デジタル社会を生き抜くための情報倫理(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2021年09月28日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 12. 「思想の自由市場(Marketplace of Ideas)」論、再び:最後に恥をかく 大谷卓史(吉備国際大学)』
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最近機会があって以前書いた文章を見直すことがあり、「あちゃー、失敗した」と一人顔を赤らめることとなった。連載最終回は、おのれのこの恥を晒すこととしよう。
拙論「匿名と『言論の自由市場』」(大谷 2017: 52-56)においては、米国の法的伝統における「思想の自由市場(Marketplace of Ideas)」論は、一見したところミル(J. S. Mill)の『自由論』(On Liberty)の影響を受けているように見えるものの、ミルは、同書で、真理の発見における自由な意見表明や、多様な信仰・思想に対する寛容、議論の重要性を説いたにもかかわらず、「言論の自由市場」「思想の自由市場」ということばや、そもそも、市場を用いた比喩は存在しないと指摘した。この論点に関しては、とくに先行研究をあげていなかったのだが、最近機会があってこの文章を見直したところ、なんとなく嫌な予感がして、インターネットで検索してみた。すると、ズバリこの論点と重なる先行研究があるのを発見した。参考文献にあげたGordon (1997)である。あっさりと見つかった論文に目を通して、自分自身のリサーチ力のなさに愕然とした。
「思想の自由市場」ということばは、1953年ダグラス判事がUnited States v. Rumely(345 U.S. 41 (1953))裁判の同意意見で用いたのが最初だといわれる*1。決議案298によってロビイング活動についての調査権を得た議会委員会は、ある政治図書を再頒布のために購入した者の氏名を明かすよう発行者に命令したところ、発行者はそれを拒否した。議会委員会が議会侮辱を理由としてこの発行者を訴追したが、最高裁判所は高等裁判所の判断を支持し、上記の決議案298が違憲であり、この発行者の拒否は議会侮辱に当たらないと判断した。この際に、ダグラス判事は、この判決を支持する同意意見の中で、次のように述べた。
…被告は、米国出版の一部を代表するものである。彼のグループの出版物を好む者がいれば、それを認めないという者もいる。ある者たちにとってはその記事が本質的な知恵を示すものであるかもしれなしし、ほかの者たちにとってはその観点と哲学が呪わしきものであるかもしれない……つまり、この場にいるのは、書籍と冊子を通じて、米国民の知性と心にまで届くよう努める一人の出版者である。彼はほかの出版者といくつかの点で異なっている。しかし、その違いは小さいものである。新聞・雑誌・書籍の出版者のように、本出版者も思想の自由市場にいる人々の知性をひきつけようとしている。出版の自由を求める歴史的な戦いの目的は、「その政府の正当な行為や不正行為に関する十分な情報を得るという英国民の権利を確立・維持しようとする」ものであった……これが修正第一条[米国憲法における言論・表現の自由、思想の自由、結社の自由を根拠にかかわる条文]の背景にある伝統である。検閲や事前の制約は禁止される*2。
このように、人々の知性(the minds of men)を引きつけようと出版物が競い合うのが「思想の自由市場」だとされる。
それに先立ち、1919年には、ホームズ判事が「思想の自由市場」という用語は使っていないものの、「思想の自由取引(free trade in ideas)」ということばを使って、反戦ビラを撒いた活動家を有罪とした多数意見に対して反対少数意見(dissent)を述べている(Abrams v. United States, 250 U.S. 616)。ホームズ判事は反対意見を消し去ろうと考えるのはとても自然なことだと述べたうえで、米国憲法はそのような原則を有さず、文書による扇動を違法とする余地は米国憲法にはないと主張する。
……しかし、多くの互いに争う信念が生じる時代だと認識した場合、人々は、最高善が望むところの自らの振る舞いの根本的基礎に到達するのは、思想の自由取引 [free trade in ideas] によるほうがはるかにうまくいくと信じるようになるかもしれない--つまり、真理の最良のテストは市場競争 [ competition of the market ] でそれが受け入れられる思想の力であって、真理は、自分たちの望むところが安全に達せられるような基礎の上にのみ立つのだと信じるようになるかもしれない。程度の差はあったとしても、これがわが憲法の原理 [ theory ] である。これは実験であるが、あらゆる生活が実験なのとそれは同じである [ It is an experiment, as all life is an experiment. ] 。毎日ではないとはいえ、毎年、われわれは不完全な知識に基づく何らかの予言に自らの救済を賭けねばならない。実験がわれわれのシステムの一部である一方、われわれは自らが激しく嫌い死がともなうほどだと信じる意見表明を妨害しようとする試みに対して不断に警戒すべきと考える。ただし、法の適法かつ切実な目的に対して切迫し、かつ直接に脅かす干渉があるときには国を救うために即時の抑止が必要である。……*3( [ ] 内は引用者註)
「あらゆる生活が実験である」ということばは、ミルの『自由論』(Mill 1869=2020)を想起させる。「第3章 幸福の一要素としての個性について」(OF INDIVIDUALITY, AS ONE OF THE ELEMENTS OF WELL-BEING)においては、次のような「実験」に関する言及が見つかる*4。
……人類が不完全なあいだは、異なった意見が存在することが有益である。それと同じように、生き方についても異なった試みが存在し [ there should be different experiments of living ] 、他人に危害が及ばない限りで性格の多様性に自由な余地が与えられ、自分で試みることがふさわしいと思うときには、異なった生き方の価値を実際に確かめてみることも有益である(Mill 1869=2020: 127)([]内は引用者註)。
……たしかに、こうした貢献は、誰もが同じようにできるものではない。他の人々にも取り入れられて、すでに確立している慣行への改善につながりそうな試みをする人は、人類全体に比べれば、ほんの少数しかいない [ but few persons, in comparison with the whole of mankind, whose experiments, if adopted by others, would be likely to be any improvement on established practice. ] 。……(Mill 1869=2020: 144)( [ ] 内は引用者註)
さらに、「第4章 個人に対する社会の権力の限界について」(OF INDIVIDUALITY, AS ONE OF THE ELEMENTS OF WELL-BEING)においては、やはり次のような「実験」に関する言及がある。
……さらに、法律の場合には避けられない不完全さを補うものとして、少なくとも、世論がこうした悪徳に対する強力な取り締まりを実施し、悪徳行為が判明した者には、厳しい社会的刑罰を科すべきではないだろうか。こうしたことには、個性に制限を加えるとか、生活上の新しい独創的な実験の試みを妨げる [ impeding the trial of new and original experiments in living ] といった問題は何もない(と主張されるだろう)。防止しようとしているのは、世界が始まってから今に至るまでのあいだ、裁かれ非難されてきたものに限られている。それらは、どんな人の個性にとっても有益ではないし、ふさわしくもないということが、経験によって示されてきたものでしかない。(Mill 1869=2020: 180)([]内は引用者註)
ここでは、ミルじしんがばかげた生活上の「実験」を非難しているかのように見えるが、それはミルじしんの本意ではない。このあとの段落で、「ばかげた行為や不節制」によって借金が返せなくなった人を非難し妨害してもよいのは、それがその人だけに影響が限られる「ばかげた行為や不節制」じたいではなく、家族や債権者に対する被害があるからだと述べられる。つまりは、生活の実験は、ミルの他者危害原則(およそ判断能力がある成人の行為や生活は、それが他者に危害を及ぼさない限りは、たとえ愚かな行為に見えたとしても、法律や世論がそれに干渉し制限を加えるべきではない、とまとめられる)を守る限りは、それに干渉し妨害するべきではないということになる。
最終章に当たる「第5章 応用(APPLICATIONS)」においては、次の言及がある。
……国家が学校を設置して統制する、といった形での教育が存在してよい場合もある。ただしそれは、多くの競い合う試みの一つとして [ as one among many competing experiments ] 、他の教育機関を一定の優れた水準へと引き上げるための見本や刺激となる、という目的の場合だけである……。(Mill 1869=2020: 213-214)( [ ] 内は引用者註)
……政府の事業は、どこでも同じようなものになりがちである。それとは反対に、個人や自発的結社の場合には、多様な実験があり [ there are varied experiments ] 、経験の多様性も尽きることはない。国家が有益な形で行えることは、数多くの試行によってもたらされる経験の集積センターとなり、そうした経験を積極的に伝え広めることである。国家がすべきことは、国家が行なう実験以外は許容しないということではなく、実験に携わる個人が他の人々の実験によって利益を得られるようにすることなのである [ Its business is to enable each experimentalist to benefit by the experiments of others, instead of tolerating no experiments but its own. ] 。(Mill 1869=2020: 241-242)( [ ] 内は引用者註)
このように、個人やさまざまな教育組織の「実験」についてミルが言及し、これらの実験の社会的価値を擁護するとともに、生活の実験と結びついた言論・表現の自由の重要性を指摘しているところ(Mill 1869=2020: 127)を見ると、ホームズ判事はミル『自由論』を下敷きに、または少なくとも念頭に置いたうえで判決文を書いているようにも思われる。そのため、米国の言論・表現の自由に関する裁判の伝統における「思想の自由市場」、または「言論の自由市場」という思想は、ミルにさかのぼるという説明は少なくない*5。
ところが、「思想の自由市場」ということばも「言論の自由市場」ということばも、ミルの『自由論』にはないうえ、商品市場で生き残るのは多数の人々が支持する商品である一方、言論・表現の価値は同時代の多数の人々が支持するかどうかによっては決まらない。同時代不人気な思想であったとしても、それが将来の多数派になるかもしれない。ミルが擁護した女性参政権や女性の自由も同時代では嘲笑の的だった。だから、「思想の自由市場」「言論の自由市場」ということばは、ミルの思想を表すのには適切ではない。このようなことを、大谷(2017: 52-56)では主張した。
ところが、すでにGordon (1997)が同様のことを主張していた。Gordon (1997)も拙著と同様にミルの『自由論』には、「市場の自由市場」や「言論の自由市場」ということばがないことを指摘したうえで、ミルが主張したのは少数意見の尊重だったことを強調している。ミルは、とくに道徳的多数派に抗して、他者危害原則にのっとりながら生活の実験をする人々や、多数派の言論・思想に対抗する言論・表現を行う人々を擁護し尊重しようとした。つまり、Gordon (1997)が重要な同意見の先行研究であるにもかかわらず、拙著では言及をしていなかった。リサーチ不足・注意不足という恥をさらしたうえで、先行研究とミルの思想を紹介して、連載を終えたい。
ミルの『自由論』は、インターネットのソーシャルメディア通して見える現在の社会・言論状況の中では、ますますその重要性を高めていると考えている。この論点に関しては、またあらためてどこかで書きたい。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
Blasi, Vincent (2004) "Holmes and the Marketplace of Ideas," The Supreme Court Review, 2004 (2004), 1-46.
Gordon, Jill (1997) "John Stuart Mill and the `Marketplace of Ideas', Social Theory and Practice 23(2), 235-249.
Ingber, Stanley (1984) "The Marketplace of Ideas: A legitimizing Myth," Duke Law Journal, 1984(1), 1-91. https://doi.org/10.2307/1372344
Mill, John Stuart (1869) On Liberty, 4th ed., Longmans, Green, Reader and Dyer. =(2020)関口正司訳『自由論』岩波書店.
大谷卓史(2017)『情報倫理:技術・プライバシー・著作権』みすず書房.
*1 "Marketplace of ideas," Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/Marketplace_of_ideas
*2 https://supreme.justia.com/cases/federal/us/345/41/"
*3 https://supreme.justia.com/cases/federal/us/250/616/"
*4 以下、ミル『自由論』における「実験」への言及に関しては、Project Gutenbergの"On Liberty by John Stuart Mill"で全文検索を行ったうえで、Mill(1869=2020)と対照し、該当箇所を引用した。
*5 Ingber (1984)や、Blasi (2004)などを参照。
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- 2021年09月21日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 11. インターネット研究倫理 その6 データの向こうに「人」がいる 大谷卓史(吉備国際大学)』
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「プライバシー」とは何かという問いに関しては、プライバシーと呼ばれるものは多様であるものの、共通要素があってその共通要素にしたがって定義可能だという立場と、共通要素はないし、別の価値に還元ができるという立場が長年対立してきた。前者は、整合説(coherentism)、後者は還元説(reductionism)と呼ばれる(Schoeman 1984)。
米国のプライバシー法学者ダニエル・ソローヴ(Daniel Solove 2007=2013: 56-64)は、さまざまな性質をもつプライバシーと呼ばれるものは、共通要素があるわけではなく、ヴィトゲンシュタインのいう「家族的類似」によってプライバシーという同一の名前で呼ばれると説明する。共通要素がないという点では還元説と同様であるものの、プライバシーはほかの価値に還元できるという立場はとらない。非還元説的であり、非整合説的でもあるという点で、ソローヴの指摘は新しかった。
ソローヴ(Daniel Solove 2007=2013: 129-135)は、プライバシーが個人の私的領域を保護するという機能を越えて(同時に、プライバシーに超越的価値があるわけではないとも主張する)、社会活動のためにプライバシーは必要なのだとも主張している。とくに専門的職業の活動の中は、そのクライアントや関係者のプライバシーを保護することがその遂行には必要なため、守秘義務をともなうものがある。たとえば、家庭問題や財産問題などについて相談を受ける弁護士(弁護士法23条、刑法134条1項)や司法書士(司法書士法24条、76条)、身体や精神にかかわる不調について相談を受け、その状態について知ることができる医療職(医師(刑法134条1項)や看護師(保健師助産師看護師法42条の2、44条の4)など)には、罰則を伴う法的な守秘義務が伴う。プライバシーが保護されるという信頼がなければ、クライアントや患者は安心して、こうした専門的職業人に相談することができない。こうした社会的活動が可能になるには、プライバシー保護が必要条件となる。
人を対象とするインターネット研究においては、研究対象者にかかわる様々な情報を得る必要がある場合、プライバシーが保護されるという信頼がなければその研究活動そのものが実施できないだけでなく、場合によっては、研究対象者や研究対象者が帰属するコミュニティがインターネット研究にかかわる研究者全体への不信を募らせ、ほかの研究者もその研究対象者やコミュニティを対象とする研究ができないという事態にもなりかねない。個人にかかわる情報を取得する必要がある研究においては、プライバシー保護に努める必要がある。
しかし、研究活動のためにプライバシー保護を行うという考え方は健全なものではない。プライバシー保護を、研究を行うための「方便」と見るのは、その研究が、プライバシーが損なわれることで大きく傷つく可能性がある人を対象としているという事実を看過している。インターネット研究においては、直接人と向き合って調査を行う機会は少なく(皆無ではない。現在はインターネットベースの簡易なビデオ会議システムを使ってインタビュー調査等を行うことが可能となっている。ただし、ビデオ会議システムを媒介とするコミュニケーションの経験は対面とは大きく異なる)、インターネット上に残る「痕跡」であるデータを対象とする場合でなくても、コミュニケーションは直接的なものではない。コミュニケーションが直接的なものではないからといって、データの向こうに「人」がいることは忘れてはならないだろう。
社会科学・人文学分野の調査研究におけるプライバシー侵害の可能性に関しては、日本民族学会第一期・第二期研究倫理委員会(上野・祖父江 1992; 祖父江 1992)が早い時期に指摘している。上野・祖父江(1992)においては、同学会会員の「研究倫理に関するアンケート」の回答を抜粋して掲載している。調査対象となったコミュニティのメンバーのプライバシーを侵害する可能性が民族学的調査には常にあることを指摘する回答があり、人名は仮名とすべきという意見や、その人や家族などについて知識がある人であれば、その記述内容から当人を特定できるので、氏名を隠すだけでは不十分だという指摘などが見られる。
上野(1992)は、上記のアンケート結果から「人類学調査がプライバシーそのものの調査である」という問題の所在を指摘したうえで、「人類学の学問としての研究の自由は、プライバシーに抵触しない限りにおいて許容されるべきもの」と述べる。同報告においては、プライバシーにかかわる提言として、人名の仮名化の必要性とその限界に加え、第三者のデータ利用によるプライバシー侵害の可能性を認識するよう主張される。
フィールドワークにおける参与観察やインタビュー調査においては、プライバシー侵害の可能性に限らず、研究対象者・情報提供者やコミュニティに対してさまざまな迷惑をかける可能性がある。さらには、どのような調査であっても、研究対象者の時間や注意を使用することになり、迷惑を避けることはできない。つまり、人文学・社会科学における人を対象とする研究においては、調査される側にとっては、調査は「迷惑」なものなのである(神崎 2015; 安渓・宮本 2008)。
一般的に、人を対象とする研究においては、研究によって得られる学術的・社会的利益が研究対象者や情報提供者が被る危害や「迷惑」を上回ると同時に、研究対象者や情報提供者を保護してその危害や「迷惑」をできるかぎり少なく・小さくする必要がある。また、研究対象者や情報提供者が研究や調査が自分(や家族など)の利害にとってどんな影響があるか理解したうえで、自発的に参加することが求められるので、インフォームドコンセントや何らかの同意の確認プロセスが必要とされる。そして、いろいろな観点から弱い立場にあったり、被害を受けやすかったりする人たちが研究対象として不当な扱いを受けることがないこと、研究成果の受益において不利な立場にある人たちを研究対象とするべきではないと考えられる(この論点については、連載第9回で述べた、人を対象とする研究における「人格の尊重・善行(無危害)・正義」の原則も参照)。
インターネット研究においても、調査がそれだけでは迷惑であるという事実は変わらないと考えるべきである。ところが、インターネット研究は、一般的に、ビデオ会議システムを使うインタビュー調査等を除けば、一見したところデータとしか見えない対象を扱うことから、この「調査される迷惑」が余計に見えにくくなると予想される。
本連載第8回では、インターネット研究において「データ/人の区別」が困難な場合があることを指摘した。この困難さがある一方で、データの向こうに「人」がいるという事実を忘れることによって、研究上のトラブルに遭遇することがあり得る。適切なアクセス制御が行われていない場合であっても、研究対象者(テキストの著者や画像の撮影者、画像の被写体など)が、そのデータ(テキストや画像、映像など)について、印刷されて公刊された文献などとは異なる倫理的期待を有する場合がありえることは、すでに指摘した(本連載第8回)(大澤ほか 2018)。このような事態は、データの向こうに「人」がいるという事実を無視して、この「調査される迷惑」を意識していなかったことも原因だと説明できるだろう。
インターネット上に人々が残したさまざまなデータを利用する場合であっても、単にデータを取得・収集・分析して分析して、成果を公表する文献研究ととらえるよりも、民俗学・文化人類学(民族学)などのフィールドワークにおける参与観察や民話や伝承の聞き取り調査と類比的にとらえるべきという場合がありえる。したがって、このような場合には、研究倫理に関しても民俗学・文化人類学のフィールドワークの研究倫理を参照する必要がある(Tiinberg 2020; 大谷・壁谷・西條・神崎・大崎・久木田 2021)。
民俗学・文化人類学などのフィールドワークを行う調査研究においては、単なる研究資料のように情報提供者や調査対象のコミュニティ、その成員を扱わないためにも、現地への「研究成果の還元」が強調される。研究成果の報告書を情報提供者やコミュニティのメンバーに送付することを含め、この「研究成果の還元」にはさまざまな方法がある(安渓 1992; 神崎 2015)。
インターネット研究においても、研究対象者や情報提供者、彼らの帰属するコミュニティなどに対して「研究成果の還元」があってしかるべきだろう。研究対象者や情報提供者と研究終了後も継続して関係を持ち続けられるかどうかが、非常に重要なポイントになるように思われる。データの向こうに「人」がいるという事実を踏まえて、信頼関係を構築するということは、研究終了後の継続的な関係の維持ができるかどうかがきわめて重要だろう。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
Schoeman, Ferdinand D. (1984) “Privacy: Philosophical Dimensions of the literature,” Schoeman, Ferdinand D. ed. (1984) Philosophical Dimensions of Privacy: An Anthology, Cambridge University Press.
Solove, Daniel J. (2008) Understanding Privacy, Harvard University Press. = (2013)『プライバシーの新理論:概念と法の再考』みすず書房.
Tiinderberg, Katrin (2020)”Research Ethics, Vulnerability, and Trust on the Internet,” Hunsinger, Jeremy, Allen, Matthew M., Klastrup, Lisbeth eds. Second International Handbook of Internet Research, Springer, 569-583.
安渓遊地(1992)「『研究成果の還元』はどこまで可能か」『民族學研究』57(1), 75-81.
安渓遊地・宮本常一(2008)『調査されるという迷惑』みずのわ出版.
上野和男(1992)「調査研究とプライバシー」『民族學研究』57(1), 73-75.
上野和男・祖父江孝男(1992)「日本民族学会第一期研究倫理委員会についての報告」『民族學研究』56(4), 440-451.
大澤博隆・大谷卓史・江間有沙・西條玲奈・久保明教・神崎宣次・久木田水生・市瀬龍太郎・服部宏充・秋谷直矩(2018)「公的であり私的:ファン研究炎上の分析」『人工知能学会全国大会論文集』2018 3H2OS25b04.
大谷卓史・壁谷彰慶・西條玲奈・神崎宣次・大澤博隆・久木田水生(2021)「意思決定支援としての研究倫理-AoIR倫理ガイドラインの原則と倫理分析-」『信学技報』SITE2021-33, 182-189.
神崎宣次(2015)「研究方法に関する倫理問題」眞嶋俊造・奥田太郎・河野哲也編著(2016)『人文・社会科学のための研究倫理ガイドブック』慶應義塾大学出版会, 27-49.
祖父江孝男(1992)「日本民族学会研究倫理委員会(第2期)についての報告」『民族學研究』57(1), 70-91.
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- 2021年09月14日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 10. インターネット研究倫理 その5 質的調査における同意と信頼 大谷卓史(吉備国際大学)』
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・インターネット研究にける「同意」問題、再び
前回はふれることがなかったものの、インターネット研究における「同意」に関しては、利用規約でユーザーの投稿やオンライン上の行動が運営企業や第三者の実験や観察に利用されることを示し、あらかじめ包括的に同意を得ることは、有効な同意であり得るかという問題がある(大谷 2015)。利用規約全体を読む人々はさほど多くないことがよく知られている(Elshout, Elsen, Leenheer, Loos, and Luzak 2016)。利用規約に示していたとしても、実験が行われているときにはユーザーは実験が行われていることを知らないし、実験が終わったとしても実験が行われた事実が開示されることがない。Facebookのユーザーの投票行動が提示する情報によって変化するか(Corbyn 2012)、また、ユーザーの感情がタイムラインに表示される投稿の性質によって左右されるか(Kramer, Guillory, and Hancock 2014)を確認しようとした実験が倫理的非難を受けたのは、包括的同意の有効性と潜在的な「騙し」の性質を有する実験のデブリーフィングをめぐってのものだったと理解することができる。インターネット研究者にとっては、利用規約が研究方法・調査方法の制約になると、第9回で指摘したものの、一方では、ユーザーを研究対象者とすることに対する包括的同意を要求する利用規約の有効性という問題もあることに注意したい。
AoIR IRE 1.0(Ess and the AoIR ethics working committee 2002)によれば、同文書が想定するインターネット研究とは、主に社会科学・人文学分野のものを指している*1。社会科学・人文学研究における研究倫理上の問題は、インターネット研究における同種の研究・調査においても問題となる可能性がある。
社会科学的調査のうち、質的調査*2はインフォームド・コンセントを取得することが困難であったり、文書によるインフォームド・コンセントを取得することによって研究対象者との間の信頼関係が揺らぐ・壊れたりする可能性があるものもある。
たとえば、人生や生活全体とのかかわりから語り(ナラティブ)を聞き取り、それをもとに社会の分析や解釈を行い、公表を行うライフストーリー調査は、研究者が研究対象者(語り手)とともに語り手のライフストーリーの構築を目指すものであって、語り手を受け身の立場の「対象」(subject)ではなく「生き生きとしたパートナー」としてとらえる。桜井・小林(2005: 24-25)は、医療現場でのモデルとして文書によるインフォームド・コンセントを取得する手続きによって、語り手と聞き手の協働関係・信頼関係が揺らぐ可能性を指摘する。
まず、インタビューは特殊な様式とはいえ日常会話の一形態でそこに法的な拘束が絡む同意書の提示で語り手が困惑し、重荷を感じる可能性があるという(桜井・小林 2005: 24)。さらに、「……秘密や匿名を約束し、かつのちに公表にあたって修正も可能であることを約束しながら、同意書をとりかわすのは、はたして彼/彼女らの自発性を尊重していることになるだろうかという疑問もわく」(桜井・小林 2005: 25)とする。研究者/専門家と研究対象者/素人との非対称性が強調され、語り手であるはずの研究対象者を受け身の立場に置くのではないかというのである。
そのうえ、ライフストーリー調査では、調査の内容や質問内容は調査の前には不定型である場合が少なくなく、インタビューや調査を進める中で質問・応答があったり、観察・相互作用を通じて調査テーマが像を結んできたりするという場合が少なくないとされる(桜井・小林 2005: 24)。さらに、質的調査一般に関しても、「観察や日常的な接触から事実上の調査過程が始まる場合も少なくないし、研究の途中段階から、研究の内的な発展のゆえに、大きく焦点や対象者を変更するよう迫られる場合もありうる……」(長谷川 2007: 200)とされる。これらは、社会科学の質的研究においては、事前の厳格な倫理審査や同意書・承諾書によって研究の実施や継続が困難になりうるという指摘である。
さらに、インフォームド・コンセントにともなう同意書・承諾書の存在じたいが調査に応じた研究対象者の社会的評価や暮らしを脅かす可能性さえもあり得る。書面での同意、すなわち、同意書・承諾書は、同意のプロセスを踏んだことを証明する手段として求められる。藤本(2007: 172)によれば、センシティブな内容(同所があげる例では、「アルコール・薬物依存症、ドメスティック・ヴァイオレンス、不法滞在など」。また、現在や過去の非行・違法行為に関する社会調査なども同様の問題が考えられる)に関する事例調査で、対象者の回答が漏えいした場合、同意書や承諾書がまさにその当人が回答したという物的証拠となり、研究対象者が社会的・経済的な不利益を被る可能性が高い。一方で、生物医学的研究で被る不利益よりも社会科学的研究によって研究対象者が被る可能性がある不利益の深刻さ(侵襲性)は一般に低いと考えられる。このような理由から、藤本(2007)は、文書による同意は必ずしも社会科学的研究には必要がないと指摘している。
しかし、藤本(2007: 181-182)は、社会科学研究におけるインフォームド・コンセントじたいの必要性を否定するわけではなく、むしろインフォームド・コンセントの慣習を確立するべきであると主張している。その理由の一つは、インフォームド・コンセントにおける説明プロセスを通じて研究対象者に研究者の研究意図を理解してもらい、研究対象者の個人情報保護・プライバシー保護が十分に配慮されていると信じて安心して研究に協力してもらえる利点があることである。さらに、インフォームド・コンセントの義務を徹底することで、研究者に対して個人情報の漏えいリスクの低減や個人情報漏えいのリスクなどについて真剣に考え、研究対象者の保護のための手段を講じる必要性を認識させることができるともいう。このように、インターネット研究も含め、社会科学・人文学的研究においてインフォームド・コンセントじたいは重要であるとして、上記のような質的研究において、事前にインフォームド・コンセントの取得が困難な場合があることを考えると、研究者はどのように対応すればよいのだろうか。
・研究対象者および研究対象者の帰属するコミュニティとの信頼の構築
社会学者のTiinderberg(2019)は、自らの裸体を撮影し投稿するブログコミュニティを調査したが、注意深いコンタクトの手続きを踏むことで、研究参加者(ブログやコメントの投稿者)と信頼関係を構築し、当初の同意を超えてインタビュー調査を継続的に実施することができたと述べている。彼女は、通常の質的研究と同様に、将来のコンタクトの必要性を予想してメールやメッセージでのインタビュー調査についてあらかじめ回数等の同意を得たうえで研究を開始したものの、その後研究対象者(情報提供者)との注意深い相互作用を通じて、当初の同意を超えてこのコミュニティを対象とする調査を7年間にわたって継続し、一部の情報提供者(インフォーマント)には6回のインタビューを行ったという。この研究に当たっては、コミュニティの慣習を守り、次のようなステップで情報提供者に接触した。
1.セルフィ―コミュニティのメンバーのブログをフォローする。
2.時間をかけて彼らのコンテンツに興味があることを提示し、著者の仮名に彼らが親しみをもってもらうようにする。
3.プラットフォームのメッセージングシステム内部からカジュアルなメッセージを送信する。このとき、コミュニティの暗黙的なプライバシー規範に従いながら、自分の身分は明かさずに、調査を行っている事実を伝える。
4.プラットフォームのメッセージングシステム経由で短いインタラクションをする。
お互いに仮名を使っている電子メールアドレスを交換する。このとき、はじめて著者は潜在的な情報提供者に対して自分の本名を明かし、調査に関するより詳細な情報を提供。
5.最初のインタビューの日程を調整する。
このような手続きを踏んだうえでコミュニティのメンバーにインタビューを行った。複数回のインタビューはTiinderbergにとってコミュニティやメンバーに関する情報の蓄積を許しただけでなく、インタビューを受ける側も自分自身の考えや気持ちをより正確に伝える機会としても活用していたとされる。
このようなコミュニティの手続きの遵守や、情報提供者とのやり取りにおいては、厳格な研究倫理審査手続きよりも、状況に応じて倫理的にふるまう状況倫理と、コミュニケーションやインタラクションにおけるケアの倫理(気遣い)が重要であると、Tiinderbergは要約している。AoIR IRE 3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 66)においても、研究対象者を保護する倫理として、ケアの倫理に言及されている点が注目される。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
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*1 現在は、インターネット研究は、①インターネットを媒介として研究対象者(情報提供者)に対してアンケート調査やインタビューを行うものから、②コミュニケーションや取引の痕跡であるトレースデータを対象とするもの、③人為的な介入を行うフィールド実験に及んでいる。インターネットを超えて、デジタルメディアを媒介としたり、デジタルデータを対象としたりする社会科学的研究が現在広がっており(たとえば、スマートフォンの位置情報などオフラインであってもデバイスに記録されるデジタル情報が研究の対象になりえる(瀧川 2020: 85))、こうした研究は「デジタル社会調査」(瀧川 2020)とも称される。そうすると、将来的には、インターネット研究倫理は、デジタル社会調査も包摂するより広い研究倫理に包摂される可能性もある。
*2 一般に、社会調査のうち、質問票への回答や定型的な口頭の設問への回答を集めて統計的処理などによって数値化されたデータを得て分析したり、既に存在する統計データを分析したりすることで社会現象を理解しようとするものは「量的調査」と呼ばれる。これに対して、インタビューや参与観察、フィールドワーク、生活史調査のように、非数値的なデータ(テキストや画像など)を集め、その結果の報告も言語を中心に行われるものを「質的調査」と呼ぶ。ただし、どちらのタイプの調査に収まらない社会調査もあるし、これらの方法が混在する社会調査もある。質的調査に関しては、佐藤(2015 :117)や岸・石岡・丸山(2016)などを参照。
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- 2021年09月07日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 9. インターネット研究倫理 その4 研究対象者と研究者・スタッフの保護 大谷卓史(吉備国際大学)』
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特別な配慮を必要とする人を対象とする研究の概念は、医学生物学分野においては、ニュルンベルク綱領(1947年)、ヘルシンキ宣言(1964年)、ベルモントレポート(1979年)を通じて確立され、研究対象者・被験者保護のための倫理原則および適用に関する重要論点が整理された*1。一般的に対象者の利益を第一とする診療とは違って、医学生物学の研究は対象者の利益よりも、人類の知識増進や(未来)社会の利益増進(保健衛生の向上、新しい治療法の発見・確立など)など、対象者以外の一般的利益のために実施される。したがって、利益とリスクのバランスから見ると、医療行為よりも医学生物学の研究は、リスクの配分に加え(正義)、研究対象者・被験者への危害を防止・低減して利益を最大化する(善行)必要性が高く、本人が十分に研究の意義・利益・リスクなどを理解し、あえてリスクを冒すことに同意するかどうか厳格な確認が求められる(人格の尊重)*2。
心理学分野の研究倫理(APA Ethical Principles of Psychologists and Code of Conductや、日本心理学会倫理規程など)は、まずアメリカ心理学会において、心理学の臨床場面や組織への応用の急激な発展がきっかけとなって、倫理規定を設ける動きが強まったとされる(Sabourin 1999)。1930年代には、すでに「学問および職業上の倫理に関する委員会」が設置されたものの、非倫理的事件に対する個別的な苦情の簡易専門委員会としてのみ機能したという。第二次世界大戦を経て、現実の問題と心理学的研究がリンクさせられるようになってから、倫理的判断のための明文的規定が求められるようになったとされる(Sabourin 1999)。とくに、心理学の研究職・実践職が専門職として確立し、地位を向上させるため、APAの倫理綱領・倫理規定が必要だったという認識が、Sabourin(1999)においては示される*3。この点は、工学系学会が倫理綱領を制定した背景・動機と同様である(札野 2015: 107-126; 土屋 2011: 92-123; 川口 2021)。
とくに、医学・生物学研究と心理学研究では、研究対象者・被験者保護のため、インフォームドコンセントを重視している。ところが、インターネット研究では、インターネットコミュニケーションの特殊な性質から、通常の意味でのインフォームドコンセントを得ることが非常に困難な場合があるうえ、研究対象者・被験者に予想される危害が医学・生物学的研究一般や心理学研究一般とは大きく異なる(連載の前回記事も参照)。一般的に、直接の身体的危害が予想しがたい一方で、とくに社会的評価やアイデンティへの危害を防ぐための措置が求められる(なお、医学・生物学的研究においても、差別やアイデンティティへの危害はありえる。たとえば、何らかの遺伝病や、スティグマを負いがちな病気への罹患事実が他人に知られることが、その問題にあたる。病気とスティグマの問題については、たとえば、Sontag 1990=2006などを参照)。
・インターネット研究におけるインフォームドコンセントの問題
インフォームドコンセントの必要性は第二次世界大戦前から認識されていたものの*4、現代にまで強い影響を及ぼし、決定的な重要性を持ったのは、ニュルンベルク綱領(1947年)の「被験者の自発的な同意が絶対に必要である。」*5という条文である。この条文は続けて同意の条件を説明する。すなわち、(1)法的な同意能力、(2)適切性(外部からの強制やだましなどがないこと)、(3)自発性、(4)情報の提供、(5)理解の5条件が同意には必要とされる。世界医師会のヘルシンキ宣言はニュルンベルク綱領に続き、1964年に採択されてから、2013年までに9回の改訂が重ねられ、同意撤回の権利や、書面での同意などの条件に加え、強制がないことや研究対象者の理解にかかわる手続き上の要件なども定めている*6。さらに、日本国内では、医学・生物学的研究におけるインフォームドコンセントの手続きは、「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」で規定されている*7。
AoIR-IREが対象とするインターネット研究は社会科学・人文学が主要な分野であるものの、インフォームドコンセントにおける上記の5つの原則は、侵襲や介入の程度に応じて程度の差はあっても、遵守される必要がある*8。
ところが、インターネットという特別な場で行われるインターネット研究においては、インフォームドコンセント、または「適切な同意」を得るために大きな問題がある(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 10-11)。
第一に、インターネット研究においては、データ取得に当たって、誰から同意を得ればよいか明らかではない場合が少なくないという問題がある。インターネット研究においては、対面での同意は困難である場合が少なくないので、インターネットを介して研究対象者から同意を得ることとなるが、ここに大きな困難がある。インターネットコミュニケーションにおいて可能となる「ある種の匿名性」(Johnson 2001=2002: 130-135)によって、同意する人の本人確認が十分にできない場合は少なくない。ソーシャルメディアのアカウントは、現在メールアドレスとともに電話番号の登録を義務づけたうえで、多要素認証*9を活用することで、本人確認をより厳密に行うことができるものの、そのアカウントが仮名を使っている場合、研究者から見て、そのアカウントから投稿を行っている本人が本当に誰であるかはわからない可能性がある*10。ファンコミュニティにおける創作のように、インターネットコミュニケーションにおける匿名性を積極的に活用して、自分自身の身元を明らかにしないことで表現の自由をより謳歌しようとするコンテンツもある(西條 2021)。さらに、場合によっては、本人の実在も確認できないかもしれない(相手は人間ではない「ボット」かもしれない)。
第二に、ファンコミュニティなどを対象とする研究においては、投稿者当人だけでなく、コミュニティによる同意も得るなどの手続きが求められる場合がある。これは法的義務ではないものの、コミュニティが調査研究に反発し同意していなかった場合、あとから抗議等を受ける可能性がある。原則的に、個人を単位とする医学・生物学的研究におけるインフォームドコンセントとは異なる問題がありえる*11。
なお、ソフトウェアによってウェブサイトのデータを自動的に収集し、注目したいデータを抽出する「スクレイピング(scraping)」と呼ばれる手法があり、このデータ取得方法においてもインフォームドコンセントが不可能である。ところが、一般的には、大手商業サイトなどでは、利用規約によってスクレイピングを禁止していることが少なくない(例、Amazon.co.jpやYouTube.comなど)。利用規約が禁止しない場合も、データ取得におけるデータ提供者の適切な同意という観点からみるとスクレイピングには倫理的疑問が残る。
データ取得においてインフォームドコンセントが必要とされるのは、データ提供者の自律的判断の尊重(人格の尊重)という観点と、データ提供者への不利益の防止(善行)という観点と、2つの根拠があると考えられる。インフォームドコンセントの必要に関しては、そのどちらが重要な根拠であるが長く議論が続いているとされる(Faden and Beauchamp 1986=1994: 3-20)。しかし、実務上はデータ提供者への不利益の防止、すなわち研究対象者の保護がまずは重要なので、インフォームドコンセントが得られない場合も、十分な匿名化などの措置によってデータ提供者への不利益を防ぐ必要がある。ただし、個人を識別する情報(たとえば、氏名など)を仮名化するだけでは、研究対象者の質問に対する回答やデータの内容などから、研究対象者が特定されうる場合がある。この場合、公表時に回答やデータの内容などを編集するなどの必要が生じる。ところが、この編集にあたっても適切な同意が必要と考えると、再び同意取得の問題が生じる。インターネット研究における同意取得問題は一筋縄ではいかないことがわかる。
実務的には、ソーシャルメディアなどの投稿や発言の利用にあたっては、投稿や発言と紐づけられるアカウントやユーザーIDの使用者によるメッセージやメールで同意を得たことをもって、研究遂行・研究公表上の同意を得たとみなさざるをえないだろう。つまり、インターネット研究においては、法的アイデンティティの確認は断念したうえで、バーチャルな人格(アカウントやユーザーID)との同意を同意と見なすという措置を取らざるを得なくなると思われる。ところが、法的アイデンティティとの結びつきを否定・否認された場合、同意が無効になりえる可能性があるという問題が残る。
・研究者・スタッフの保護
インターネット研究においては、研究対象によっては、研究者・スタッフが脅迫やハラスメント,晒しなどにあうリスクがある(例,「ゲーマーゲート事件」(八田 2016))。そのため,IRE3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 11)は、回避策を事前に考えるよう促し,関連するリソースも示している。さらに、IRE3.0が示すところでは、研究者の研究内容や公的アイデンティティ(民族性・少数派のアイデンティティ・性的アイデンティティ・政治的活動等)によって、研究対象から強烈な反発を受ける可能性がある。また、オンライン・オフラインの暴力的な政治過激派などの調査は、研究者の身元が暴露されたうえで脅迫や報復などを受けるリスクがある。
このようなリスクに対しては、IRE3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 11)は、研究者の所属機関が、研究に関連したオンラインの脅迫やハラスメントに対抗する詳細な支援手続き方針を開発することを求めている。
また、斬首ビデオその他極度に暴力的な行為の映像など、心理的に強い負の影響を与えうるデータを研究対象とする場合、研究者・スタッフの心理的な健康が損なわれるかもしれない。この問題に対しては、IRE3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 11)は、研究プロセスの一環としてセラピー的な措置を求めている。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
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*1 ニュルンベルク綱領および、ヘルシンキ宣言、ベルモントレポートの本文および和訳は、文部科学省科研費新学術領域研究学術研究支援基盤形成生命科学連携推進協議会の「法令・指針リンク」(http://platform.umin.jp/elsi/link.html#link101)の各リンク先を参照のこと。
*2 この3原則に関しては、とくに、「ベルモントレポート」を参照のこと。和訳が、下記のURLにある(九州大学医学部のウェブサイト内)。http://www.med.kyushu-u.ac.jp/recnet_fukuoka/houki-rinri/pdf/belmont.pdf 医学・生物学分野における人を対象とする研究の倫理に関しては、たとえば、具体的問題を通じてわかりやすく論じている、田代(2020)などを参照。
*3 1953年に最初のAPA倫理規定が定められ、その後数次の改訂が行われて現代に至る。
*4 Faden and Beauchamp(1986=1994: 121)によれば、米国では、1935年頃「実験が慣行的な手順からかけ離れたものではなく、また被検者が情報をもとに同意したばあいにかぎり」、人体実験は適切とする法的判断が下されたという。また、ドイツでは人体実験と新しい治療の規制のため、厳しいガイドラインがリップ押され、ここでも「(当事者または適切な代理人による)同意を『議論の余地のない明確な方法で』かならずとりつけるよう要求してい」たという(Faden and Beauchamp 1986=1994: 122)。このガイドラインは、ニュルンベルク綱領に「劣らぬほど適切な条項をもっていた」と評価される(Faden and Beauchamp 1986=1994: 123)。
*5 福岡臨床研究倫理審査委員会ネットワークの和訳による。下記参照。 https://www.med.kyushu-u.ac.jp/recnet_fukuoka/houki-rinri/nuremberg.html
*6 福岡臨床研究倫理審査委員会ネットワークの和訳を参照。
*7 https://www.mhlw.go.jp/content/000757566.pdf また、この倫理指針の解釈や手続き上の留意点について説明する「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針ガイダンス」(令和3年4月16日)(https://www.mhlw.go.jp/content/000769923.pdf)も公表されている。
*8 「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」は、侵襲を伴わない研究については、インフォームドコンセントではなく、適切な同意でよいとする(第4章第8「インフォームドコンセントを受ける手続き等」1項を参照)が、「適切な同意」とは何かが問題となりえ、筆者は、インフォームドコンセントに関する5原則は、「適切な同意」でも守られるべきと考える。
*9 知識と所有物、生体の特徴のうち、2つ以上を利用して本人を認証する手段のこと。パスワードと、スマートフォン(所有物)にSMS(ショートメッセージサービス)で送信されたコードによる認証などが典型的である。
*10 有効な同意を得るためには、研究対象者の法的アイデンティティが明らかでなければならないが、現実的には、法的アイデンティティの確認は住所と氏名によるしかない。一方、生育歴等の伝記的事実と知人の記憶による本人確認が社会的アイデンティティの確認には必要である。名和(2016)などを参照。
*11 ただし、遺伝学的研究のように、自分と同じ遺伝子をもつ人々や家族・親族にかかわる不利益があって、個人からのインフォームドコンセントの取得だけでは、関係者への不利益を防げない場合があり得る。このように、医学・生物学的研究においても、必ずしも個人を単位とする同意だけで十分とは言えない場合もある。
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- 2021年08月31日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 8. インターネット研究倫理 その3 通文化的視点と倫理的多元主義 大谷卓史(吉備国際大学)』
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今回は、前回に引き続きインターネット倫理の5つの特徴のうち、「3)研究対象者の倫理的期待や倫理的伝統への配慮」について論じる。これは、IREガイドラインでは、「通文化的視点」および「倫理的多元主義」という方針で示される*1。
・多様な倫理的期待や倫理的伝統への配慮がなぜ必要か
インターネットにおけるコミュニケーションは、特別な技術的措置を取らない限り*2、国境や文化を越えて行われる。
グローバルなコミュニケーションの基盤であるインターネットを介して連絡・協力し合う研究者は、多様な文化的背景をもつ。それぞれの文化的背景において、伝統的に重視される倫理的原則や倫理的期待が異なる。インターネットを研究の場としたり、研究対象者とのコミュニケーションの主要なツールとして利用したりするインターネット研究でも、やはり同様の傾向がある。IRE3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 5-8)は、このように、インターネット研究の特徴を踏まえて、通文化的視点を強調する。
一般的に、西洋社会と非西洋社会の文化的伝統や倫理的期待の相違に目が向くものの、同じ西洋社会を背景としても、大きく英米系の人々は功利主義的・プラグマティズム的な倫理原則を採用する傾向が強く、全体の利益を重視する傾向が強いと、IRE 3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 5)は指摘する。一方で、欧州は義務論的傾向が強く、「何よりも民主主義社会における自律的市民である人間の基本的人権を保護する中核的義務を強調する」とされるIRE 3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 5)。また、欧州と米国では、プライバシーに対する意識が大きく違って、欧州は人間の尊厳からプライバシーを重視する一方、米国は自由の観点からプライバシーを擁護するとの指摘もある(宮下 2015: 第2章; Whitman 2004)*3。
同様に、インターネット研究の研究対象となる人々も多様な文化的背景や倫理的期待を有している。この点では、研究者について上記で述べたことと同じである。IRE 3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 6)では、西洋と非西洋社会における自己概念の多様性が指摘されている。これは、人を対象とする研究においては不可欠なインフォームドコンセントの問題にかかわる(インフォームドコンセントについては次回考察する)。
国や民族・宗教という大きな区分だけでなく、下位文化の多様性にも目を配る必要がある。精神疾患の当事者や家族のオンラインコミュニティや(Buchanan and Zimmer 2021)、マンガやアニメ、小説などのファンが創作活動を行うオンラインコミュティ(西條 2021)、性的幻想を含む作品の創作活動を行う人々が集まるコミュニティ(大澤ほか 2018)、裸体を含むセルフィーを撮影して共有する人々のコミュニティ(Tiidenberg 2018)など、多様なコミュニティがインターネット研究の対象となってきた。これらのさまざまなコミュニティ/クラスタの下位文化とそこにおける倫理的期待を尊重することも、インターネット研究には求められる。
このように、インターネット研究においては、研究者においても研究対象者においても、文化的背景や倫理的伝統(倫理的期待)、伝統的に重視される倫理原則がさまざまである可能性があることから、IREガイドラインの著者たちは、倫理原則を確立したうえでそれぞれの原則を演繹的に適用して研究にかかわる倫理判断を行うことは向かないと考える。多様な倫理的期待や倫理的伝統を考慮して、幅広い倫理的枠組み活用して、それぞれの状況で生じる倫理的問い・倫理的問題に取り組むことを求める。IRE3.0は、倫理的多元主義の立場を示し、多元主義を構成する倫理的枠組みとして、義務論・功利主義に加えて、ケアの倫理およびフェミニズム倫理、徳倫理を掲げる(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 5)。ただし、倫理的多元主義は相対主義とは異なることを強調するものの(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021: 6)、残念ながらその理論的根拠に関してはガイドラインそのものには示されていない。
・多様な倫理的期待によって生じる問題群の例
ここでは、IRE2.0(Markham and Buchanan 2012: 6-7)で示されたインターネット研究における倫理的意思決定にかかわる主要なコンフリクトを取り上げる。
1)「被験者・研究対象者(human subjects)」の概念
インターネット研究の対象となるデータの提供者は、医学研究と同じような「被験者・研究対象者(human subjects)」なのか、それとも、書籍や絵画などの「著者」と同じような存在なのだろうか。とくに、インターネット上に公開されているデータ(テキストやイラスト、映像など)を対象として研究する場合、このデータの提供者は、それらデータ、すなわち「作品」の著者と見なすべきである場合が多いと想像できる。「被験者・研究対象者(human subjects)」の場合は、一般的にデータ提供やその公表によって生じうる可能性がある危害を防ぐため、何らかの匿名化の措置(次回参照)が必要である。一方、著者であれば、「作品」の著者としてクレジットを受けるべきで匿名化は避けたいと考えるかもしれない。データ提供者の倫理的期待が「被験者・研究対象者」としてのものであるか、それとも著者としてのものであるか、データを取得・収集する前に考察し、必要があると判断されれば、確認することになるだろう。
2)公的領域/私的領域の区別
インターネット上のデータは、認証によるアクセス制御がかかっていない限り、一見したところパブリックなものとみなすことができるように思われる。また、一定の認証(たとえば、年齢認証等)があっても、とくに誰でも参加ができるメーリングリストや投稿型サイト、SNS上のグループなどもとくにアクセス制限があるとみなされないことがある。これらのアクセス制限がないインターネット上のデータは、パブリックであり、一見したところ一般的な印刷文献と同じように扱えるように思われる。
ところが、ユーザー・消費者が投稿・情報発信したデータの中には、その投稿者・情報発信者や、その「場」を利用する人々(場合によっては集団的アイデンティティを有し、コミュニティを形成していることも少なくない)にとっては、特定の識別できる個人や個人からなるグループの閲覧を意図しないまでも、自分と同じ嗜好・志向や苦しみなどを持っているか、それに共感的であるかする人々の閲覧を期待しており、パブリックなものとして、まったく異なる文脈で利用されることを期待してない場合がある。一般的な印刷文献のように、パブリックなものとして扱うことは、このような倫理的期待を裏切ることになる。ユーザーや消費者投稿したインターネット上のデータについては、投稿者や投稿者の帰属意識を有するコミュニティの倫理的期待を無視して利用することは、研究倫理上の問題を引き起こす可能性がある。
3)「データ/人」の区別
人由来のデータと人を対象とする研究を区別することで、インターネット研究をはじめとする、医学・生物学および心理学における人への直接的な身体的・心理的侵襲や介入を伴う研究と、それ以外の研究とを区別することが提案されている(横野 2021)。この区別は相当な有効性を有し、重要な方針を示していると評価される。
しかし、人を対象とする研究の中でも危害が大きいもの、少ないものがあり、一律に扱えないという問題や、人由来のデータを対象とする研究においても、医学・生物学分野や心理学分野において従来行われてきたデータの二次的利用とは相当に性格が違う研究も存在することから、より詳細な検討が必要と、われわれは考える(大谷・壁谷・神崎・大澤・久木田 2021)。
まず、人を対象とする研究の中には、身体的・心理的侵襲によって帰結するかもしれない危害が比較的小さい実験や観察もありえる。ミルグラムの「アイヒマン実験」(Milgram 1974=2012)やスタンフォード監獄実験(Zimbardo 2007=2015)*4のような深刻な心理的危害をもたらすと予想される実験だけでなく、本当の意図を事前に被験者には伝えずに課題を行ってもらうタイプの実験で、だまし(deception)の要素があるので、一定の配慮は必要ながら、深刻な心理的危害が予想できない実験もある。アンケート調査やインタビュー調査を活用する疫学的調査も人を対象とする研究であるものの、身体にプローブを刺すなどの実験と比較すると、身体的侵襲は少ない。社会学・文化人類学等における参与観察型の調査研究も、人を対象とする研究であるものの、医学・生物学や心理学における倫理審査をそのまま適用した場合には、調査研究が不可能になりえる。調査者が調査の仕方によっては暴力を振るわれるかもしれない下位文化集団などの参与観察では、あらかじめインフォームドコンセントを得るのは難しいだろうし、参与観察を続けていく中で新しい研究課題や論点が発見された場合、その調査に関する同意をいちいち求めることは難しいかもしれない。
人由来のデータを対象とする実験は、すでに行われた観察や実験によって得られたデータの二次的利用を想定していると思われるものの、インターネット研究の場合、インターネット上に残ったさまざまな活動の痕跡が「人由来のデータ」である。テキストチャットや電子掲示板、メーリングリストでのコミュニケーションの記録(ログ)、オンラインゲームにおけるチャットのログ、YouTubeなどの動画共有サイトで公開されている動画などが、人由来のデータとして活用される可能性がある。これらのデータは、従来の書籍・雑誌や絵画などの流通路を経て、消費者・鑑賞者に届けられる著作物とは違い、それらの著者・投稿者などが強い愛着を持つ可能性がある。公開されたものであったとしても、自らが期待する誰か(だけ)が読むかもしれない日記や告白のようなものとして書かれている場合があるので、それらを通常の公刊物と同じように扱うことには問題が生じる。そして、二次的利用について許諾を得たうえで収集される二次データと同様に扱うことにも問題があるだろう。
さらに、オンラインゲームやVRチャットへの参与観察と、その動画記録を分析する調査研究を考えてみよう。VRチャットは、多数のアバターがコミュニケーションを取れる仮想世界(VR世界)を提供して、人々はこのアバターを仲介としてコミュニケーションを取れるサービスで、正式なものではないが、このサービスを使ったバーチャル卒業式の開催(MoguLive編集部 2021)や、学会開催(亀岡 2021)が話題になった。このアバターは人として扱うべきなのだろうか。また、データとして扱うべきなのだろうか。オンラインゲームでは、ユーザーがプレイヤーとして操作しない、コンピュータが自動的に動作させる(操作する)「ノンプレイヤーキャラクター」(NPC)と呼ばれるキャラクターが登場する。彼らは、プレイヤーが操作する通常のキャラクター(アバター)のふりをすることができる。このときには、データと人間の境界が相当に揺らぐように思われる。
このように、インターネット研究の研究倫理を考えることは、インターネットという場や、インターネットコミュニケーションの性質や特徴などを考えることにも通じる。インターネット研究の研究倫理の基礎として情報倫理が重要な意義を有することがわかる。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
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*1 これらの視点は、萌芽的にIRE 1.0(Ess and the AoIR ethics working committee 2002)にもみられるものの、IRE 2.0以降明示的に論じられるようになる。
*2 たとえば、中国は国内と海外とをつなぐネットワークにファイアウォール(「金盾」、グレートファイアウォール(防火長城)とも呼ばれる)(遠藤 2011)を設けていて、自国以外の企業が提供するソーシャルネットワーキングサービス(SNS)などには国内からアクセスできない。
*3 Solove (2008=2013: 258-262)も参照。
*4 同実験の実験の準備・実施プロセス・結果については疑義が呈されるものの、その研究倫理上の問題は依然として(さらに)大きい。「スタンフォード監獄実験は仕組まれていた!?被験者に演技をするよう指導した記録が発見される」『カラパイア』2018年6月18日. https://karapaia.com/archives/52261130.html
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- 2021年08月24日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 7. インターネット研究倫理 その2 大谷卓史(吉備国際大学)』
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インターネット研究学会(AoIR: Association of Internet Researchers)の研究倫理ガイドライン(IRE ガイドライン: Internet Research Ethics Guideline)は、現在までに3版を重ねている。消費者・ユーザーがコンテンツを生成するサービスやモバイルコミュニケーション、ビッグデータ活用の発展・普及などの動きを受けて更新が行われてきた(各版の概要に関しては、壁谷・大谷(2021)および大谷・壁谷・西條・神崎・大澤・久木田 (2021)を参照)。これら3版は、前の版を完全に置き換えて新しくするものではなく、前の版を補完するもので、新しい課題や論点の追加に加え、さらに概念や論点を明確化・詳細化するなどのことが行われてきた。
インターネット研究は、インターネットを調査の場として、人々にインタビューやアンケートを行う研究や、インターネット上に残されたさまざまな人々の活動の痕跡やアップロードした多様なデータを対象とする研究である。インターネット研究倫理は、人を対象とする研究倫理の一種と考えられるものの、直接的で重大な身体的・心理的侵襲性が高い医学生物学的研究や心理学研究とは違って、自尊心やアイデンティティの毀損などの感情的被害や、評判・声望の低下などの社会的な被害が、防止すべき研究に由来する主要な被害である。とくに社会的被害はどのような被害があるか一見してわかりにくいこと、被害が明らかになるまで時間が経過する可能性があることなどが特徴である。一方で、自尊心やアイデンティティの毀損は、人によってその被害の発生や、発生した場合の感情的毀損の程度がさまざまであることが特徴である。これらの被害のあり方は、とくに、従来の人文学・社会科学的研究による被害と共通点が大きいと考えられる。
3つの版が相互補完するとみて、総合的に3つの版を見ると、IREガイドラインが提示する考え方や方法論には、従来の人を対象とする研究の倫理とは対照的に、次のような特徴がある。
1)研究全体の倫理的意思決定支援を主要目的:事前研究審査から研究の各段階における倫理的意思決定の支援へ
2)質問中心型アプローチ:一貫した倫理原則によるトップダウン型の規制から、研究段階や状況に則したボトムアップ型の倫理へ
3)研究対象者の倫理的期待や倫理的伝統への配慮:「研究対象者」の定義・「公的領域/私的領域」の区別・「データ/人」の区別の困難さ
4)被験者保護の特殊性:インフォームドコンセントの取得の困難さと仮名化による被験者保護
5)研究者・スタッフの保護:ショッキングな画像・映像の調査における心理的保護や、ネットストーキングなどの危険などからの保護
今回は、1)と2)の考え方・方法論について紹介する。
一般的に、人を対象とする研究は研究計画(研究デザイン)について事前に倫理審査を受けたうえで実施することが義務づけられている。日本においては、人を対象とする生命科学・医学系研究は、「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」(2021年3月23日告示)に加えて、個人情報保護法・行政機関個人情報保護法・独立行政法人個人情報保護法・各自治体の条例を遵守することが求められる。この指針によれば、研究倫理審査委員会が事前に研究デザインの倫理的審査を行い、その研究デザインの倫理的妥当性をチェックしたうえで、問題がある場合には修正を求めたり、実施の中止を求めたりすることができる(同指針8章)。
その一方で、研究の実施が決まって以降に関しても、倫理的判断を必要とする場面や、そのモニタリング・サポートについて定めている規定も存在する。たとえば、血縁者等が研究結果について説明を求めた場合研究責任者は研究倫理審査委員会の意見を聞いたうえで判断する必要がある(同指針5章第10 1(5))。また、研究の倫理的妥当性や科学的合理性および実施の適正性や研究結果の信頼性などに対する疑いや、研究対象者等の人権尊重・研究実施上の懸念が生じた場合、研究機関の長および研究責任者に報告が求められる(同指針6章第11 1(1)~(3))。そのうえで、研究機関の長および研究責任者は、研究の停止・中止・研究計画書の修正が求められる(同指針6章第11 2(1)~(4))。そして、有害事象の発生があった場合には、研究機関の長および倫理審査委員会に報告する義務がある(同指針6章第11 2(5))。重篤な有害事象があった場合には、必要な措置を取ったうえで、研究責任者への報告をして、研究責任者は倫理審査委員会の意見を聞いたうえで研究機関の長と情報共有を行う必要がある(同指針7章第15 1)。研究機関の長は有害事象が生じた場合の手続きについて定めておくことを求められる(同指針7章第15 2)。また、モニタリングや監査に関しても定められている(同指針6章第14)。
この倫理指針では、身体的・心理的な侵襲による被害・重篤な被害が起きた場合、どのように対応するかどうかは、あらかじめ決められた手順書に従うよう求める。個々の研究者に倫理的判断を求めるわけではない点に注意しよう。研究者に過度の倫理的・道義的責任を負わせず、研究機関として統一した対応を行ううえでは、これらの手順書の存在はたいへん心強いものである。
ところが、人文学・社会科学的研究においては、研究結果の配慮に欠ける公表や情報漏えいによる評判や声望への被害のような社会的影響は、公表が行われ情報漏えいが生じてから一定時間を経ないと被害が現れなかったり、自尊心やアイデンティティへのネガティブな影響は外部から推知が難しく、それぞれの人々によって同じ情報であっても被害の現れ方が変わったりする。個人やその所属する集団・コミュニティの倫理的期待に依存する面が大きいので、研究対象となる集団・コミュニティによって被害の感じ方が違うだけでなく、公表や情報漏えいの状況にも左右される。
集団やコミュニティの倫理的期待に対する配慮が必要なのは、前回も触れたように、集団やコミュニティが法的な規制とは異なる倫理的期待を有している場合があるからである。たとえば、公表された著作物に関しては、出所明示をしたうえで一定の要件を満たせば無許諾で引用をすることが可能であるものの(著作権法32条および48条)、利用者登録をすれば誰でも閲覧できるコンテンツであっても、そのコンテンツを生み出し享受する文化に理解がある者以外の閲覧や利用を期待していない場合、著作権法にしたがった引用を行ったとしてもトラブルが生じる場合がありえる(大澤ほか 2018: 西條 2021)。
また、こうした倫理的期待が異なる可能性がある集団やコミュニティへの参与観察においては、調査研究を継続するにあたっては、研究対象となる集団・コミュニティと研究者との間の信頼関係が重要であるものの、信頼構築とその維持の方法は必ずしも一様ではない。そうすると、手順書という形であらかじめ、研究実施において生じる倫理的判断に関してガイドを示すことは困難と考えられる。
さらに、上記の倫理指針では、具体的にどのような問題が生じた場合に、研究の倫理的妥当性に疑いが生じるか、人権侵害の可能性があるかなどの手がかりがないという問題がある。これは、とくに、倫理的期待が異なる集団やコミュニティを対象とする可能性がある人文学・社会科学的研究においては、トラブルなく研究を実施し、研究成果を公表し、そして、継続的に調査を実施するうえでは大きな障害になりえる場合がある。場合によっては、研究対象として選んだ集団・コミュニティから、同分野の研究者一般に対する反感を招く可能性もある。
IREガイドラインは、研究を以下の5段階に分けて(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021; 壁谷・大谷 2021)、それぞれの場面での倫理的問題について状況に即して問いを立てるように、インターネット研究者に要求する。
①初期研究設計(Initial Research Design)
②初期研究プロセス(Initial Research Process)
③分析(Analysis)
④普及(Dissemination)
⑤プロジェクト終結(Close of the Project)
残念ながら、各段階においてどのような問いを立てるべきかのガイダンスはないものの、IRE 2.0(Markham and Buchanan 2012)およびIRE 3.0(frankze, Bechmann, Zimmer, Ess 2021)では、研究計画・実施・普及・研究終了後の倫理的判断において問うべき問いの例が示されている。たとえば、IRE 2.0では、次のような問いが示されている。
・調査・研究を実施する文脈がどのように定義され概念化されているか(文脈の定義が研究者と研究対象者その他の関係者で一致しているか、適用される法にはどのようなものがあるか、研究対象とされる人々や集団・コミュニティの倫理的期待はどのようなものか)。
・文脈がどのように評価されているか(オンラインの文脈へのアクセスが誰でも可能だとして、研究参加者やデータ作成者(テキストの著者など)はそれを公的領域と認識しているか、など)。
・誰がその研究にかかわっているか(とくに、研究にかかわる人々の倫理的期待・立場、倫理的伝統はどのようなものか。収集データの公開によって生じる危害はないか)。
・研究の第一の目的は何か(データからの個人の追跡可能性や、データ利用の潜在的な倫理的帰結を明らかにしたうえで、研究の目的から見てそれらから生じる危害をどのように低減するか)。
・データはどのように収集・保存・提示されるか(機微なデータの取り扱いや、データの匿名化などの問題)。
・テキスト/人/データをどのように研究するか(データの正確な引用が必要か、正確な引用をした場合に危害が生じないかなど)
・発見をどのように表現するか(公表された報告によって研究対象者やその他関係者が危害を受けないか、など)。
・研究に付随する潜在的危害やリスクはどのようなものか。
・研究に付随する潜在的便益はどのようなものか。
・他者の自律性をどのように尊重するか(インフォームドコンセントを得るべきか、得るとしたらどのような手段を取るか、インフォームドコンセントを取ることが困難、または不可能でないか)。
・未成年者や被害を受けやすい人々(vulnerable persons)に関して特別な問題が何か起きないか。
一貫した倫理原則の演繹的適用を重視するアプローチがトップダウン型と呼ばれるのに対して、IREガイドラインはその方法をボトムアップ型と呼ぶ。すなわち、原理を立てたうえで演繹的に倫理的判断を下すのではなく、研究を実施する状況・文脈をよく見たうえで、人々の倫理的期待や研究が実施・分析・公表などがされる場所の法令、研究や研究成果の公表から具体的に生じる危害などについて、問いを立てて、問題やトラブルを回避したり低減したりする――これがIREガイドラインの方法である。同ガイドラインは、この研究倫理の方法を、「質問中心型アプローチ」とも呼ぶ。
IREガイドラインは研究倫理審査委員会による審査と手順書の遵守を中心とする研究倫理ではなく、研究における倫理的意思決定としての研究倫理を想定し、その意思決定を助ける資源やツールを提供するものと考えられる。「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」と比較して、十分に整理がついているとは言えないものの、研究者の倫理的思考を喚起しようとする意気に満ちている。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
大澤博隆・大谷卓史・江間有沙・西條玲奈・久保明教・神崎宣次・久木田水生・市瀬龍太郎・服部宏充・秋谷直矩(2018)「公的であり私的:ファン研究炎上の分析」『人工知能学会全国大会論文集』2018 3H2OS25b04.
大谷卓史・壁谷彰慶・西條玲奈・神崎宣次・大澤・久木田水生(2021)「意思決定支援としての研究倫理-AoIR倫理ガイドラインの原則と倫理分析-」『信学技報』SITE2021-33, 182-189.
壁谷彰慶・大谷卓史(2021)「AoIRガイドラインの思想と概要」応用哲学会第13回年次研究大会(オンライン開催)2021年5月23日.
西條玲奈(2021)「ファンダム作品研究の倫理:英語圏のファン・スタディーズの紹介と日本の研究への応用にむけて」応用哲学会第13回年次研究大会(オンライン開催) 2021年5月23日.
文部科学省・厚生労働省・経済産業省(2021)「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針 令和3年3月23日」https://www.mhlw.go.jp/content/000757566.pdf
Ess, Charles and the AoIR ethics working committee (2002) Ethical decision-making and Internet research: Recommendations from the aoir ethics working committee. (Approved by AoIR, November 27, 2002). https://aoir.org/reports/ethics.pdf
franzke, aline shakti, Bechmann, Anja, Zimmer, Michael, Ess, Charles and the Association of Internet Researchers (2020). Internet Research: Ethical Guidelines 3.0. https://aoir.org/reports/ethics3.pdf
Markham, Annette and Buchanan, Elizabeth (2012) Ethical Decision-Making and Internet Research: Recommendations from the AoIR Ethics Working Committee (Version 2.0). https://aoir.org/reports/ethics2.pdf
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- 2021年08月17日 『夏休み』
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今週は夏休みとなります。来週8月24日に第7回「インターネット研究倫理 その2」で連載再開の予定です。(金城)
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- 2021年08月10日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 6. インターネット研究倫理 その1 大谷卓史(吉備国際大学)』
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前回取り上げたYouTubeは、動画を視聴しようとする人間の訪問者よりも、ソフトウェアの訪問者のほうが多いかもしれない。
ソフトウェアによってYouTubeなど巨大なデータを擁するウェブサイトにアクセスする方法は複数ある。一つは「スクレイピング」(ウェブスクレイピング)と呼ばれる行為である。スクレイピングは、リンクをたどるなどしてウェブサイトに到達し、そのウェブサイトから自分が欲しい、必要とする情報を(場合によっては根こそぎ)取得して、ローカルやクラウド上のストレージに複製することである。「スクレイプ」は、ヘラなどで、アイスクリームのように柔らかいものをこそげ取るイメージがある。ネットからデータをこそげ取るように収集するという比喩的なイメージを想像することもできるだろう。
ところが、YouTubeは、利用規約によって、スクレイピングをはじめ、ロボット(インターネットで機能する自動化されたソフトウェア一般を指す)やボットネット(複数のボットが作る集まり)、スクレーパ(上記のスクレイピングを行うソフトウェア)などの自動化したツールによるアクセスは、一部を除いて明示的に禁じている。
明示的に許されているのは、第一に公開されている検索エンジンを通じて、YouTubeのrobot.txtにしたがってアクセスする場合。Robot.txtは、検索エンジンサービスが始まった90年代には、クローラー除けやサーチエンジン除けなどと称された。検索エンジンも、リンクをたどってネット上のデータを根こそぎローカルやクラウド上のコンピュータに複製し、そのデータをデータベース化して(検索エンジンの場合「索引化」(インデクシング)と呼ばれる)、検索ができるような形式に代えて蓄積している。このように、ウェブのリンクを通じてデータを収集する行為は、網(ウェブ)の上を蜘蛛が這いまわって餌を集めるような様子から、このソフトウェアを「スパイダー」、そしてこの複製によるデータ収集をクローリングと呼んだ。このクローリングをされたくない(データベースに自分のデータを収容されたくない)ユーザーは、robot.txtと呼ばれるクローリングによる収集を禁止したり(サイト下にあるURLすべてへのアクセス禁止)、制限したりする(アクセスしてよいURLを示す)命令を書き込んだファイルをサーバー上に置くことになる。YouTubeの場合も、robot.txtに示したURLのみに、クローリングは限られる。
第二に、YouTubeが明示的に書面で許可を与えた場合、スクレイピングやクローリングも含めて、データの取得ができる。このように、ソフトウェアによる自動アクセスの禁止は、YouTubeに関しては事前許可なくすべてのことができるとは簡単には言えない例である。根こそぎデータをダウンロードすることで、YouTubeの複製サイトをつくることができてしまうし、ユーザーにとって予想のつかないような利用の仕方をされるかもしれない。
平成30年改正の著作権法30条の4は、人間が視聴してコンテンツ(の思想・感情)を享受するわけではない、情報解析や情報処理過程で利用するために、複製や公衆送信(自動公衆送信を含め)著作物の利用を許している。機械学習においては、いわゆるAI(ニューラルネットワーク)に対して大量のデータを学習用データとして提供する必要があるが、この規定によって、機械学習のために、インターネット上から多種多様の大量のデータ(著作物)を取得・収集することが、著作権法による禁止・抑制を受けることなくできると考えられている。このことから、著作権法30条の4のおかげで、日本は「機械学習パラダイス」であると称されることがある。
ところが、YouTubeの例で見たように、プラットフォームのルール(一般的に、ウェブサイトの利用規約は、サイトのさまざまな利用者との間の一種の契約(定型約款)と見なされる。連載第5回参照)によって、著作権法30条の4で許されている、人間の知覚によらず、思想・感情の享受を目的としないコンテンツの複製や公衆送信等を行うことが難しいケースがある。無理やり、明示的にスクレイピングなどを禁じているウェブサイトから、スクレイピングなどでデータを取得することは、法が許しても、定型約款違犯などの面倒に巻き込まれる可能性がある。そうすると、法以外の社会や制度等に関する知識が、インターネット上のデータを活用するデータに必要とされる場合があるだろう。
インターネットを研究の場としたり、インターネット上のデータを取得して分析をしたり、研究対象者との連絡の媒介手段としてインターネットを用いる研究は、「インターネット研究」(Internet Research)と称される。インターネット研究じたいは、1990年代に、インターネットが一般に開放されて以来実施されてきたもので、2002年には、主に人文・社会科学系のインターネット研究の実践者が集まる国際学会「インターネット研究学会」)AoIR: Association of Internet Researchers)が、インターネット研究の倫理に関する手引き(ガイドライン)を取りまとめている。
この手引きは、略してIREガイドラインと呼ばれることがある。Internet Research Ethicsガイドラインの略である。このガイドラインの最新版(IRE 3.0)は、2020年に公開されたものの、第1版が公表されたのは、約20年前の2002年にさかのぼる。
IREガイドライン取りまとめの背景には、1990年代以降インターネットを研究の場としたり、研究対象者との連絡の媒介手段としてインターネットを用いるインターネット研究が急増した現象がある。インターネット研究において、従来のテキストを対象とする研究と同じようにインターネット上のパブリックとみられるテキストを扱うことでさまざまな研究上のトラブルが生じた。このトラブルに対応するため、インターネット研究倫理が求められるようになった。
こうした状況を受けて、1996年には,Information Society誌がインターネット研究に関する特集号を発行し,1999年には,アメリカ合衆国保健福祉省研究リスク保護局(現,被検者保護局)の依頼を受けて,アメリカ科学振興協会(AAAS)がインターネット研究の倫理に関するワークショップを開催した(Frankel and Siang 1999).
1998年11月"World Wide Web and Contemporary Cultural Theory: Metaphor, Magic & Power"と題する学際的シンポジウムがドレイク大学で開催され、インターネット研究を実践する多分野の研究者が終結した。インターネット研究学会はこのシンポジウムをきっかけに設立され、翌年5月30日、この学会に関心が4ある約60名の研究者がサンフランシスコのヒルトン・アンド・タワーズに集まった(Witmer 1999)。
IREガイドライン第1版は、情報倫理学者のCharles Essを中心とする作業グループによってまとめられた。その後、2012年には、Annette MarkhamとElizabeth Buchananを中心とする作業グループが第2版をまとめ、2020年には、aline shakti franzkeおよび、Anja Bechmann、Michael Zimmer、Charles Essの4人を共同委員長とする作業グループによってまとめられた第3版が公表された。第2版以降もEssが作業グループには関与しながら、若い世代にうまくガイドライン作成作業の引継ぎが行われていることがうかがえる。
この間上記作業グループの主要メンバーによるインターネット研究倫理に関するアンソロジーや解説も書かれ、主要なものとしては、Buchanan(2003)および、Buchanan and Ess (2008; 2016)、Buchanan and Zimmer (2012), Zimmer and KInder-Kurlanda (2017)などがある。
2012年にまとめられたIRE 2.0ガイドラインでは、当時「ウェブ2.0」と呼ばれた、ユーザーや消費者が生成したコンテンツの利用における研究倫理が取り上げられた。現在のIRE 3.0では、プラットフォームの示すルール(利用規約やポリシーなど)が、インターネット研究の重要な制約条件の一つになっていることが示されている。上記のYouTubeの規約による禁止も、インターネット研究の制約の一つとなりえる。
しかし、インターネット研究において当初から問題とされていたのは、インターネット上のデータが、通常の印刷公刊物のテキスト(画像・映像など含む)などとは同様に扱うことができず、こうした資料を扱おうとする場合、これらの資料を作成・提供し、それを保存する場をつくって維持している人々との関係が、研究遂行上たいへん大きな意味を持つという論点である。すなわち、インターネット研究においては、たとえ、アクセス制御が行われていなかったり、アクセス制御が不十分であって、インターネット上で誰もがアクセスできるデータであったりしても、未公刊著作物を扱う人文学的研究や、文化人類学や民俗学、社会学などのフィールド調査と同様に、そのデータを作成し提供した人々に対して配慮しつつ、慎重に取り扱うべきという認識が、いくつかの苦い経験を経て、共通のものとなりつつある。
筆者たちのグループは、クリエイティブコモンズのCC-BYなど、複製・翻案等を許す許諾条件で公開されているIREガイドラインの翻訳を進め、今年度中に公開する予定である。今回を含め数回にわたり、インターネット研究倫理に関して、紹介する。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
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- 2021年08月03日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 5. YouTubeの動画をみんなで見るのはOKなのか? 大谷卓史(吉備国際大学)』
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今回は、身近に起こった情報倫理にかかわる疑問を取り上げる。
所属大学地元の「地域ICTクラブ」を手伝っている。地域ICTクラブは、総務省が推進する教育情報化政策の一つで、子どもたちが、モノづくりやデザインなどをテーマとして、地域の人々と情報通信技術(ICT)の活用スキルを学ぶことを通じて、世代を超えて知識・経験を共有する場を設けることを目的としている(総務省 n. d.)。
クラブで、筆者は、学生や地域住民の方々と一緒に、クラブの準備をして、子どもたちや保護者を迎えて、モノづくりやデザインの講座を開く。講座の講師は地域に住み、イラストレーター・ライターとして活躍する住民の方や、筆者の所属大学の教員など。筆者は、メンター(講師補助)として参加し、準備や運営を手伝っている。
夏休みの企画としてYouTuber講座を行うことから、筆者の所属する大学の映像企画やシナリオを教える教員に動画作成に関する講義を行ってもらうこととした。YouTubeの動画づくりであってもただ映像を記録するだけではなく、おもしろく見せるための工夫が必要だということを、子どもたちにまずはわかってもらいたいためだ。
YouTubeの動画をあまり見たことがないという教員のために、前述のイラストレーター・ライターがおもしろそうな動画のURLを送ってくれた。これを教員に持ち込んだところ、講義のよいプランを提示してくれた――それでは、そのような講義で行きましょうとなったところで、筆者は困った。
地域ICTクラブの講義でYouTube動画をみなに提示して解説することはOKなのだろうか?
こういう疑問が浮かんだのである。
インターネット上の動画や画像、テキストなどの著作物を、スクリーンや大型ディスプレイに提示する行為は、放送・有線放送による同様の提示行為と同様に、「伝達」と呼ばれ、受信装置を用いて著作物を公に伝達する権利は、著作権法上は著作者が専有するとされる(著作権法23条)。「公に」とは「公衆に対して」という意味であり、公衆とは特定少数者を除く、不特定者・多数者を指す(著作権法2条5項)。伝達は、公衆送信を介することなく著作物をスクリーンや大型ディスプレイに映し出す「上映」(著作権法2条1項17号)とは区別される。
著作権法38条1項は、公の上映・上演・口述など著作物を公衆に対して提示する行為について、非営利で、オーディエンスから料金を受け取らず(無料)、上記の提示行為をする者に報酬が支払われなければ(無報酬)であれば、著作権者から許諾を受ける必要がないと定める。教室では、非営利・無料・無報酬の3つのキーワードでこの条文を説明する。ところが、ここには、「伝達」は含まれない。
一方、38条3項は、放送または有線放送によって伝達された著作物は、非営利で無料であれば、受信装置を用いて公に伝達できるとする(併せて、通常の家庭用受信装置を用いる場合は、営利であっても伝達ができるとする。たとえば、町の定食屋さんなどで、普通の家庭用テレビで放送番組を流しっぱなしにしている場合などがこの条件に当たる)。この条文はインターネット経由での伝達行為については言及がないことから、非営利・無料であっても、著作権者に許諾が必要だということになる。
著作権法35条は、非営利教育機関およびそれに準じる機関における授業の過程における著作物利用について、幅広く無許諾で利用できる範囲を定める(ただし、目の前に学生がいる教室以外の場所から行うリアルタイムのオンライン授業、およびオンデマンド型の授業については、授業目的公衆送信補償均等管理協会(SARTRAS)に対して届を出したうえで、「授業目的公衆送信補償金」を支払う必要がある)。教室でインターネット上のコンテンツを提示する行為も無許諾でできる。非営利教育機関などでも授業料などの名目でオーディエンスから料金を徴収することとなるが、35条が適用されるので、上記の38条の無料要件はいらない。残念ながら、35条の規定の運用において、SARTRASが意見を聴取する、権利者と教育関係者との集まりが作る「著作物の教育利用に関する関係者フォーラム」によれば、地域ICTクラブは非営利教育機関、またはそれに準じる機関とは認められていないようだ(著作物の教育利用に関する関係者フォーラム 2020: 4)。
そうすると、許諾が必要なのか――というところで、今度はYouTubeという場を支配する規範と、その規範を実現したアーキテクチャに思い至る。現行著作権法は、著作物の複製や提示、提供という利用にあたって、利用者が著作者・著作権者に事前に許諾を得ることを要求する。ところが、YouTubeは動画のアップロードじたいは無許諾でよいとしたうえで(つまり、事前許諾を規範に適合する著作物利用の条件としない)、その動画にかかわる権利者が事後に、①その動画の非表示化や、②動画利用に対する報酬支払い、③動画の再生記録の3種類から対応を選ぶことができるというルールを提供している。このルールは、YouTubeが提供する技術によって自動的に適用される。権利者があらかじめ動画の「指紋」のような情報(「コンテンツID」と呼ばれる)を登録し、動画をどのように扱うか指定すると、その指定通りにYouTube側で自動的に処理してくれる(YouTube n.d.a)*1。
このしくみのおかげで、著作権者等の権利者に無許諾の第三者によるYouTubeへの動画のアップロード行為は明らかな著作権侵害行為であるものの、権利者に実質的な被害が出ないようになっている。言い換えると、著作権法の形式的違反があっても、著作権者などの権利者の経済的な利益が保障されている。さらには、YouTubeには著作権侵害コンテンツも含めて、多数の動画や音楽などがアップロードされ、ユーザーは豊かで選択肢が多数あるコンテンツ環境を享受できる。こうした点から、著作物の視聴行為に関しても、実はYouTubeは権利者に許諾を得るのは、許諾にかかわる手続き(メール・メッセージを送ってそれに対する返信を送り返すというだけかもしれないが)の煩雑さ等を考えるとあまり向かないように思える。
しかしながら、YouTubeを支配する規範が無許諾で許していると考えられるのは、第三者による動画のアップロード行為と通常の視聴行為のみである。前者が無許諾でよいと考えらえるのは、無許諾アップロードがあっても事後に著作権者の意思を適用できるオプション(動画の非表示・報酬支払・再生回数等の記録)があるので、権利者は実質的被害を受けないで済むからである。後者は明示的に規定がないものの、再生回数(視聴回数)が記録され、無料ユーザーの場合には広告表示が行われ、再生回数・広告表示数に応じて、YouTubeと動画の提供者・権利者に収益が入るしくみを考えると、当然に無許諾であっても視聴してよいと考えられる。なお、YouTubeに限らず、インターネット上のコンテンツの視聴行為には、必ずクライアント(パーソナルコンピュータやスマトフォンなど)への複製が伴うものの、著作権法上は、47条の4「電子計算機における著作物の利用に付随する利用等」により、著作権侵害には当たらないと考えられる。
ところが、一度に多数の視聴者が同一の情報機器のディスプレイなどで同一の動画を閲覧すると、それぞれの視聴者が別々の機器で閲覧した時よりも報酬が下がることだろう。実際のところは、権利者の経済的不利益は、少人数のグループ(10-数十人程度)が一度にYouTubeを見たとしてもごくわずかであると考えられる*2。また、YouTubeの利用規約を見ると、明示的に公の伝達を禁じていない(YouTube n.d. b)*3。利用規約は、一般的に定型約款と見なせるので、現在の民法においては、多数者との定型的な契約の一種としてとらえられる(民法548条の2~4)(永田・松本・松岡・横山 2018 :144-145)。
契約によっても禁止されていないし、経済的不利益もごくわずかで無視できる程度となれば、倫理的・道徳的な非難可能性はきわめて低いと考えられる。また、YouTubeに動画をアップロードする人々は、限定公開などの制限をしていない限りは、一般的には多くの人々に視聴されることを期待していると考えることができる。上記の経済的不利益も、権利者からお金を奪うわけではなく、視聴者数に応じて支払われたかもしれないお金が手に入らないという機会損失にとどまる。むしろ多くの人がその動画を見ることで、次にその動画や動画の作者のほかの動画を見たいと思う可能性もある(大谷 2021)。
したがって、結論的には、著作権法35条による著作権の制限がない場合でも、無許諾でYouTubeを同時に提示してみなで視聴したとしても、経済的不利益がごくわずかであれば、このことは倫理的・道徳的に許容されるだろう。
ところが、実質的違法性には欠けたとしても、形式的には、著作権侵害となりえる点に注意しよう。10-20名程度の人々に同一の動画を再生して同時視聴させても経済的被害はごくわずかで権利者に対して被害を与えない。この点で実質的違法性には欠ける。ところが、YouTubeと利用者との間の契約では禁じられていないものの、著作権法では、伝達権の制限は35条以外にないので、著作物を公に伝達する場合には許諾が要求される。
さらに、広告表示によって収益を上げ、その収益を権利者に配分してきたYouTubeについて、視聴者数に応じた広告表示をさせないような行為は、多様なコンテンツを享受し、権利者やクリエイターが動画からの収益を上げることができるYouTubeという場を維持しようとする限りは、強く奨励できない。10-数十名程度の人々による動画視聴が与える1回の経済的不利益が小さくても、これが累積すると、動画提供を行う個々の権利者には比較的大きな不利益(機会損失の発生)を与える可能性がある。そもそも1回あたりごくわずかな「利用料金」を広告料金として取り立てて、それが累積することで大きな収益を上げるというモデルであることを考えると、YouTubeの経営にたいして影響はないとしても、個々の動画提供者には一定の不利益を与えることになるかもしれない。これが積み重なると、動画を提供しようという動機が薄まるかもしれない。
このような場合、私たちはどのようにすればよいだろうか。
一つの選択肢は、形式的違法性はあるものの、実質的違法性がないから、権利者側に許諾を与える実務的な面倒を与えるよりも、許諾を取らないで済まそうという判断がある。すでに見たように、今回のケースで許諾を取らないことが倫理的・道徳的非難の対象とはなりえないことを見ると、賢い判断の一つだろう。フェアユースの思想は日本法にはないと言われるものの、今回のケースは著作物の利用用途や著作物市場への影響等を考えても、米国著作権法117条に照らせば確かにフェアユースと見なされる可能性がある。
ただし、上述のように、1つの動画再生を多数の人々が閲覧する行為は、実質的違法性がなくても、無制約に行われてしまうと、広告表示や再生の回数が動画の閲覧回数に比例して得られた回数よりも下がることによって、個々の権利者に機会損失という形で目に見える不利益を与えるかもしれない。
その一方で、形式的違法性がある限りは許諾を取ったほうがよいという考え方もある。すでに見たように、そもそも日本法にはフェアユースの考えはない。著作権法は、著作権侵害罪(著作権法119条)を親告罪(被害者が被害を受けたと考えて告訴を行わない限り刑事訴訟プロセスが生じない罪)とする(法123条1項)ことで、実質的違法性があるかどうかの判断を権利者に任せている。そうすると、形式的違法性がある限りは許諾を取って、権利者の意思を確認するべきだという考えも筋が通っている。また、それじたいは非難可能性がないとしても、他者に強く奨励してきわめて多数の人々が無制約に行うようになると、動画を提供する権利者に比較的大きな機会損失を生じさせ、動画提供を行う動機づけに影響があるかもしれない。
以上のことを考慮したうえで、道徳的・倫理的非難可能性はなくても、ひとまずは著作権法の規定に従い、事前許諾を取った方が面倒やトラブルは確実に避けられる。まずはこうした消極的な理由から、個別に許諾を取るという対応を取ることとした(筆者はビビりなんです)。今回の活動は社会教育であるから、著作物利用の公益性は高い。また、直接の被害はごく微少である。そうすると、前述のような累積的被害の可能性が想定されたとしても、許諾を得ずに権利者およびコンテンツ仲介事業者(YouTube)が想定しない方法で著作物を利用しても許容されるだろう―もちろんこうした考え方には十分説得力があるものの、YouTubeの利用規約(一種の契約)でカバーされていない利用なので、現行著作権法の基本的な考え方(著作物を利用する場合は、原則的に権利者の事前許諾を得ること(著作権法))に従うこととした。
平成30年改正で著作権法35条が大きく変わり、非営利教育機関等での教育利用について大幅に自由度が増したものの、グループでの学修・学習や広い意味での社会教育、学術研究(大学・研究機関の研究者だけでなく、初中等教育機関の教員や在野の研究者、市民研究者の活動も含む)等の活動における著作物利用にはまだ不自由が大きい。すなわち、著作権侵害の形式的違法性の恐れが残るから、社会教育や学術研究など社会的利益を増進する活動における利用が萎縮する恐れがある。また、実質的被害を他者に与えるわけでもない、グループでの楽しみや学修を妨げるのも社会全体の幸福を増進しないだろう。
その一方で、1回または1件当たりの報酬・対価は広告料金などのようにごく小さなものであっても、それをごく多数の回数・件数を累積させることによって、YouTube全体には影響がなくても、動画提供を行う権利者に比較的大きな機会損失を生じさせる可能性がある。ユーザーが自由かつ便利にコンテンツを活用できる一方で、権利者の大きな機会損失を防ぐため、著作権法の整備がさらに必要だろう。
謝辞
本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
なお、本稿をまとめるにあたって、一般社団法人クリエイティブシティ高梁推進協議会石井聡美代表と、吉備国際大学アニメーション文化学部清水光二教授・学部長に、重要なきっかけをいただいた。記して謝意を表したい。
参考文献
大谷卓史(2021)「動画共有サイトにMAD動画を投稿してもよいだろうか」土屋俊監修『改訂新版 情報倫理入門』アイ・ケイコーポレーション. 131-145.
総務省(n.d.)「地域ICTクラブについて」『総務省ホームページ』https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/kyouiku_joho-ka/IoT_learning.html
高橋映子(2020)「フォロワー1000人で月収5000円『普通のYouTuber』の懐事情 10万再生で『やっと1万円』の現実」『President Online』2020年3月5日. https://president.jp/articles/-/33328?page=3
著作物の教育利用に関する関係者フォーラム(2020) 「改正著作権法第35条運用指針(令和3(2021)年度版)」2020年12月 https://forum.sartras.or.jp/wp-content/uploads/unyoshishin_20201221.pdf
永田眞三郎・松本恒雄・松岡久和・横山美夏(2018)『民法入門・総則 エッセンシャル民法1[第5版]』有斐閣
Perelli, Amanda(2019)「200万回再生でいくら儲かる?YouTuberが明かす」『Business Insider』2019年7月30日.https://www.businessinsider.jp/post-195140
UUUM株式会社(2021)「2021年5月期短期決算説明資料」https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS71102/68c9fe07/87d8/4555/bd4c/adebe1e63bd1/140120210714466365.pdf
YouTube(n.d. a)「Content IDの仕組み」https://support.google.com/youtube/answer/2797370?hl=ja
YouTube(n.d. b)「利用規約」https://www.youtube.com/static?template=terms&hl=ja&gl=JP
*1 とくに、コンテンツIDと一致するコンテンツが存在したとき、権利者が選べる行為の選択肢については、YouTube (n.d.a)の「著作者はどのようなオプションを選択できるのですか?」を参照。
*2 1再生あたり、有名YouTuberを擁するYouTuberタレント事務所が示す収益は1再生あたり平均0.26-0.3円、一般YouTuberは0.05-0.1円程度とされる(高橋 2020)。YouTuberタレント事務所のUUUM株式会社の2021年5月期通期決算説明資料(UUM 2021: 6, 34)によれば、2021年5月期(四半期)のアドセンス売上(YouTubeの広告表示による売上)は397, 300万円、再生回数は1,163,700万回であるから、単純計算すると、1再生あたりのアドセンス売上は、約0.34円となる。
*3 YouTube(n.d. b)の「許可と制限事項」の項目を参照。
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- 2021年07月27日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 4. コンピューターによる監視は自由を奪うか 大谷卓史(吉備国際大学)』
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本稿は、土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』(アイ・ケイコーポレーション)の教員向け解説書・指導手引書の一部として書かれた解説に加筆修正したものである。上記解説書・指導手引書については第1回掲載の冒頭*を参照ください。
現代はコンピューターによる監視社会化が進みつつあるといわれることがある。実際、コンピューターによる監視はわれわれの自由を奪うものだろうか。その理由を考えてみよう。
本稿は、坪井(2021)の解説で、大学の授業でこの問題を考えさせるとき、学生にどのように考えさせていくかを考察したものだ。なので、学生に対してどのように思考を喚起するかという観点から書かれているが、私たち自身が考えるときにも役に立つはずだ。ということで、学生(私たち)の思考を後押しするため、次のような道筋で考えてみよう。
まず、「コンピューターによる監視」が具体的にどのような監視方法を指すか明確化するよう促すこと。本書にあるように、特定の個人のデータを大量に収集して、そのデータをもとに、コンピューターを活用して、その個人を何らかの区分にしたがって自動的に分類することが、一般的には「コンピューターによる監視」を意味している。この自動的に分類された結果として差別的取り扱いが生じ、その差別的取扱いにおいては、ほかの分類の人々には示されるはずの選択肢が示されないことや、通常の社会参加から排除され拒絶されることが「自由が制限されている」状態であると呼ばれていることに注意を促そう。そのうえで、本当にこれが、自由が制限されている状態であるのかどうか考えることになる。
教室であれば、補助的に、学生に次のような情報を与えてもよいだろう。
(1)2018年施行のEU GDPR(一般データ保護規則 General Data Protection Regulation Regulation 2016/679)*1第22条においては、コンピューターによる自動プロファイリングを禁止し、必ず人間がそのプロファイリングのプロセスに介入するよう要求している。
プロファイリングとは、コンピューターによる監視の一種で、特定の個人に関するデータ(特定のブラウザや端末等の特定の個人と結びつきうるデバイス等に関するデータであって、識別されていない特定の個人に関するデータも含む)を収集して分析し、そのデータが帰属するとされる特定の個人について、その人を特定の区分に分類し、さらには将来の行動を予測するなど、特定の個人の属性を推測・予想することを指す。自動プロファイリングの禁止は、少なくとも、この推測や予測の結果、特定の個人の取り扱いを決める(企業での従業員採用など)にあたっては、人間が必ず介入して、判断すべきことを求めている。この属性の推測や予想に機械学習を用いると、従来の社会やその組織の有するバイアス(偏見)が反映する可能性がある。自動プロファイリングのリスクの一つは、こうしたバイアスの存在で、人間が介入することで、こうしたバイアスなどの問題に気づくことを期待している。
また、EUにおいては、通称「Cookie法」、または「ePrivacy 指令」(ePrivacy Directive)と呼ばれるDirective 2002/58/EC*2第25条において、ウェブサーバーがセッション維持以外の目的で利用するCookieを、ユーザーの端末に送信する場合には、ユーザーの明示的同意が必要と定めている。
Cookieは、HTTPにおけるサーバーとクライアントのセッション管理に利用されるほか*3、上記のプロファイリング(主に購買・消費行動の予想のため)に必要となる個人情報を収集するため、特定のブラウザを識別するために利用される。ePrivacy 指令は、この二つの利用法のうち、前者はウェブのサービスを利用するうえで不可欠なことから無条件で許可する一方、後者はプロファイリングの準備行為であることから、ブラウザのユーザーの同意を必要とすることとしたものである。
さらに、ePrivacy指令(directive)を規則(regulation)に格上げする議論が、2016年から検討されたものの、2019年に否決された。この点に関しては、生貝(2018)および伊藤(2019)を参照。
(2)さらに、一方で、選択肢を限定して提示することじたいは、自由の制限ではないという指摘もある。憲法学者・政治哲学者のキャス・サンスティーンによれば、人間の認知能力の限界を前提として、人口の大部分が必要とする選択肢のみを示したり、やはり人口の大部分にとって最良の選択肢であるもの一つだけを示し、そのうえで必要な者にはオプションを与えたりすること自体は、人間のよりよい選択を支援する重要な方法であるとされる。実際、複雑な条件がつけられている保険サービスなどでは、このように多くの標準的な個人や家庭が必要とする選択肢のみを示すことが行われることが少なくない。このように、個人の選択の自由を重視しつつ、当人にとってよりよい選択ができるよう支援するため、選択肢を限定したり、選択肢の提示の仕方を工夫したりすることをよいとする考え方を、リバタリアン・パターナリズム(libertarian paternalism)と呼ぶことがある*4。
この考え方は、大屋雄裕(2007)『自由とは何か-監視社会と「個人」の消滅』筑摩書房*5などで示されるように、自由と幸福の対立(つまり、幸福であろうとすれば自由を捨てることになり、自由であろうとすれば、幸福を捨てることになる)という考え方に変更を迫るものの一つである(また、19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、自由を幸福の一要素と考えているように見えるので、やはり大屋などとは別の考え方を取っているとみることができる)。
しかしながら、リバタリアン・パターナリズムを取るにしても、本文に示すように、みなが差別なく公正な取り扱いがされていると保証するため、「コンピューターによる監視」の結果どのような分類が行われるか、分類の結果どのように取り扱いの区別が決められ、どのような取り扱いの区別が存在しているのかなどに関して、分類の対象となる個人やグループなどに明らかであるとともに(透明性の確保)、その分類が不当であると当人や第三者が考える場合には、異議申し立てをできる(プロファイリングやその他の自動的な分析・取り扱いへのユーザーや社会の関与)ような制度的保証が必要と考えられる。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
生貝直人(2018)「EU電子通信プライバシー規則案と関連する法政策の状況」総務省プラットフォームサービスに関する研究会2018年10月18日.https://www.soumu.go.jp/main_content/000579806.pdf
伊藤誠吾(2019)「【ニュース】欧州eプライバシー規則案の否決」『スプリングス法律事務所』2019年12月5日.https://www.spring-partners.com/topic/1689.html
大屋雄裕(2014)『自由か、さもなければ幸福か』筑摩書房.
土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』アイ・ケイコーポレーション.
坪井雅史(2021)「監視社会における自由の問題」土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』アイ・ケイコーポレーション, 111-127.
Sunstein, Cass (2015) Choosing not to Choose : Understanding the value of choice, Oxford University Press. =(2017) 伊達尚美訳『選択しないという選択 : ビッグデータで変わる「自由」のかたち』勁草書房.
*1 European Union (n.d.) “Regulation (EU) 2016/679 of the European Parliament and of the Council of 27 April 2016 on the protection of natural persons with regard to the processing of personal data and on the free movement of such data, and repealing Directive 95/46/EC (General Data Protection Regulation)”, EUR-Lex.
https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=CELEX:32016R0679
また、個人情報保護委員会によるGDPRの仮日本語訳は、下記のURLを参照。
個人情報保護委員会(n.d.)「個人データの取扱いと関連する自然人の保護に関する、及び、そのデータの自由な移転に関する、並びに、指令95/46/EC を廃止する欧州議会及び理事会の2016 年4 月27 日の規則(EU) 2016/679 (一般データ保護規則)【条文】」.
https://www.ppc.go.jp/files/pdf/gdpr-provisions-ja.pd
*2 Directive 2002/58/ECの本文は、下記を参照のこと。
*3 HTTPはウェブサーバーとクライアントとの間の通信プロトコル。ウェブサーバーは、クライアントからのリクエストに対してコネクションが成立するとレスポンスを返したうえで、コネクションを切断する。そのため、同じクライアントが次のリクエストを発信しても、同じクライアントからのリクエストであると判別する手段がそのままでは存在しない。そのため、電子商取引での商品購入プロセス等で、一つのセッションを完了するまでにウェブサーバーとクライアントとの間で複数回のリクエストとレスポンスのやり取りがある場合、このセッションを管理できない。そこで、同一クライアントとの同一セッションであることを識別するため、ウェブサーバーからクライアントに対して、クライアントIDとセッションIDをもたせたCookieを送信して、リクエストの際にこれらのクライアントIDとセッションIDをクライアントから送信させることで、セッションを管理することが行われている。
*4 サンスティーンの「リバタリアン・パターナリズム」については、Sunstein(2015=2017)等を参照のこと。
*5 本書の内容については、坪井(2021: 127)の「さらなる学習のために」で簡略に紹介している。
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- 2021年07月20日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 3. 医師と法律職の専門職倫理の歴史 大谷卓史(吉備国際大学)』
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本稿は、土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』(アイ・ケイコーポレーション)の教員向け解説書・指導手引書の一部として書かれた解説に加筆修正したものである。上記解説書・指導手引書については第1回掲載の冒頭*を参照ください。
古いプロフェッションである医師・医学者と法律家の倫理と倫理綱領に関して、技術者倫理を理解するための参考資料として、簡単にまとめる。フランスやドイツ、スペイン、および中央ヨーロッパなど、大陸ヨーロッパの資料は参照できていないことに注意。しかし、古いプロフェッションである医師・医学者と法律家の社会における近代的な専門職倫理と倫理綱領の発展は、19世紀以降の出来事で、技術者団体の結成や倫理綱領の整備と比較して、それほど古い出来事ではないのは確実である。
古代ギリシアの伝説的な医師ヒポクラテスに仮託された「ヒポクラテスの誓い」は、クライアントを含む社会および同僚に対する、専門職の倫理的義務を示した文章と読むことができる。この誓いが、一般的には専門職倫理綱領の起源とされる。
「ヒポクラテスの誓い」は、成立が紀元前5世紀に遡るとされ、もとは医師に入門した際に宣誓して宣言すべき文章である*1。ヒポクラテス『古い医術について』(小川政恭訳、岩波文庫、1963年、191-192)の翻訳から、その内容を箇条書きの形で以下に示す。
・ヒポクラテスの誓いの内容
①医術の師に対する忠誠義務(師を両親同様に扱って生計をともにし、金銭が必要な時には金銭を与える。師の子弟を自らの兄弟と同様にみなし、医術を学習したいとしたときには、報酬も契約書も取らずに教える)
②後進の育成の義務(自分の息子、師の息子、医師の掟による誓約を行って契約書を書いた生徒たちに医術を教える)
③医術知識・技能の独占(上記以外の者には医術を教えない)
④クライアントへの誠実義務と患者の福利への配慮(能力の限りを尽くして食事療法を実施する、食事療法を施すのは患者の福利のため)
⑤専門知識・技能の悪用の禁止(加害と不正のために食事療法を使わない、致死薬はだれに頼まれても投与せず、助言もしない。婦人に堕胎用器具を与えない。この誓いを守ると宣言した者のみに医術的知識・技能を教授する)
⑥専門外の治療実施の禁止(膀胱結石患者に結石の外科的処置(截石術)をせず、専門家に任せる)
⑦患者との情交の禁止(男女問わず、自由民・奴隷を問わず、情交を結ばない)
⑧守秘義務(治療の機会に見聞したことや、その他他人の私生活について秘密にすべきことを他言しない)
⑨上記規定の遵守と侵害による賞罰(誓いを固く守って破ることがないときには、永久にすべての人からよい評判を博して、生涯と術とを楽しむ。破り誓いにそむけば、逆の報いを受ける)
このヒポクラテスの誓いにおいては、クライアントへの誠実義務(患者の福利を目標として誠実に専門的知識・技能を用いること)、専門的知識・技能の悪用禁止、専門外の専門的行動の禁止、守秘義務など、患者(クライアント)や社会に対する義務が宣言されている。ただし、同僚に対する義務(同僚をフェアに扱う、同僚を支援する)は、師に対する忠誠義務・扶助義務としてのみ表現されている。後進の育成にかかわる社会制度・教育機関が不在の中では、家族を基礎とする後進の育成にのみ医術知識・技能の伝達が限られることも、このような同僚に対する義務の意識の不在の理由と考えられる。
同業組合の誓いやルールという性質を超えて、医療者が守るべきルールに対する関心は、18世紀以降に高まった。英米圏においては、1770年スコットランドの哲学者・医師のジョン・グレゴリーが著した『医師の義務と務めに関する講話』(Lectures on the Duties and the qualifications of a Physician)*2や、1803年イギリスで、医師・哲学者のトマス・パーシヴァル(Thomas Percival)が、公刊した『医療倫理』(Medical Ethics)が、医療者の守るべき法令や慣習をまとめた書籍として著名である。とくに、後者は、もともとはマンチェスター病院の組織管理のためにまとめた文書で、当時の法令と病院規則をまとめ、これらへの遵守を求めることから、医療倫理ではなく、医療エチケットの書と評価される。しかし、伝統的に別の職種とされ対立が深かった内科医(physicians)・外科医(surgeons)・薬剤師(pharmacists)が協力して患者の治療に当たるよう求める点で、伝統的な同業者組合のルールを超える意義を有し、さらに、その後医療分野の倫理綱領の制定に大きな影響をあたえたことから、近代的な医療倫理の出発点に据えられることが多い(Patuzzo, Goracci and Ciliberti 2018)。また、イタリアにおいても、19世紀に、「医療義務論」(medical deontology)の名前で、医療にかかわる法・ルールに関する収集と整理が始まったとされる(Patuzzo, De Stefano and Ciliberti 2018)。
1847年には、アメリカ医師会(AMA: American Medical Association)が、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアで開催した第1回大会で、倫理綱領と医学教育・トレーニングのミニマムな要求事項のリストを作成した(Riddick 2003)。これが、近代的な医師倫理綱領のはじまりの一つと考えられる。
現代においては、世界医師会ジュネーブ宣言(1948年)が、重要かつ世界共通の医師の倫理綱領である。同宣言は、ヒポクラテスの誓いを定式化し、現代化したものと評価されることがある。1948年ジュネーブ宣言は、専門知識・技能の悪用の禁止、患者の利益の最優先、守秘義務、同僚に対する義務、受胎後の生命の尊重(人工妊娠中絶の禁止)などを定めている点で、確かに、ヒポクラテスの誓いとの共通点が大きい*3。その後、数回の改訂を経て、受胎後の生命の尊重に関する言及が削除され、2017年版では、すでに医療倫理(PART IIの「四原則アプローチ」の解説を参照)で重視されてきた患者の自律(autonomy)と尊厳・尊重という新しい義務が追加されている*4。
上記のように医師の専門職倫理への関心が高まった19世紀に、法曹倫理や法律家団体の倫理綱領の作成への関心も生まれている*5。米国では、1836年にメリーランド州ボルチモアの法律家デビッド・ホフマン(David Hoffman)が、自分の学生向けに最初の法曹倫理格律である「専門家行動に関する50の解決」(”Fifty Resolutions in Regard to Professional Deportment”)を書いたことが、法曹倫理の最初期の表明として知られる。ホフマンはメリーランド大学のロースクール(Law Institute of the University of Maryland)を創設し、成功した法学研究書を書き、同地で法律家としても成功したにもかかわらず、死後速やかに忘れられた。そして、1970年代後半になって、アメリカの法曹倫理の先駆者としてホフマンは再発見された。
Ariens(2014)によると、ホフマンの法曹倫理は名誉や誇りをベースとする共和主義的・貴族主義的なもので、19世紀当時良心を核とする個人主義倫理の流行の中で忘れ去られたという。ホフマンの生まれ育ったボルチモアは、独立戦争当時イギリスに支配された経験がなく、町の中核だった商工業者は、町を統治する気概にあふれ、共和主義的・貴族主義的な精神を持っていたとされる。ホフマンも乾物商の子どもだった。そして、1970年代後半になると、法曹の社会的責任が注目されるようになって、ホフマンは再発見された。1970年代には、クライアントのために道徳的・倫理的に疑わしい行為に手を染める弁護士が社会問題となり(代表的な事例は、ニクソン大統領の盗聴行為の隠ぺいにかかわるウォーターゲート事件)、1983年に改訂されたアメリカ法律家協会(ABA: American Bar Association)の倫理綱領も、公衆への責任は無視され、クライアントへの責任を強調するものだった。こうしたことから、弁護士を含む法曹の社会的責任や公衆に対する責任を問う声が高まり、法曹倫理の先駆者として、ホフマンが再発見されることとなった。
1854年10月には、ペンシルヴァニア大学で、法学者ジョージ・シャースウッド(George Sharswood)が法学部の授業で、「法律プロフェッションの目的と義務に関する講義概論」の一部を読み上げた。同草稿は1860年に書籍として公刊された。このエッセイの中では、裁判所とクライアントとの関係から、法曹(弁護士)の義務は生じるとする。「裁判所に対する忠実、クライアントに対する忠実、そして、真理と名誉に対する誠実。この3つが職務の誓いにおいて重要な要素である」と、シャースウッドは書いている(Sharswood 1860)。シャースウッドの講義に刺激されて、1887年にアラバマ弁護士会が倫理綱領を制定した。
1906年、ABAが32の条文からなる「専門職倫理典範」(Canon of Professional Ethics)を採択した。この「典範」は当初専門家主義と紳士協定的実践を示すものと受け取られたが、その後法律家の行動を律する基本的な倫理綱領として受容されていった。この倫理典範は何回かの改訂を経て、1964年に全面改訂が企画され、1969年に「専門職責任模範規程」(Model Code of Professional Responsibility)が制定された。この規程は9つの「典範」(倫理原則)と詳細な「懲戒規則(DR: Disciplinary Rule」から構成される。DRは、弁護士が法の実践を行う際の基本的義務と、その義務を根拠とする専門職的にかかわる懲戒とを記述したものである。典範とDRには、法律家(弁護士)の行為に関する「倫理的配慮」(EC: Ethical Consideration)が付随していた(Parley 1999)。
典範もECも弁護士の行動を制約するものでありながらあいまいさがあるとのことで批判にさらされ(Parley 1999)、さらに、ABA倫理規範の制約は弁護士間の競争を阻害する反トラスト法的なもの(たとえば、広告規制や最低限報酬等の規定)との批判(Rontunda 2013=2015: 27)から、改訂が行われ、1983年に専門職責任模範規則(Model Rules of Professional Conduct)に変更した。模範規則はルールとその説明のみから構成される点で模範典範よりもシンプルな構造になり、倫理原則ではなく、弁護士の社会的機能と関係からルールを示すことで現実との設置もより考慮された(Parley 1999)。
前出のように、同規則は改定を重ねて、現在も同じ名称で活用されている。1997年には、ABAはEthics 2000という委員会を設置し改正を行い、その後も改正を続けている。2013年8月の改正が最新の改正である。現在の模範規則は、次のような構成をとる(American Bar Association n.d.)。
・前文とスコープ
・用語集
・クライアントと弁護士との関係
・相談者として
・弁護者として
・クライアント以外の人々とのやり取り
・法律事務所と弁護士協会
・公共への奉仕
・法律サービスに関する情報(広告)
・専門職としてのインテグリティの維持
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
日本医師会(n.d.)「WMAジュネーブ宣言(日本医師会訳)」『日本医師会ホームページ』.
https://www.med.or.jp/doctor/international/wma/geneva.html
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Ariens, Michael(2014)”Lost and Found: David Hoffman and the History of American Legal Ethics, “ Arkansas Law Review 67, 571-625.
Jetter, Dieter (1992) Geschichte der Medizin: Einführung in die Entwicklung der Heilkunde aller Länder und Zeiten, Georg Thieme Verlag.=(1996)山本俊一『西洋医学史ハンドブック』朝倉書店.
Johnson、Deborah G. (2008) Computer Ethics, Fourth edition, Prentice Hall.
Parley, Louis (1999) “A Brief History of Legal Ethics, “ Family Law Quarterly 33(3), 637-645.
Patuzzo, Sara, Goracci, Giada, and Ciliberti, Rosagemma (2018)"Thomas Percival: Discussing the foundation of Medical Ethics," Acta Biomed 89(3), 343–348. doi: 10.23750/abm.v89i3.7050
Patuzzo, Sara, De Stefano,Francesco and Ciliberti, Rosagemma (2018) "The Italian Code of Medical Deontology: Historical, ethical and legal issues," Acta Biomed 89(2), 157–164. doi: 10.23750/abm.v89i2.6674
Prahl, Hans W. (1978) Sozialgeshichts des Hochschulwesens, Kösel-Verlag Gmbh. = (1988)山本尤訳『大学の社会史』法政大学出版局.
Riddick, Frank A. Jr. (2013) "The Code of Medical Ethics of the American Medical Association, " The Ochsner Journal 5(2), 6-10. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3399321/
Rotunda, Ronald D. (2013) Legal Ethics in a Nutshell, Fourth edition, LEG. = (2015)当山尚幸・武田昌則・石田京子『第4版アメリカの法曹倫理――事例解説』彩流社.
Sharswood, George (1860) An Essay on Professional Ethics, Second Edition, T. & J. W. Johnson. http://www.gutenberg.org/ebooks/22359
*1 なお、Jetter (1992=1996: 63)によると、義務論的性格を有するとされる(つまり、遵守すべきルールとして書き下ろされている)ヒポクラテスの誓いは、確実にヒポクラテス以後に作成されたもので、彼自身がつくった可能性はまったくない。また、ギリシア全土の医師が遵守したルールでもなく、切断や火傷を恐れる「新ピタゴラス派」と称すべき小さな医師同業組合が自衛のために設けたルールであるとされる。
*2 John Gregoryの伝記は、下記のWikipediaのページを参照。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Gregory_(moralist)
*3 1948年ジュネーブ宣言の翻訳に関しては、星野(1999)を参照。
*4 現代の世界医師会ジュネーブ宣言の原文と翻訳は、日本医師会ホームページからアクセスできる。日本医師会(n.d.)を参照。
*5 アメリカにおける法曹倫理の歴史の概略をつかむには、Rotunda(2013=2015: 25-36)が便利である。
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- 2021年07月13日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 2. 他者危害原則と表現・言論の自由 その2:国家機密は透明になるべきか 大谷卓史(吉備国際大学)』
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本稿は、土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』(アイ・ケイコーポレーション)の教員向け解説書・指導手引書の一部として書かれた解説に加筆修正したものである。上記解説書・指導手引書については第1回掲載の冒頭*を参照ください。
ウィキリークスは、政府情報も含め、すべての情報の透明性(「情報の自由」)を求め、リークされた情報はそのまま公開すべきと主張し、実際に編集しないリーク資料の公開を行った。その一方で、政府高官(当時の国務長官クリントン)と新聞社は、公開すべきではない情報があると主張した(谷川 2021)。
政府高官によれば、「人々の生活を危険にさらし、国家の安全を危うくし、ほかの国々と共通の問題を解決するためともに働こうとする」ことを困難にすることが、その非難の理由とされる。一方、新聞社(『ガーディアン』)は、情報提供者や関係者の安全が脅かされる危害の防止の観点から、ウィキリークスの「極端な情報の自由」の思想にもとづく情報公開を非難した。
政府高官と新聞社は、非難の根拠として、編集をしない情報の公開によって、人々(情報提供者や関係者)への危害を及ぼすことを、共通に挙げている。近代において、表現・言論の自由を擁護した古典的著作である、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論(On Liberty)』(Mill 1869=2021)においては、他者への危害の可能性が表現・言論の自由の限界であると指摘している。たとえば、穀物商の商店を今にも襲おうと殺気立った群衆の前で、穀物商は餓死を生んでいるとか、私有財産制度は略奪だと感情に訴え煽動をするなどの行為を非難している(同書第3章)*1。
この考え方は、米国の連邦最高裁判決(Schenck v. United States, 249 U.S. 47 (1919))において、オリバー・ウェンデル・ホームズ(Oliver Wendell Holmes, Jr.)によって、「明白かつ現在の危険(clear and present danger)」の法理として、より洗練された形で示された*2。ホームズは、同判決で、混雑した劇場で本当は火事が起こっていないのに「火事だ!」と叫ぶという例をあげて、言論による扇動の危険を示している。その後Brandenburg v. Ohio事件(395 U.S. 444 (1969))(ブランデンバーグ事件)を経て、危害の可能性がただあるだけでは、表現・言論の自由を制限するには足らず、言論が「切迫した違法行為(imminent lawless action)」を惹起する、または引き起こす意図があり、実際にそのような行為を惹起し引き起こす可能性が高くない限り、制限されないと定式化された。
ブランデンバーグ事件の基準によれば、ウィキリークスの一切編集しない機密情報の公開は、危害の惹起を目的としないものであるから、制限対象とならないようにも思われるが、情報提供者(すなわち、スパイ)が誰か明らかとなれば、情報を探られていた国家や組織が彼らを排除しようとするのは必然的であって、他者危害を引き起こす蓋然性がきわめて高い。誰が情報提供者であるか明らかにすることが、イラク・アフガニスタン戦争における国家の不正行為(情報提供者の獲得過程に不正がある、未成年の情報提供者を危険にさらしている、など)を暴露することに必要である可能性は低く、もしあったとしても(たとえば、情報提供者の社会的地位や年齢等)仮名化などによる情報提供者の保護措置が必要と考えられる。この観点から見ると、ウィキリークスによる未編集の機密情報の公開は不正である。
それでは、政府高官が非難の理由とするように、国家の安全保障や外交政策の遂行の妨げになるという可能性は、表現・言論の自由を制限する根拠となるだろうか。
哲学史を見ると、18世紀ドイツの哲学者カントは、国家にとって枢要な問題(国際関係や平和に関する事柄)について有益な助言・忠告を得るため、哲学者たちに言論の自由を認めたうえで、それらの助言・忠告を受けるべきという原則(「第2追加条項 永遠平和のための秘密条項」*3 )は秘密にされるべきという主張を行っている。国家が、このように哲学者に忠告・助言を求めてもそれを秘密にすべきなのは、国家の威厳を守るためだとされる。
カント『永遠平和のために』から該当箇所を引用する。
……国家の立法者たちにとっては、最高の智恵を蔵しているのは国家にほかならないはずである。だから臣下である哲学者に助言を求めることは、ほかの国家にたいして威厳を守るという原則からみると、国の威厳に傷をつけるものと思われよう。しかし哲学者に助言を求めることは、きわめて望ましいのである。だから国家は暗黙のうちに、すなわち助言を求めていることを秘密にしながら、哲学者たちに助言するよう促すことになろう」(Kant 1795=2020: 211-212)。
このように、国家は有益な助言を得るため、「……国家は哲学者たちに、戦争の遂行と平和の樹立にかんする普遍的な原則について、自由かつ公に論じさせるのである。哲学者たちは禁じられなければ、みずから進んでこれらの問題について論じるはずなのだ」(Kant 1795=2020: 212)と、カントは指摘する。
カントは、さらに、哲学者に言論の自由を認めるべきという主張のダメ押しのため、伝統的なプロフェッション(神学および、法学、医学。中世に成立した大学は、この3学部による高度専門職の養成を主要な社会的機能として有し、哲学はその準備課程と位置づけられた(坂本2008: 182-183))との関係にも言及する。哲学は、これら伝統的なプロフェッションの婢と呼ばれることが多いものの、それは「あかりを掲げて貴婦人の前を歩む」(Kant 1795=2020: 213)との自負が語られ、「王者が、またはみずから平等な原則のもとにしたがう王者的な民族が、哲学者という階級を消滅させず、また沈黙させずに、公に議論するのを許すことは、それぞれの職務を明確にするためにも不可欠」(Kant =2020: 213)だとする*4。
ところで、カントは、同じ『永遠平和のために』で、法について、「法学者がふつう想定するような公法のすべての内容を捨象してみよう。すると残るのは公開性という形式である。いかなる法的な要求でも、公開しうるという可能性を含んでいる。公開性なしにはいかなる正義もありえないし(正義というのは公に知らせうるものでなければ考えられないからだ)、いかなる法もなくなるからだ(法というものは、正義だけによって与えられるからだ)」と、その公開性が不可欠であることを主張する(Kant 1795=2020 :240)。
しかし、これは法律の形成プロセスや、条約締結のための外交交渉のすべてが公開されるべきという主張ではないように思われる。カントは、多数の秘密条項が存在するバーゼル平和条約(1792年のフランス革命後のフランス革命戦争におけるプロイセンとフランスとの平和条約)に対して不信感をもち、秘密条項のある条約一般にも否定的だった(Kant 1795=2020 : 211; 萱野 2020: 24-25, 107)。これは秘密にされている法や秘密条約一般が公にできない内容で会って、不正であることを指摘し批判していると考えるべきであって(「他者の行動にかかわる行動の原則が、公開するにはふさわしくない場合には、その行動はつねに不正である」(Kant: 1795=2020 :241))、外交の交渉過程や法の形成プロセスすべてを公開せよという主張と受け取ることはできない*5。
一般的に、競合する集団は、自らの競争相手に勝つために、自分たちのグループの中だけで共有すべき何らかの秘密を有するのが普通である。米国の法学者ブルースティン(Edward J. Bloustein)は、こうした「集団プライバシー」を「ハドルの権利(right to huddle)」として擁護した(Bloustein 1977)。「ハドル」とは、アメリカン・フットボールで、選手たちが作戦を練るために一団に集まる行為を指す。このときには秘密が集団外に漏れないようにしなければならないし、集団外に漏れることを容認したら、アメリカン・フットボールというゲームそのものが成立しなくなる。
国際政治の世界においては、多数の国家が協力や対立をしながら、その利益を追求している。国家同士の協力関係を形成・維持する一方で、利益が対立する他国と外交交渉を行う中では、情報の共有と隠蔽が重要な要素となるのは確実である。交渉過程の中で、自分たちの交渉の戦術や戦略、死守すべき利益などが相手に明らかになってしまった場合、一方的に相手に有利な形で交渉が進められることになるだろう。これはお互いに変わらない。そのため、対立相手には情報を隠したいと考えるはずだ。協力関係にある場合には、お互いの利益のために情報を共有することがある一方で、ほかの場面やさまざまな要素における競争関係を考慮すると、公開しない情報も存在する。国際関係における競合を考えると、情報をコントロールできない相手に対しては、進んで情報共有を行おうとしないだろうから、他国との協力も難しくなる。国家の主要機能として、安全保障・外交を認めるならば、安全保障・外交のための秘密は、一定程度認めなくてはならないだろう。
さらに、報道が伝えるように(孫崎 2001: 150, 165-168)、同盟国の首脳に対する辛辣な論評が漏れて、同盟国の人々や当の首脳が知ることになれば、確かに同盟関係は危うくなるかもしれない。上記のハドルの権利で述べたように、同盟国相手であっても、自国の利害を考えて行動する際には、政府がよりよい意思決定をするため、情報収集者の同盟国の状況に関する正確かつ正直な意見が必要とされる。そのうえ、戦争中・対立的関係にある相手国における情報協力者に関する情報も漏れたとするならば、この情報協力者は生命の危機にさらされるかもしれない(The Guardian Special Reporter Team 2011: 250)。新聞社は個人の生命が危険にさらされる状況をできるだけ防ぐため、情報を編集したうえで公開しようとしたものの、ウィキリークスはあくまでもリーク情報をそのまま公開することにこだわったため、決裂するということもあった。したがって、対立関係にある国々だけでなく、協力関係・同盟関係にある国々との間でもどの情報を共有しどの情報を共有しないかの選択ができるべきであるし、人命に対するリスクなど、情報の公開によって特定の個人や集団が大きな被害を受ける可能性がある情報の公開は慎重になる必要があるといえるだろう。
その一方で、国家・政府の働きは民主的コントロールのもとに置くべきであり、秘密が政治的腐敗を生む可能性があることを考えると、一部の個人的なプライバシーにかかわるものを除けば、数十年などの一定期間を置いて情報公開を行い、国家・政府の働き・ふるまいを歴史の審判にかけ、国民的な議論・民主的な議論にゆだねること制度化し、政治家・行政担当者が歴史の審判を恐れるように仕向けるなどの対応が必要であろう。谷川(2021: 157)で言及する公文書公開制度は、このような考えで形成され、運用されている。
哲学者ボク(Sissela Bok)は、公文書への公的アクセスの拡大が強く主張される社会においても、「内部資料、租税記録、犯罪管理、外交、国防」がその例外にされなければならないとする(Bok 1983-1997: 252)。これは、行政での選択と政策決定の自由を確保し、重大な不測の事態に備える(例、犯罪捜査の進展等に関して秘密に置くことで、被疑者の逃亡等を防ぐ)とともに、無実の人々への危害を防止するためだと説明される(Bok 1983-1997: 245-247)。
しかし、政策形成・法律形成のプロセスができるだけ公開されるべきだという原則はあらためて強調しておく必要がある。とくに、民主政のもとでは、議会での議論に加えて、法案・政策形成のために行政が開く審議会や研究会等の議論はできるだけ広く公開され、多くの人々が知ることができ、併せて、意見を表明できる機会が設けられることが望ましい。国民が将来についてよりよい選択ができるようになるため、より多くの有益な意見を求めることができるだけでなく、一部の人々が自分たちの利益のためだけに法律や政策をつくことをできるだけ防止することに役立ち(当然ながら、公然と行われても一部の人々の利益だけを図る法や政策がつくられても、そのことに気づかれないことはありえるものの)、その立案プロセスの公開性・透明性によって、最終的な政策や法に対する信頼を高める(少なくとも、一部の人々が自分たちの利益のためだけに法律や政策をつくっているのではないかという不信感を抑えることはできる)と考えられる。
また、ジャーナリストの立場に立てば、民主的な意思決定に役立ち、人命に対する危害を招く直接の恐れがなく、そして、プライバシー侵害などの人権侵害もなければ、政府が隠そうとする情報は暴かなければならないことになるだろう。民主政のもとでは、国民が正確かつ豊富な情報と、多様な意見にさらされて議論することで、よりよい意思決定がされるものと考えられている。これは、ジャーナリズムが前提とする考え方でもあって、「ジャーナリズムの第一の責務は真実」(Kovach and Rosenstiel 2001=2002: 39)であるとともに、その「第一の忠誠の対象は市民」(Kovach and Rosenstiel 2001=2002: 59)であるとされる。そうすると、他国の首脳に対する辛辣な論評であれ、外交・交渉過程の秘密であれ、人命に危険が及ぶ直接の可能性やプライバシー侵害(ただし、公人の公務にかかわるプライバシーなど、公共性があり公益に資する事実に関しては公開される必要がある)などの人権侵害の恐れがなければ、原則的には隠された政府情報を公開することが、ジャーナリストの義務であるという結論も導けるはずだ。政府が積極的に公開しない・秘密にしようとする情報がある一方で、ジャーナリスト倫理は、原則的にそれを暴くことを要求する。
国家・政府活動においては、一定の秘密を守る必要があるものの、その限界はどこか、どのように公開して民主的コントロールを機能させるか解明するのは、重要な課題である。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
萱野稔人(2020)『悪を克服する哲学』NHK出版.
谷川卓(2021)「情報公開と機密情報」土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』アイ・ケイコーポレーション, 149-163.
中山元(2020)「解説――カントの思考のアクチュアリティ」中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社, 280-384.
孫崎亨(2011)「米公電暴露の衝撃と外交」小林恭子・白井聡・塚越健司・津田大輔・八田真行・浜野喬士(2011)『日本人が知らないウィキリークス』洋泉社, 143-170.
Bloustein , Edward J. (1977)”Group Privacy: Right to Huddle,” Rutgers-Camden Law Journal 8, 219-283..
Bok, Sissella (1983) Secrets: On the Ethics of Concealments and Revelation, Random House. =(1997)大澤正道『秘密と公開』法政大学出版局.
Kant, Immanuel (1795) Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf, F. Nicolovius. = (2020)中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社, 147-273.
Kovach, Bill and Rosenstiel, Tom (2001) The Elements of Journalism: What Newspeople Should Know and the Public Should Expect, Crown. =(2002)加藤岳文・斎藤邦泰訳『ジャーナリズムの原則』日本経済評論社.[なお、原著は、2014年に第3版が出版されている。]
Mill, John Stuart (1869)On Liberty, 4th edition, Longmans, Green and Reader and Dyer.=(2020)関口正司訳『自由論』岩波書店.
Rosenbach, Marcel and Stark, Holger (2011) Staatsfeind Wikileaks, Duetsche Verlags-Anstalt. = (2011)赤坂桃子・猪俣和夫・福原美穂子訳『全貌ウィキリークス:早川書房.
*1 また、連載第1回も参照のこと。
*2 なお、同裁判は、第二次世界大戦中に徴兵に反対し平和行動を起こすべきと主張するビラをまいた2名の被告が1917年スパイ法によって刑事訴追され、米国連邦憲法修正1条により無罪を訴えたものの、有罪とされた。明白かつ現在の危機を創出する可能性が高い言論については議会が禁止する権限(power)を有し、この徴兵反対・平和ビラが広く行き渡ることで徴兵プロセスが妨害されることから、このビラを配る行為は、混雑した劇場で火事だ!と叫ぶのと同じだとした(Schenck v. United States)。
*3 第2追加条項を含め、『永遠平和のために』のわかりやすい最近の解説としては、中山(2020)および萱野(2020)を参照。
*4 カントの言論の自由に関する主張については、中山(2020: 373-375)および萱野(2020: 107)も参照。
*5 後述する法や政策の形成プロセスの公開性に関する議論も参照。
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- 2021年07月06日 『デジタル社会を生き抜くための情報倫理 1. 他者危害原則と表現・言論の自由 その1:ネット上の有害情報と表現・言論の自由 大谷卓史(吉備国際大学)』
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※本稿は、土屋俊監修(2021)『改訂新版 情報倫理入門』(アイ・ケイコーポレーション)の教員向け解説書・指導手引書の一部として書かれた解説に加筆修正したものである。
土屋(2021)は、幅広い学部・学科で教えられることが増えている情報倫理の大学教養課程向けの教科書である。情報倫理は、ICTから哲学・倫理学、社会・経済までカバーし、教授する知識の範囲が広い一方で、大学においては、さまざまな分野を学問的背景とする教員が教えている傾向が見られる。本書の扱う範囲も極めて広く、教員によっては授業での教授に当たって、何らかの支援を必要と感じる者もいるかもしれない。
上記の解説書・手引書は、同教科書で取扱っている内容に関して、教員が授業を実施し、学生を指導するにあたって役立つように、各PART(章)の練習問題の解答・解説を行うとともに、関連する知識・情報等を提供するものである。
この解説書・手引書は、土屋(2021)を授業で教科書として採用した教員に対して、無償で提供している非売品である。土屋(2021)と解説書・手引書に関心をお持ちいただけた場合には、出版社にご連絡をいただき、土屋(2021)の教科書としての採用をご検討いただきたい。
連絡先:アイ・ケイコーポレーション
担当:川上 電子メール 87492_mail@ik-publishing.co.jp
TEL 03-5654-3722
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一般的に、表現・言論の自由は、他者への危害がないかぎり判断能力のある成人の生活や行為には政府や社会は干渉すべきではないという他者危害原則によって正当化される。そのため、表現や言論は、その当人以外の他者への切迫した違法行為や明白かつ現在の危険を直接惹起しないかぎり自由であるべきとされる。この根拠としては、普通ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』(Mill 1869=2020)があげられる。
ところで、ある表現・言論が他者への切迫した危害を惹起するかどうかは、その表現や表現された内容だけで決まるわけではなく、表現されたり発言されたりする状況や態様と合わさって決まることにも注意をしたい。ミルのあげた例(Mill 1869=2020: 126)を使うならば、「穀物商は貧者を飢えさせているとか、私有財産は強奪だといった意見を出版物を通じて広めるだけなら、妨害してはならない。しかし、穀物商の家の前に集まった興奮状態にある群衆に向けて声に出して言ったり、ビラにしてその群衆に配ったりすれば、処罰されるのは当然だろう。正当化できる理由がないのに他人に危害を加える行為は、どんな種類のものであれ、嫌悪の感情によって抑止されてよい。また、重大な事例の場合は、そうした感情で抑止することが絶対に必要であるし、やむをえないときには、人々の積極的な干渉で抑止することも絶対に必要となる」。
また、混雑する劇場で火事でもないと知りながら「火事だ!」と大声で叫ぶことと、街角で煙がもくもくと立ち上る窓を見かけて危険を知らせようと「火事だ!」と叫ぶのは、同じではない。さらには、混雑する劇場であっても、喜劇の登場人物が別の登場人物を驚かそうと「火事だ!」と叫ぶのともまた異なる。火事の最初の例が明白かつ現在の危険を惹起する一方、後者2例はそうした危険を惹起するものではない。他者に危害を加える直接の原因となりうる文脈での発言・発話は罰せられても、直接に原因とはなりえない発言・発話(わざわざ本を開き読まないと発言・発話を目にできない出版物の中で、または、演劇のような虚構の中での発話・発言)は、発話・発言があったというだけで処罰の対象とはなりえない。
また、表現・言論が伝達されるメディアによって、表現・言論の規制や禁止の必要性は変わってくる。爆弾や有毒ガスの製造方法に関する情報が使われて、爆弾や有毒ガスが製造され人々に危害を与えるかどうかは、その伝達方法によって蓋然性が大きく変わる可能性がある。誰でも(通信料・インターネット接続料金を除けば)無料で家からアクセスできるブログから爆発物や劇物の製造方法に関する情報を発信することと、一定の金額を支払って購入する書籍にこうした情報を掲載することには、情報アクセスにかかるコストの点で違いがみられる。また、インターネットでの表現・言論はコピーによっても、容易に拡散し、相当多数の人々が閲覧しえる。これらの条件から、明白かつ現在の危険の法理から見て、出版においては禁じられない表現・表現であっても、多数の人々が閲覧することで、生命・身体・財産に対する重大な結果を帰結する蓋然性がきわめて高い場合には、規制しえる場合があると考えられる*1。
2000年代初め、2種類の家庭用洗剤を混ぜると有毒な硫化塩素が発生するという情報がインターネットに掲示され、この情報をもとに自殺したとみられる事例が増加したことが社会問題になった。このときには、警察庁が、硫化水素の製造を誘引する書き込みを有害情報であるとして、プロバイダや電子掲示板の管理者等に対して削除依頼する文書を発行した(三柳 2008)*2。なお、1970年代に発行された爆発物の製造方法を掲載した書籍は、爆発物取締罰則4条(「第一条ノ罪[治安妨害・人への危害を食わせる目的で爆発物を使用すること]ヲ犯サントシテ脅迫教唆煽動ニ止ル者及ヒ共謀ニ止ル者ハ三年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」)によって摘発された*3。
ミルのあげた例や、次回紹介する米国の裁判例で示したように、他者危害原則は、言論・表現による特定の人々の社会的評価等の人格権侵害の規制(たとえば、名誉棄損、侮辱等)だけではなく、煽動行為の規制の根拠となる。日本法では、煽動は「特定の行為を実行させる目的をもつて、文書若しくは図画又は言動により、人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめ又は既に生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること」と定義される(破壊活動防止法4条2項)。
平成28年に制定されたヘイトスピーチ解消法(「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(平成28年法律第68号))は、「日本以外の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者や子孫を、日本の地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」の解消を目指し、国や地方公共団体に対して、啓発活動や相談の取り組み、紛争防止・解決、教育などを義務づける(または努力義務として定める)ものである。この法律は、ヘイトスピーチそのものの直接の規制ではないものの、外国出身者の静穏な生活や心理的安全を脅かす、いわゆる街宣行為等に関しては、地域の静穏を害する拡声器使用を禁止する条例(都道府県の一部が制定する「拡声機暴騒音規制条例」*4)で対応できる場合があると考えられる。ただし、すべての自治体が制定しているわけではないこと、拡声器を用いない直接の暴力を用いない示威行為による脅威に対応できないことなどの問題がある。
他者危害原則とのかかわりで問題となりうる表現・言論の規制に、わいせつ表現の規制がある。日本においては、わいせつ表現は、刑法175条でその頒布等(電気通信の送信によるわいせつな電磁的記録その他の記録の頒布も含む)が一律に禁じられている。ところが、1979年にイギリスで発表された、わいせつ映像の規制に関するウィリアムズ報告書(Williams 1979)は、「わいせつ」かどうかという基準はあいまいかつ混乱しているので使えず、危害をベースに規制を行うべきとしている(Williams 1979: 139)。つまり、「わいせつ」を理由とする従来の表現規制はいったん廃止したうえで、危害ベースの規制に切り替えることを提案する。危害ベースの規制では、明らかに誰かが危害を加えられている画像・映像が被写体への危害防止を理由に禁止されるのと同様に、見たくない人間に対して規制表現(暴力表現も含む)を強制的に見せることも禁止される。そして、未成年者保護の観点から、未成年者が撮影されている規制映像・画像が禁止される一方、未成年者に規制表現を販売したり見せたりすることも禁じられる(Williams 1979: 213-219)。
さらに、この原則にもとづいて、同報告書は、わいせつ表現や暴力表現による映像のレーティング(等級分け)を行ったうえで規制するよう提案する一方、出版(とくに、文字や絵による表現を想定している)における表現・言論("printed words")は規制・禁止されるべきではないとした。これは、出版は直接には迷惑(offensive)ではないし、危害にかかわることがありえない(nor capable of involving the harms)からだとされる(Williams 1979: 213-219)。このように区別されるのは、文字や絵による表現が、モデルをわざわざ利用することがなければ、誰かに危害を加えることによって作成されることはないうえ、出版物へのアクセスにコストがかかること、ゾーニング*5による規制で、未成年者保護がしやすいことが主要な理由である。なお、同報告書では、わいせつ表現にアクセスする未成年者の責任がないとことさらに指摘している点も注目されるべきである。
謝辞 本稿は、科研費基盤(B)「インターネット研究倫理の構築-倫理問題の考察と倫理ガイドラインの提案」(2018-2020年)(18H00608)および、科研費基盤(B)「情報ネットワーク社会における「死」の再定義」(2019-2021年)(19H04426)の研究成果の一部である。
参考文献
Mill, John Stuart (1869) On Liberty, 4th edition, Longmans, Green and Reader and Dyer.=(2020)関口正司訳『自由論』岩波書店.
警察庁生活安全局情報技術犯罪対策課長 (2008)「警察庁丁情対発第33号 硫化水素ガスの製造を誘引する情報の取扱いについて 平成20年4月30日」. https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/998218/www.npa.go.jp/pdc/notification/seian/jyohotaisaku/jyohotaisaku20080430.pdf
千代原亮一(2012)「インターネット上の流言飛語に対する法規制-東日本大震災に関連したデマ情報・チェーンメー ルの法的側面一」『日本情報経営学会誌』32(2), 49-57.
三柳英樹(2008)「硫化水素の製造を誘引する書き込みは『有害情報』、警察庁が削除要請へ」『Internet Watch』2008年5月1日. https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/05/01/19420.html
*1 千代原(2012)は、東日本大震災におけるデマやチェーンメール等、インターネット上の流言蜚語の規制が可能かどうか検討し、「重大な実質的害悪(危険)が発生することが時間的に切迫している」ことをもって規制が可能とする。ただし、具体的な規制の方法に関する言及はない。東日本大震災時には、総務省および警察庁などから、インターネット上の流言蜚語の削除要請が行われ、プロバイダが削除基準に合致するかなどに照らして対応したことが知られている(「東日本大震災:デマの削除要請、判断結果を公開--通信関連4団体」『毎日新聞』2011年4月9日27頁)。同論文は、この削除基準の原則を明らかにしようとするものと考えられる。
*2 2020年8月現在警察庁の依頼文書は、国立国会図書館の保存事業によって保存されている。警察庁生活安全局情報技術犯罪対策課長 (2008)を参照。
*3 「腹腹時計」『Wikipedia日本版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E8%85%B9%E6%99%82%E8%A8%88
*4 「拡声機暴騒音規制条例」と称される条例は、それぞれの自治体によって名称等が異なる。詳細は、ウィキペディアの下記の項目を参照。
「拡声機暴騒音規制条例」『Wikipedia 日本版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%A1%E5%A3%B0%E6%A9%9F%E6%9A%B4%E9%A8%92%E9%9F%B3%E8%A6%8F%E5%88%B6%E6%9D%A1%E4%BE%8B
*5 子どもの手が届かない高い棚に置くなど、規制対象となる出版物・情報へのアクセス方法や設置場所等をほかの出版物・情報と区別すること。未成年者に見せたくないわいせつ表現や暴力表現へのアクセスを難しくするほか、わいせつ表現や暴力表現を見たくない人が見たくないようにするという機能もある。
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- 2021年06月28日 『新連載のお知らせ』
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4月から12回にわたり言語の多様性について興味深い連載を続けてくださった仁科陽江先生、ありがとうございました。言語の多様性を通じて新しい視点が得られた方も多いのではないでしょうか。連載は『言語のダイバーシティ(仮題)』としてリベラルアーツコトバ双書で刊行されます。
さて7月からは12回にわたり、大谷卓史先生(吉備国際大学)による新連載「デジタル社会を生き抜くための情報倫理」が始まります。「情報倫理」は、情報通信技術(ICT)が発展する社会で新しく生まれる問題を理解し、対処していくために不可欠な分野といえるでしょう。大谷先生のご専門は、哲学(情報倫理学・科学技術史)で、多面的に「情報倫理」を考える材料となるでしょう。(金城)