複数言語の調査研究をおこなっておられる立場から論じてくださった吉岡乾先生、ありがとうございました。知らず知らずのうちに特定の言語や分野に縛られていて、全体像を見失いがちであることを実感させられる連載でした。
さて、7月12日からの12回の連載は志波彩子先生(名古屋大学)による、「動詞のヴォイスに魅せられて--日本語のラレル文」です。志波先生は日本語とスペイン語の態(ヴォイス)を研究されています。この連載では、日本語の受け身や尊敬、自発、可能などを表すラレル文について、スペイン語との対照を交えながら、現在進行中の研究成果についても論じられます。(野口)