中国語再訪問特設サイト(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2021年02月09日 『中国語再訪問特設サイト 5.孤立語の使役文 木村英樹(東京大学名誉教授) 』
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5.孤立語の使役文
◆ 屈折語と膠着語
前回までは単音節性および声調言語という観点から、「語」の特性について2音節語を中心に話してきました。連載の最終回は「孤立語」という観点から、中国語の「文」の特性について話したいと思います。
語は「句」(フレーズ)を構成し、さらには「文」(センテンス)を構成します。名詞、動詞、形容詞など文法機能の異なるさまざまな語が主語や目的語や述語として文の中に用いられる際に、多くの言語は、それぞれの文法規則に従って、語を然るべきかたちに整えます。名詞であれば、主語もしくは主格として用いるならこのかたち、目的語もしくは対象格として用いるならこのかたち、というように。あるいは、動詞であれば、現在の行為の表現に用いるならこのかたち、過去の行為の表現に用いるならこのかたち、というように。
語の文法的なかたちを整えるために用いられる手段にはいくつかのタイプがあります。ある言語は、語形変化という手段を広く生産的に用い、また、ある言語は、語に接辞や助詞をくっつけるという方法を広く生産的に用います。前者のタイプの言語を「屈折語」といい、後者のタイプの言語を「膠着語」といいます。
日本語は、動詞や形容詞の活用に見られるような語形変化という手段をもちつつ、同時に「太郎‐たち‐を」や「食べ‐させ[使役] ‐られ[受け身] ‐た[過去]」のような接辞の接合という手段ももち合わせており、屈折的手段と膠着的な手段の両方を備えています。世界の言語には日本語のような混合型のタイプも少なくありません。
◆ 孤立語 ―― 煉瓦作りの中国語
さて、中国語ですが、中国語は上の三つのタイプのどれにも該当しません。中国語は語形変化という文法手段をもたず、また、語の文法的なかたちを整えるための接辞や助詞といったような文法形式にもきわめて乏しい言語です。
「彼女が私を愛している」を中国語で言うと(1)のようになり、「私が彼女を愛している」は(2)のようになります。
(1)她 爱 我。
彼女 愛する わたし
(2)我 爱 她。
わたし 愛する 彼女
中国語の基本語順は英語と同じSVOですから、(1)では“她”が主語で、“我”が目的語。(2)では“我”が主語で、“她”が目的語です。主語であっても目的語であっても“她”は“她”、“我”は“我”。語のかたちになんら変化はありません。また、いずれの“她”や“我”も日本語の格助詞のような接辞を伴わず、単身で主語または目的語の位置に立っています。ここでは人称代名詞を例に取りましたが、一般の名詞についても事情は変わりません。
動詞についても同様です。英語では〈彼女が私を愛している〉なら動詞は loves 、〈私が彼女を愛している〉なら動詞は love というように動詞のかたちが変わりますが、中国語では上の2文のように動詞は“爱”のままです。発音も文字表記も変化は一切なし。また、英語や日本語では現在の行為の表現と過去の行為の表現とで述語のかたちが変わりますが、中国語の動詞にはそのようないわゆる時制(テンス)による変化もありません。「彼女がいま私を愛している」と言いたければ(1)に“现在”(いま)という時間詞を加えて“她 现在 爱 我。”と言い、「彼女がむかし私を愛していた」と言いたければ“从前”(むかし;以前)という時間詞を加えて“她 从前 爱 我。”となりますが、動詞は頑として“爱”のままです。語形変化もなければ、〈現在〉・〈過去〉・〈未来〉の時制を表す接辞のようなものもありません。誰が誰を愛そうと“爱”は“爱”。いま愛しているにせよ、かつて愛していたにせよ、“爱”は“爱”。“爱”に変わりはないのです。
語形変化も起こさず、接辞や助詞も伴わず、語が、語そのもののかたち、言わば素材のままのかたちで文に用いられるという、そのようなタイプの言語を「孤立語」といいます。中国語はほぼ典型的と言って間違いのない孤立語です。
ロシア語やポーランド語のような屈折語は、一語一語が粘土細工のように柔らかく、それをくにゃくにゃと変形させながら文の中に取り込んでいきます。トルコ語のような膠着語は、一語一語が紙で拵えたサイコロのようで、大小さまざま、色とりどりのサイコロを糊や膠でくっつけるように連ねながら文を作ります。孤立語である中国語は、語の素材が硬くて変形させることもできなければ、糊や膠でくっつけることも容易ではありません。その、こつんと硬い単身の一語一語を素材のまま、あたかも硬い煉瓦を一つ一つ並べていくように文を組み立てる。中国語とはそんな感じの言語です。
語形変化もなければ接辞にも乏しい。中国語とはなんと融通の利かない頑固で不自由な言語なんだろうと思われるかもしれませんが、そうでもありません。言語とはよくしたもので、文法的な資源が少なければ少ないなりになにかと遣り繰りをし、孤立語は孤立語なりのやり方で人間のコミュニケーションを支えてくれます。それどころか、あれこれかたちに縛られず、どちらかと言えば大らかで、却って使い勝手がよいという一面もあります。その一つの事例として、ここでは使役文を取り上げたいと思います。
◆ 使役文
使役文とは、日本語で言えば、「太郎が次郎に料理を作らせる」とか「太郎が(餌をいっぱい与えて)アヒルを太らせた」というような文、すなわち、X(=太郎)による何らかの働き掛けがきっかけとなって、Y(=次郎)が何らかの動作を行う、あるいはY(=アヒル)に何らかの変化が起こるといった事態を、Xを主語にして表すという、そのようなタイプの構文を指します。日本語では、典型的には、上の例の「作ら‐せる」「太ら‐せる」のように、動詞の語形変化と使役を表す接辞を組み合わせるかたちで構成されますが、さて、孤立語の中国語では果たしてどのようなかたちで表現されるのでしょうか?
◆〈シテ・ナラセル〉使役文
日本語の使役文と同様、中国語の使役文にもいくつかのタイプがありますが、ここでは先の日本語の「太郎がアヒルを太らせた」に相当するタイプ、すなわち〈Xが何らかの動作・行為をシテ、Yを何らかの状態にナラセル〉という事態を表すタイプの使役文を取り上げます。以下、このタイプの使役文を「〈シテ・ナラセル〉構文」と呼ぶことにします。まずは(3)の文をご覧ください。
(3)太郎 把 鸭子 喂肥 了。
太郎 前置詞 アヒル 餌を与える‐太っている 文末助詞
(3)は〈太郎が餌を与えて、アヒルを太るという状態にならせた〉という意味を表す〈シテ・ナラセル〉構文です。文頭の“太郎”が主語で、これが〈餌を与える〉という動作の主体、つまり〈シテ〉の主体(=X)であり、当該の使役的事態を引き起こす張本人、すなわち〈使役者〉です。一つ飛ばして“鸭子”は、Xの動作によって状態変化を起こす主体(=Y)であり、〈被使役者〉です。その〈被使役者〉を導く役割を担うのが前置詞の“把”です。そして、“喂肥”。これが〈シテ・ナラセル〉構文の中核となる複合動詞です。“喂”は〈餌を与える〉という意味の他動詞で、“肥”は〈太っている〉という意味の形容詞です。最後の“了”は第2回でも登場した文末助詞で、変化が実現したことを表します。ここでは〈太る〉という状態変化がすでに実現済みであることを示しています。
◆「動結型」複合動詞
〈シテ・ナラセル〉構文の最たる特徴は、述語に「動結型」と呼ばれる複合動詞が用いられることです。中国語の複合動詞にはいくつかのタイプがありますが、そのうちの一つに、“喂肥”のように動作動詞と形容詞が組み合わさるか、あるいは“喝醉”(飲む・酔う)のように動作動詞(=“喝”)と変化自動詞(=“醉”)が組み合わさるというかたちの複合動詞があります。このかたちの複合動詞は動結型と呼ばれ、〈動作+結果的状況〉という意味を表します。すなわち、前の動詞が〈動作〉を表し、その動作によって引き起こされる〈結果的状況〉が、後ろの形容詞または自動詞によって表されるというタイプの複合動詞です(木村2017:260-265)。
〈シテ・ナラセル〉構文には、この動結型の複合動詞が述語に用いられます。仮に、〈動作〉を表す動詞をV、〈結果的状況〉を表す形容詞または自動詞をRと記号化し、〈シテ・ナラセル〉構文の構造を一般化すると次のようになります。
X 把 Y VR
XとYが名詞で、“把”が前置詞。Vが動詞で、Rが形容詞または自動詞。語形変化もなく、接辞の類いもなく、五つの語が素材のままでただ並ぶだけという、孤立語ならではの至ってシンプルな構造です。シンプルであるにもかかわらず、いえ、シンプルであるがゆえに、VとRの組み合わせは自由度が高く、優れて生産的であり、さまざまなタイプの使役的事態を表すことができます。
◆ 〈シテ・ナラセル〉構文の柔軟性
〈洗う〉という動作は、本来、対象を清潔な状態にナラセルことを意図して行われるものですから、動詞の“洗”と〈清潔である〉という意味を表す形容詞の“干净”が組み合わさった“洗干净”という複合動詞は極めて自然な動結型だと言えます。そして、それを述語に用いた(4)の〈シテ・ナラセル〉構文は〈シアオミンが靴下を洗濯シテ、清潔な状態にナラセル〉という至極日常的で自然な使役的事態を表す文として問題なく成立します。
(4) 小明 要 把 袜子 洗干净。
シアオミン 助動詞 前置詞 靴下 洗う‐清潔である
(シアオミンは靴下をきれいに洗うつもりだ)
しかし、事と次第によっては――例えば、水が汚れていたとか、あるいは洗濯槽が汚れていたとかで――、〈洗う〉という行為が、意図に反して却って靴下を汚い状態にナラセルということも現実にはないわけではありません。そのような、動作者の意図に反する使役的事態も〈シテ・ナラセル〉構文は(5)のように問題なく表現できます。“脏”は〈汚い〉という意味を表す形容詞です。
(5) 小明 把 袜子 洗脏 了。
シアオミン 前置詞 靴下 洗う‐汚い 文末助詞
(5)は〈シアオミンが靴下を洗濯シテ、汚い状態にナラセタ〉という事態を述べていますが、これに日本語訳を充てようとすると、適切な単文による表現が見つかりません。苦し紛れに「シアオミンが靴下を洗い汚した」と訳すと、きっと多くの日本語話者から「『洗い清める』とは言っても『洗い汚す』とは言わない」という反応が返ってくるでしょう。日本語では「靴下をきれいに洗った」とか「髪を短く切った」のように、動作がもたらす結果的状況を連用修飾語として表現することが可能ですが、だからと言って「シアオミンが靴下を汚く洗った」と言えるかというと、これもまた不自然です。つまるところ、(5)の日本語訳としては「シアオミンが靴下を洗って、汚してしまった」とか「シアオミンが靴下を洗ったけれど、汚れてしまった」のように、複数の述語を用いて複文のかたちに開いてしまうしか手はありません。それに対して、中国語は、当該の使役的事態を(5)のように〈シテ・ナラセル〉構文という単文によって無理なく表現することができます。このように、〈シテ・ナラセル〉構文は、動作者の意図に即した使役的事態はもとより、動作者の意図に反する使役的事態の表現にも適応します。
それだけではありません。〈シテ・ナラセル〉構文は、動作者の意図とはまったく関係のない、予期せぬ使役的事態にも対応可能です。次の(6)の文を見て、みなさんはどのような事態を想像されるでしょうか?“裤子”は〈ズボン〉という意味の名詞で、“坐”は〈腰掛ける;座る〉という意味の動作動詞。“湿”は〈湿っている;濡れている〉という状態を表す形容詞です。
(6) 小明 把 裤子 坐湿 了。
シアオミン 前置詞 ズボン 腰掛ける‐濡れている 文末助詞
お一人お一人の回答を聴けないのが残念ですが、(6)は、シアオミンが腰掛けることで、履いていたズボンを濡らしてしまったという事態を表しています。椅子に水がこぼれているのに気づかず、うっかり座ってしまってズボンが濡れてしまったというような状況です。日常的に十分起こり得る事態です。これまでに挙げた例文のVは他動詞でしたが、(6)のVの“坐”は〈腰掛ける〉という意味の自動詞です。〈腰掛ける〉という動作それ自体はズボンを対象にして働き掛ける動作ではありません。ましてや、ズボンをなんらかの状態にナラセルことを意図する動作でもありません。しかし、現実に、腰掛けるという動作が、ズボンを濡れた状態にナラセタわけですから、その意味において(6)の表すところは歴とした使役的事態です。〈シテ・ナラセル〉構文はこのような予期せぬ使役的事態、つまり動作の意図とはまったく無関係の、不測の使役的事態をも問題なく表すことができます。
先の(5)と同様、この(6)についても単文による適切な日本語訳は見当たりません。「シアオミンがズボンを座り濡らした」も「シアオミンがズボンをぐっしょり座った」もどちらも明らかに不自然です。日本語では、〈Xが何らかの動作・行為をシテ、Yを何らかの状態にナラセル〉という事態を単文で表現する場合、〈被使役者〉のYには格助詞の「を」をくっつけて「ズボンを」と言わなければなりません。そして、「ズボンを」と言った以上は、それを受ける止める動詞は自動詞ではなく、他動詞でなければなりません。となると、「ズボンを座り~」も「ズボンを座った」も当然不自然になります。
このように日本語には、語の文法的なかたちや語と語の組み合わせのかたちに関わる何かとうるさい、いえ、あれこれ細やかな決まり事があります。その点、孤立語である中国語は、語の文法的なかたちについての拘りというものが概して希薄で、語と語の組み合わせについても、日本語のような、形式に関わるリジッドな縛りがありません。「意味本位主義」とでも申しましょうか、現実世界において、Vの表す動作とRの表す状況の間に因果関係が成立し得るという認識が成り立ちさえすれば、どのようなVとRが並んでも容認され、〈シテ・ナラセル〉構文は成立します。結果、(6)のような文も自然な表現として理解されるというわけです。
◆ 語順がモノを言う
最後に一つ忘れてはならないことがあります。それは語順です。〔 X 把 Y VR 〕という構造が語形変化も接辞も用いずに〈シテ・ナラセル〉構文として成立し得るのは、ひとえに語順の力です。中国語は語の文法的なかたちには拘りませんが、語順にはうるさい言語です。VとRの順序をひっくり返して“小明 把 裤子 湿坐 了。”としたり、“把”とYを前に持ち出して“把 裤子 小明 坐湿 了。”としたり、“把”とYの順序を入れ替えて“小明 裤子 把 坐湿 了。”としてしまうと、忽ち〈シテ・ナラセル〉構文は不成立となり、意味をなさない不自然な表現になってしまいます。孤立語である中国語にあっては、語順は鉄則です。並列型2音節語では声調がモノを言いましたが、文においては語順がモノを言います。中国語とはそういう言語です。
中国語には〈シテ・ナラセル〉構文のほかにもいくつかのタイプの使役文があり、さらには受け身文、現象文(第3回参照)、授受構文、加害文などなどさまざまな構文があります。いずれもみな語順という文法装置を最大限に活用し、時にはせいぜい一個の前置詞を用い、名詞や動詞や形容詞といった実質的な意味をもつ語をいろいろな語順で並べ合わせるというかたちで構成されています。まさに孤立語ならではの苦心の産物です。それら一つ一つの構文について説明をし始めると、またまた話が長くなってしまいます。このあたりにしておきましょう。
以上、孤立語における構文のあり方の一端を、使役文の構造を通してお話しさせていただいたということで、5回にわたる連載を打ち止めと致します。
長らくのご清読、ありがとうございました。
【参考文献】
木村英樹2017.『中国語はじめの一歩〔新版〕』筑摩書房.
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- 2021年01月19日 『中国語再訪問特設サイト 4.並列型2音節語の構成原理 木村英樹(東京大学名誉教授) 』
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4.並列型2音節語の構成原理
◆なぜ“善悪”? なぜ“衣服”?
現代中国語の2音節語には古い時代に作られたものが数多くあります。近年に創出されたものもありますが、中古期(後漢~南北朝)以前に作られ、現在も同じ意味で使われているといったものが少なくありません。とりわけ今回取り上げる並列型の2音節語は、大多数が中古以来用いられているものです。前回の終わりに挙げた“善悪”“真伪[偽]”“明暗”“衣服”“美丽[麗]”なども中古期のテキストにしばしば登場します。
さて、そこで、前回から懸案になっている語構成上の順序に関する問題ですが、どうして“悪善”ではなくて“善悪”なのでしょうか。対義的な形態素や類義的な形態素が並列の関係で結びつくというかたちですから、語構成の可能性としては“悪”が前で“善”が後という“悪善”のかたちもあり得るはずです。“真伪”や“衣服”についても同じことが言えます。が、2000年このかた一貫して“善悪”“真伪”“明暗”“衣服”“美丽”です。日本語の二字漢語もこれに倣っています。
“善悪”“真伪”“明暗”のような例を見る限りは、普遍的な人間の価値観として、あるいは一般的な社会通念として「佳し」とされる状況、「好ましい」状況、あるいは「ポジティヴ」な状況を意味する形態素すなわち漢字が前に置かれ、逆の状況を意味する漢字が後に置かれているというような説明が成り立ちそうにも思われます。しかし、このような説明は決して万能ではありません。なぜなら、“祸[禍]福”“损[損]益”“虚实[実]”“毁誉”“阴[陰]阳[陽]”のような例もあるからです。つまり、“善悪”とは逆に、「佳し」とはされない状況や「ネガティヴ」な状況を意味する漢字が前に置かれ、「佳し」とされる状況や「ポジティヴ」な状況を意味する漢字が後に置かれるというかたちの2音節語もあるのです。さらには“衣服”や“山水”“风[風]雨”“问[問]答”のように、前後の要素を事の佳し悪しでは割り切れないタイプの2音節語もあります。
“善悪”、“祸福”、“衣服”、これらすべてのタイプについて、並列型の前後の要素の配列を律する包括的なルールというようなものが果たしてあるのでしょうか。
あります。一つの例外もなく網羅的に、とまではいきませんが、一部の例外を含みつつも、並列型2音節語のほぼ全般にわたって広く機能していると見られる法則があります。声調言語である中国語ならではの法則です。どのような法則かを説明する前に、多くの並列型2音節語が創出された中古期の音節の声調について簡単に説明しておきたいと思います。
◆中古中国語の声調
第2回でお話ししましたように、現代中国語の音節には「第1声」から「第4声」までの4種類の声調があります。中古音と呼ばれる中古中国語の音節にも大きく分けて「平声(へいせい)」「上声(じょうせい)」「去声(きょせい)」「入声(にゅうせい)」という4種類の声調がありました。高校の漢詩の授業で「平仄(ひょうそく)」という言葉が出てきたのを思い出していただきたいのですが、「平」とは平声を指し、「仄」とは「仄声」すなわち上声・去声・入声の三つを束ねて指します。
これら4つの声調のうち、平声で発音される音節については、例えば[pan]のように「無声音」(声帯の振動を伴わない音)で始まるものと、[ban]のように「有声音」(声帯の振動を伴う音)で始まるものとで、発声の発端に相対的な高さの違いがあったことから、平声はさらに二つの下位類に分かれ、発端高度が相対的に高めの平声は「陰平」、発端高度が相対的に低めの平声は「陽平」と呼び分けられます。ゴルフの「パター」とパンに塗る「バター」を、「パター」「バター」「パター」「バター」と交互に数回発音してみてください。無声音の[p]で始まる「パター」は、有声音の[b]で始まる「バター」よりも発声の発端が高いことに気づかれるはずです。中古音の平声にもこのような発端高度に差のある二つの種類があり、高めで始まる平声を陰平、低めで始まる平声を陽平と呼んで区別したということです。
中古期に中国北方で標準音として用いられたおよそ3600種の音節(第2回参照)はこの陰平、陽平、上声、去声、入声という5種類の声調のうちのいずれか一つの音調を伴って発音されました。つまり、当時の漢字はすべてこれら5種類のうちのいずれかの声調を伴って読まれていたということです。
その5種類の声調と現代中国語の4種類の声調のあいだには体系的な対応関係が成立しており、基本的に、中古音において陰平で読まれた漢字は現代中国語では第1声で読まれ、陽平で読まれた漢字は現代中国語では第2声で読まれ、上声で読まれた漢字は現代中国語では第3声で読まれ、去声で読まれた漢字は現代中国語では第4声で読まれます。入声については、歴史的な音韻変化によって現代中国語には引き継がれることなく消滅してしまい、中古音において入声で読まれた漢字は現代中国語では第1声から第4声のうちのどれかの類に分属してしまっています。例えば“服”や“益”という漢字は中古音ではどちらも入声で読まれましたが、現代中国語では“服”は第2声、“益”は第4声で発音されます。以上の対応関係を図で表すと、右上のようになります。
入声で読まれた漢字は、日本語の促音のような感じで短めに発音されていたらしく、音節の末尾が[-p] [-t] [-k]のいずれかの子音で終わるという特徴をもっていました。入声の音節末尾の特徴は日本語の漢字音にも伝わっており、漢字を音読みした際に「悪」「福」「服」「実」「密」「一」「八」「益」「席」のように末尾が「ク」「ツ」「チ」「キ」のいずれかで終わる漢字や「答(タフ>トウ)」「吸(キフ>キュウ)」のように旧仮名遣いでは「フ」と記される類いの「ウ」で終わる漢字は、概ね、中古音において入声で読まれた漢字です。
◆声調序列ヒエラルキー
さて、ここで本題に戻りますが、この中古音の5種類の声調の対立が、実は、並列型2音節語の前後要素の配列を決定する重要な要因となっています。ここからは丁邦新(1969)の研究成果に基づいての話になりますが、中古音の5種類の声調に着目しつつ並列型2音節語に用いられている前後の漢字を広く観察すると、一つの法則が浮かび上がってきます。それは、用いられる漢字の声調の種類によって、並列型2音節語の前の要素に用いられる優先度が異なるということです。具体的には、前の位置に置かれる優先度に関して、5種類の声調の間に「声調序列ヒエラルキー」とでも呼ぶべき次の図のような優先順位が存在するということです。
✑ 並列型2音節語における声調序列ヒエラルキー
陰平 > 陽平 > 上声 > 去声 > 入声
並列型2音節語を構成する前後二つの要素のうち前の要素を仮にXとし、後の要素をYとすると、上の図が意味するところは、不等号の左側の声調で読まれる漢字の方が右側の声調で読まれる漢字よりも、Xの位置に置かれる優先度が高いということです。つまり、声調の異なる二つの漢字が組み合わさった場合、陰平で読まれる漢字がXとなる優先度が最も高く、以下、陽平、上声、去声、入声の順に優先度が低くなっていくということ、言い換えれば、右にいくほどYの位置に置かれる優先度が高くなるということです。具体例を見てみましょう。これまでに挙げた並列型2音節語の例を列挙し、さらに数例を加え、それぞれの漢字の声調を( )で示します。
“阴(陰平)阳(陽平)”“真(陰平)伪(上)”“山(陰平)水(上)” “风(陰平)雨(上)”
“轻[軽](陰平)重(去)”“衣(陰平)服(入)” “虚(陰平)实(入)”
“雷(陽平)雨(上)”“明(陽平)暗(去)”“详[詳](陽平)密(入)”
“美(上)丽(去)” “毁(上)誉(去)” “雨(上)露(去)” “雨(上)雪(入)” “损(上)益(入)”
“善(去)悪(入)” “祸(去)福(入)” “问(去)答(入)” “气[気](去)魄(入)”
ご覧の通り、すべての例が上に示した声調序列ヒエラルキーに合致しています。陰平の漢字はXの位置に置かれる優先順位が最も高いため、他のどの声調の漢字との組み合わせにおいても前に置かれています。対照的に、入声の漢字はXの位置に置かれる優先順位が最も低いため、他のどの声調の漢字との組み合わせにおいても常にYの位置すなわち後ろに置かれています。
“雨”を含む語が4例(下線部)ありますが、陰平の“风”および陽平の“雷”との組み合わせでは“雨”はYの位置すなわち後ろに廻り、去声の“露”および入声の“雪”との組み合わせでは“雨”はXの位置すなわち前に出ています。この4語における“雨”の位置の違いを意味の面から説明しようとしても的確な答えは見つかりそうにありません。声調序列ヒエラルキーに則っていると考えれば納得がいきます。
“善(去)悪(入)”では好ましい状況を表す“善”が前に置かれ、逆に、“祸(去)福(入)”では好ましい状況を表す“福”が後ろに廻っていますが、これも意味の問題以前に声調序列ヒエラルキーの法則が優先的に働いていると考えれば、なるほどと頷けます。
丁氏は、声調の異なる2文字から構成される(異なり語数)3056個の並列型2音節語を対象に調査を行い、その90%にあたる2742語が当該の声調序列ヒエラルキーに合致することを明らかにしました。10%の例外を含みはするものの、90%という数字は並列型2音節語の特徴を示すものとして十分に有意な数字だと考えられます。
ちなみに、日本語でも二字漢語は「風雨」と言いますが、和語系の合成語になると「あめかぜ」となって「あめ」が前に出ます。日本語では、拍数(モーラ数)が同じ二つの形態素から構成される合成語は一般に、「あめ・かぜ」「あし・こし」「あたり・さわり」のように、母音で始まる形態素が前に置かれます。また、拍数が異なる場合は一般に、「て・あし」「め・はな」「うら・おもて」のように、拍数が少ない方の形態素が前に置かれます。このように日本語では、母音か子音かの違いや、拍数の多い少ないが語の構成を左右しますが、中国語では声調が語の構成を左右します。中国語はとかく声調が「モノをいう」言語だということです。
◆“借贷[貸]”“色彩”“免除”など
何事にも例外は付き物です。丁氏の指摘の通り、声調の異なる2文字から構成される並列型2音節語についても声調序列ヒエラルキーに合致しない例外が全体の約1割を占めます。例えば“借贷[貸]”“职[職]务[務]”“色彩”“免除”などがそれに該当します。日本語の二字漢語では「貸借」と言い、和語では「貸し借り」と言いますが、中国語ではなぜか順序が逆転して“借贷”となり、入声の“借”が去声の “贷” に先んじて前に置かれます。「職務」を意味する“职务”も同様に入声の“职”が前で、去声の“务”が後ろに廻っています。“色彩”についても入声の“色”が前に置かれ、上声の“彩”が後ろに廻っています。“免除”については上声の“免”が前で、陽平の“除”が後ろです。
例外が生まれるにはそれなりの理由があるはずですが、上に挙げた“借贷”などの例も含め、丁氏の指摘する約1割の例外について、それらすべてを包括して一つの理由で説明することはむずかしそうです。意味的な要因、歴史的な要因、外来語の影響などなど、語ごとにそれぞれの理由がありそうで、今後の研究が俟たれるところです。
◆“贵[貴]贱[賤]”“上下”“早晚”など
並列型2音節語について思いのほか長く話し込んでしまいました。最後に声調序列ヒエラルキーでは説明できないもう一つのタイプについて簡単に触れておきたいと思います。
並列型2音節語には“贵[貴]贱[賤]]”“上下”“亲[親]疏[疎]]”“早晚”のように、前の漢字も後ろの漢字も声調が同じというタイプのものも少なくありません。“贵”と“贱”はどちらも去声、“上”と“下”もどちらも去声、“亲”と“疏”はどちらも陰平、“早”と“晚”はどちらも上声です。前後2文字の声調が同じなのですから、声調序列ヒエラルキーはあてはまりません。このようなタイプについては、上の4例からも伺えるように、意味的な要因の与るところが大きく、多くの例において佳しとされる事柄やポジティヴな状況を意味する漢字が前の位置に置かれています。
とは言え、ここにも例外はあります。〈音声〉を意味する“声音”や〈山川〉あるいは〈国土〉を意味する“江山”がそれです。“声”も“音”も“江”も“山”もすべて陰平です。“声”と“音”、“江”と“山”のあいだに佳し悪しの対立はありません。では、なぜ“声”と“江”が前に立ち、“音”と“山”が後ろに廻るのか?納得のいく説明はこれまでのところ見つかっていません。何事にも課題は付き物です。
【参考文献】
丁邦新1969.《國語中雙音節並列語兩成份間的聲調關係》,《歷史語言研究所集刊》39(慶祝
李方桂先生六十五歲論文集)(下冊),155-174頁。
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- 2021年01月05日 『中国語再訪問特設サイト 3. 2音節語の構造 木村英樹(東京大学名誉教授) 』
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3. 2音節語の構造
◆二つで十分 ―― 2音節語の持続可能性
今回は2音節語について話したいと思います。現代中国語は、語の圧倒的多数が複音節であるという点では日本語や英語と同じだと言えます。ただし、この連載の第1回でも紹介しましたように、中国語の複音節語の実態は、複合語や派生語を除けば、そのほとんどが2音節語であり、その点が日本語や英語とは異なっています。上古中国語では“衣”や“目”のように単音節語で表されたものが、いまでは“衣服”や“眼睛”のように2音節語で表されるといった具合に、現代中国語の大多数の常用語は2音節すなわち二文字で表されます。
語の識別性ということだけで言えば、3音節、さらには4音節と、音節数が多くなればなるほど識別性は高くなりますが、その分、語の習得や記憶さらには運用に要する労力が大きくなり、言語の経済性が低下します。中国語はそもそも形態素のレベルにおいては単音節言語――すなわち1音節だけで有意味な形態素を表す言語――ですから、その有意味な形態素が二つも並べば言わんとするところは十分に伝わり、他の語との音韻的な識別性も過不足なく保障されるというわけです。識別性と経済性の折り合いどころ、それが2音節語ということです。
中国語の“名字”という名詞は一般に「姓名」のうちの「名」を意味し、“我 姓 周,名字 叫 恩来”(私は姓を「周」と名乗り、名は「恩来」といいます)のように用いられます。高校生の頃、世界史や漢文の教科書に登場する中国人の「名」が、“李白”の“白”や“孫文”の“文”のようにたったの一文字か、“陶淵明”の“淵明”や“林則徐”の“則徐”のように長くても二文字でしかないことを不思議に思ったものです。以来今日まで、留学生や友人・知人など何百人もの中国人と接してきましたが、「名」が3文字以上という中国人にはただの一度も出会ったことがありません。「龍之介」や「美津代」のような3文字以上の「名」をもつ中国人を私は知りません。「名」は個人の言わば「顔」です。他者と識別されることが大切であることは言うまでもありません。しかし、だからと言って意味をもつ漢字が3文字も4文字も並んだのでは却って記憶の負担となり、覚えてもらいにくくなります。それでは本末転倒です。識別性が確保され、なおかつ人の記憶に負担を掛けない「名」としては、長くて二文字すなわち2音節が妥当ということなのでしょう。
上古期の後半から現在まで二千数百年に亘って、語は一貫して基本的に2音節。こんな言語は世界でもめずらしいと思います。単音節言語、すなわち1単音節=1形態素という言語ならではの「2音節語の持続可能性」とでも言いましょうか。
◆2音節語の類型――“日没”と“降雨”
日本語には「日昇」や「日没」のように、文の構造に準(なぞら)えて言えば、前の要素(「日」)が主語で、後の要素(「昇」「没」)が述語という、そのような統語関係に類同するかたちで構成される二字漢語があります。現代中国語にも同じタイプの2音節語があります。“日出”“日没”“地震”“头[頭]痛”などがそれです。このタイプの2音節語をここでは仮に【主述型】の2音節語と呼んでおきましょう。なお、“头”という字は“頭”の「簡体字」です。簡体字とは現在中国で用いられている簡略字体のことです。以下、現代中国語の表記には原則として簡体字を用い、参考までに旧字体を[ ]で添えることにします。
日本語の二字漢語にはまた「結婚」や「帰国」のように、句(フレーズ)の構造に準(なぞら)えて言えば、前の要素(「結」「帰」)が動詞で、後の要素(「婚」「国」)が目的語という統語関係に類同するかたちのものもあります。中国語にも同様に“结[結]婚”(結婚)や“回国”(帰国)のような【動目型】の2音節語があります。「中国語にも同様にあります」というよりも、より正確には、中国語にあったものを日本語が借用した、あるいは日本語が中国語の型を真似たというべきでしょう。中国語は英語と同じSVO型の言語ですが、日本語はSOV型の言語です。日本語の「婚(姻関係)を結ぶ」という動詞句の構造に準えて二字漢語を作るなら、OVの順に並んで「婚結」となるはずです。現に、「人を選ぶ」という意味の二字漢語は「人選」です。日本語の二字漢語には中国語由来のものと純国産のもの、すなわち和製漢語なるものがあります。「結婚」や「帰国」は前者、つまり中国語の【動目型】の“结婚”や“回国”に倣った二字漢語であり、「人選」の方は後者、つまり日本語本来の語順に準じた和製漢語だということです。ついでながら、「券売機」の「券売」や「盲導犬」の「盲導」という表現も日本語本来の「券を売る」や「盲(人)を導く」の語順に倣った和製漢語です。
日本語本来の語順に沿わず、中国語の語順に倣った二字漢語ということで言えば、「降雨」「開花」「発汗」などもそれに該当します。日本語では「雨が降る」と言いますから、その語順に倣うなら二字漢語は「雨降」となっていいはずで、現に和語では「雨降り」と言います。ところが、二字漢語になると順序が逆転して「降雨」となります。これも中国語の“降雨”“开[開]花”“出汗”といった類の2音節語に倣ったものと考えられます。
中国語では古くから、もとは存在しなかったものが自然発生的にこの世に出現するといった事態――例えば、〈雨が降る〉〈花が咲く〉〈汗が出る〉のような事態――を文のかたちで表現する場合、(1)(2)(3)の例のように、出現物を意味する名詞――つまり〈雨〉〈花〉〈汗〉を意味する名詞――は主語の位置には置かずに、動詞の後ろに置きます。
(1)昨天 下 雨 了。(きのう雨が降った)
きのう 降る 雨 文末助詞 ※
(2)开 花 了。(花が咲いた)
開く 花 文末助詞
(3)背上 出 汗 了。(背中に汗をかいた)
背中 出る 汗 文末助詞
※ 文末助詞の“了”は変化が実現したことを表す。
中国語では、存在することが予め認識されている既知の人物や事物の運動・変化あるいは状態といった類いの事態を表現する場合は、“李老师[師] 摔倒 了。”(李先生が転んだ)や“太阳[陽] 出来 了。”(日が昇った)のように、当の人物や事物を主語の位置に置きます。ところが、〈雨が降る〉〈花が咲く〉〈汗が出る〉といった事態は〈日が昇る〉や〈李先生が転ぶ〉とは異なるタイプの事態だと認識されるため、“雨”や“花”や“汗”は主語の位置には置かれません。〈日が昇る〉と〈雨が降る〉ではいったいなにがどう違うのでしょうか。
太陽は、昇ろうが沈もうが、この世に存在することがすでに認識されている既知の事物です。昇っているときは見え、沈んでしまうと見えなくはなりますが、太陽そのものはちゃんと存在しています。そして、翌朝になったらまた姿を現します。〈日が昇る〉とか〈日が沈む〉という事態は、要するに、すでに存在が認識されている既知の事物の運動であって、その意味では〈李先生が入って来る〉とか〈李先生が出て行く〉というのと同類の事態です。少なくとも中国語の話し手は古来そのように認識しています。
ところが、雨は降ってこその雨であって、降り始める前にはこの世に存在せず、降り止めば消滅してしまいます。〈雨が降る〉という事態は、もともと空のどこかに溜まっていた雨が――つまり、もともと存在していた雨が――地上に移動してくるというような、そのような類いの事態ではありません。いま降るこの雨は、これまでに降ったどの雨とも、またこれから降るであろうどの雨とも同じものではありません。いま降る雨と私たちはまさに一期一会の出会いであって、降り止んでしまえば、もうこれっきり、いま降るこの雨とは二度と出会うことはありません。〈雨〉というものは、〈降る〉たびごとにこの世にはじめて出現するものであって、予めこの世のどこかに存在するものではありません。〈花〉もまた然り。花は咲いてこその花であって、咲く前は花ではなく〈つぼみ〉です。枯れてしまえば花はこの世から消えてしまいます。〈汗〉もまた同様です。汗は、体の外に出てこその汗であって、出ないうちは〈汗〉とは認識されません。体内にあるうちは体液であって「汗」とは言いません。〈花〉も〈汗〉も〈雨〉と同様、〈開く〉あるいは〈出る〉という現象を通してその時はじめてこの世に出現するものなのです。
このように、自然発生的になんらかの事物が新たにこの世に出現する、あるいは出現したと捉えられる事態は、中国語では「現象文」と呼ばれる上の3例のようなかたちの構文で表現されます。その現象文の語順に準えて構成された2音節語が“降雨”“开花”“出汗”です。ここでは仮に【出現型】の2音節語と呼んでおきます。
“降雨”や“日出”という2音節語は歴史が古く、後漢や南北朝の時代の文献、すなわち中古中国語の文献にはすでに少なからず用いられています。当時の中国語の話し手たちには、おなじ自然現象であっても〈日が昇る〉ことと〈雨が降る〉ことは異なる種類の事態だという認識がすでにあったということです。そして、そうした事態認識は現代の中国語の話し手にも受け継がれているわけです。
以上、【主述型】【動目型】【出現型】という三つのタイプの2音節語を紹介しましたが、ほかにも【修飾型】や【並列型】などいくつかのタイプがあります。【修飾型】とは前の要素が後の要素を修飾するという統語関係に類同するもので、例えば“美女”や“大国”のようなタイプです。【並列型】とは“善悪”“真伪[偽]”“明暗”“衣服”“美丽[麗]”のように、対義的もしくは類義的な2つの形態素が並列の関係で組み合わさっているタイプです。この【並列型】のタイプについては、そもそもなぜ“悪善”や“暗明”や“丽美”ではなくて“善悪”“明暗”“美丽”なのかといった問題と絡んで、声調言語ならではの特徴が反映されており、たいへん興味深いタイプなのですが、それについては回を改めることにして、今回はここまでとします。
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- 2020年12月14日 『中国語再訪問特設サイト 2.音節、声調および複音節語化について 東京大学名誉教授 木村英樹』
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2.音節、声調および複音節語化について
◆マー、マー、マー、マー
いきなり発音指導のようで恐縮ですが、中国語では、同じ[ma]という音節でも、高く平らに伸ばして「マー」と発音すると〈母〉という意味の形態素{妈}を表し、下から上へグイっと引き上げる感じで上昇調に「マー」と発音すると〈ひりひりと辛い〉という意味の形態素{麻}を表し、低く平らに伸ばして「マー」と発音すると〈ウマ〉という意味の形態素{马}を表し、上から下へ叩きつけるような感じで――譬えて言えば、カラスが「カァー!」と鳴くような感じで――下降調に「マー」と発音すると〈罵る〉という意味の形態素{骂}を表します。
このように、一つ一つの音節がつねに特定の音調(トーン)を伴って発音され、その音調の違いが形態素の弁別に働く――つまりことばの意味の区別に働く――という、そのような音節単位の音調を「声調」といいます。そして、そのような声調を体系的に有するタイプの言語を「声調言語」といいます。中国語はベトナム語やタイ語と同様に声調言語です。
現代中国語では上に紹介したような高平ら、上昇調、低平ら、下降調という4種類の声調(いわゆる「四声(しせい)」)が用いられ、左から順に「第1声」「第2声」「第3声」「第4声」と呼び分けられます。[ma]は[ma]でも高平ら(つまり第1声)の[ma]と上昇調(つまり第2声)の [ma]では「異なる形態素」を表しますから、それぞれ「異なる音節」としてカウントされます。勢い、中国語の音節の総数はそれなりに多くなり、全部で1200種類ほどになります。日本語の音節総数は、五十音図に挙げられている50種類のほかに、「だ」のような濁音や「みゃ」のような拗音などが加わってざっと110種類ほどですから、中国語の音節総数は日本語のおよそ10倍という数になります。
1200種類もの音節を習得し、記憶しなければならないなんて、中国語はなんと手間の掛かる言語なんだろうと思われるかもしれませんが、ご安心ください。1200という数字は声調の違いを数え込んでのものです。声調による区別は考慮せずに母音と子音の組み合わせだけを対象に数えると――つまり、声調の異なる第1声から第4声までの[ma]を「4つの[ma]」とカウントせずに、[ma] は[ma]で一つとカウントすると――、その総数はざっと400種です。日本語の50音図のようなかたちで中国語の音節の一覧表を示すと、さしずめ400音図なるものができるということです。実際、中国語の初級テキストにはかならずそのような音節表が載せてあります。
400!それでも日本語の4倍じゃないか!という声が聞こえてきそうですが、再度ご安心ください(なんだかTVショッピングのナビゲーターみたいですが)。前回もお話ししたように、中国語では実際の発話に用いられる常用語の圧倒的多数は2音節語です。つまり大多数の語(単語)は音節が二つ並ぶだけのかたちで構成されているのです。日本語の場合は、音節そのものの構造は単純であり、しかも全部で110種類ほどにすぎませんが、なにぶんにも日本語は多音節言語ですから、「つ・か・ま・え・る」や「わ・ず・ら・わ・し・い」のように、音節を五つも六つも連ねないと1語にならないという、そんな常用語がゴマンとあります。要するに、音節の習得や運用に手間を掛ける分、語の習得や運用では楽をするか、それとも、音節の習得や運用で楽をする分、語の習得や運用に手間を掛けるかの違いであって、費やすエネルギーのトータルにそれほどの差はないということです。
◆語の長さと音節総数の相関関係
前回もお話ししましたように、中国語の単語、すなわち語は、時代が下るにつれて複音節語化の方向に進み、上古中国語では単音節語が大多数を占めたのに対して、現代中国語では複音節語が圧倒的多数を占めています。逆に、音節の総数は、時代が下るにつれて減少の方向に進んできました。時系列を逆に遡って言うと、現代よりも近代の方が、近代よりも中古の方が、そして中古よりも上古の方が音節の総数は多くなります。
詳しい説明は省きますが、中古中国語の音韻の状況を記した歴史的な音韻書の記述から、当時の――より正確には、南北朝末から隋の初めにかけての――中国北方の標準音(いわゆる「中古音」)では約3600種の音節が用いられていたことが明らかにされています。上古中国語については、中古音のように現在に伝わる音韻書の類が存在しないため、あくまでも推測の域を出ないのですが、信頼に足る上古音の研究者の推定によれば、おそらく5000種ほどの音節が用いられていたようです。
現代中国語の音節総数が約1200ですから、5000といえば、その4倍強です。上古中国語にはどうしてそんなに多くの音節が用いられたのでしょうか?答えはズバリ、「単音節語が多かった」からです。現在のタイ語やベトナム語の例からも分かるように、単音節語を数多くもつ言語は一般に音節の種類も豊富です。なぜなら、単音節語が多数ありながら、それを表す音節の種類が少ないとなると、いわゆる同音異義語がやたらと多くなってしまうからです。
仮に、上古中国語の常用語に11,000個の単音節語があったとしましょう。そして、音節総数は、これも仮に、日本語と同じ110種だったとします。つまり11,000個の語のそれぞれが、110種類ある音節のうちのどれか一つで発音されるということです。音節の側から言えば、たとえ均等に分担しあったとしても、各音節それぞれが100語の音を請け負うという勘定になります。つまり同じ発音の語が100個も生まれるということです。同音異義語が100個もあったのでは堪ったものではありません。間違いなくコミュニケーションに大きな支障をきたします。
敢えて極端な仮定の話をしましたが、単音節語が多ければ、それに見合うだけの相当数の音節が用意されていないと同音異義語が増えてしまい、語の識別を妨げてしまうことになるという事情はご理解いただけたものと思います。
現代中国語をはるかに上回って多くの単音節語を抱えていた上古中国語では、それぞれの語の識別性を確保するために――つまりは、同音異義語の増加を抑えるために――、現代中国語をはるかに上回って多くの種類の音節が必要だったということです。
◆語彙の増加と単音節語の限界
そんな上古中国語にもやがて転機が訪れます。上古期も後半の春秋時代(前770~前403)に入ると多くの都市国家が成立し、生産力は高まり、物資も豊かになれば、社会の構造や人間関係も複雑になり、精神文化も大きく発展します。新しい事物や概念が続々と生み出され、それまでにはなかった新しい語彙が次々と創出されます。となると、もはや手持ちの音節では対応しきれなくなります。新しい語彙が創出されるたびに既存の音節を用いた単音節語で表現していたのでは同音異義語が増えるばかりです。さてどうしたものか。手詰まりになったことばの使い手たちは次第に単音節語から複音節語へと舵を切り替えます。
またもや仮定の話になりますが、音節がわずかに3種で、語の総数もわずかに9個という、そんな言語を使っている村があるとしましょう。音節は[ka][sou][tan]の3つです。9個の語はそれぞれ〈男〉〈女〉〈こども〉〈食べる〉〈寝る〉〈行く〉〈大きい〉〈明るい〉〈ない〉という意味を表します。この村には厳しい掟があり、語はすべて単音節語でなければならないと定められおり、〈男〉と〈こども〉と〈大きい〉という意味を表す語はどれも[ka]と発音され、〈女〉と〈行く〉と〈ない〉という意味を表す語はどれも[sou]と発音され、〈食べる〉と〈寝る〉と〈明るい〉という意味を表す語はどれも[tan]と発音されます。つまり、同音異義語が3組あるということです。村人たちはその不便さに耐え兼ね、村長に直訴した結果、音節は現行の3種のままという条件で、2音節語を使ってもよいという許しを得ます。村人たちは早速協議を行い、〈男〉は[ka ka]、〈こども〉は[ka sou]、〈大きい〉は[ka tan]、〈女〉は[sou ka]、〈行く〉は[sou sou]、〈ない〉は[sou tan]、〈食べる〉は[tan ka]、〈寝る〉は[tan sou]、〈明るい〉は[tan tan]とする、ということで意見がまとまりました。以後、村人たちは同音異義語に悩むことなく、幸せに暮らしたということです。
極端にも程がある!と叱られそうなくらい極端で荒唐無稽な例を持ち出しましたが、語が複音節化することによって他の語との識別性が一気に高くなるという理屈はお分かりいただけたかと思います。
語の複音節化という方略によって単音節語の限界を乗り切った上古後期の中国語は、その後も、更なる語彙の増加に伴い、中古から近代、近代から現代へと複音節語優勢の道をたどることになります。
次回は現代中国語の2音節語の構造について話す予定です。
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- 2020年12月01日 『中国語再訪問特設サイト 1.中国語における単音節性の変遷 東京大学名誉教授 木村英樹』
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1.中国語における単音節性の変遷
中国語は、「母語として用いられている言語」ということで言えば、世界の言語のなかでも群を抜いて使用人口の多い言語です。その中国語を類型論的に特徴づけるものとしてしばしば言及されるのが、1)単音節言語であること、2)声調言語であること、3)孤立語であること、という三大パラメータです。今回の連載では新たな知見や指摘を交えながら、この三つのパラメータにまつわる中国語ならではの現象をいくつか取り上げ、中国語の特質の一端を明らかにしたいと思います。第1回の今日は単音節性に関わる問題を取り上げます。
◆単音節性および「形・音・義」について
意味をもつ最小の言語単位を「形態素」といいますが、当該言語において形態素のすべてが、あるいはそのほとんどが1音節で表現されるという、そのようなタイプの言語を単音節言語といいます。中国語は、3000年も昔に遡って「上古中国語」あるいは「上古漢語」と呼ばれる時代から現代の中国語に至るまで一貫して単音節言語です。中国語の形態素は今も昔も基本的にすべて1音節で発せられます。
多音節言語である日本語の音節には、それ自身単独ではなんの意味も表すことができず、形態素の一部分としてだけ用いられるという類いの音節もあります。例えば、「べ」や「ひゃ」がそれです。現代の日本語において「べ」や「ひゃ」という音節はそれ自身何の意味も表しません。中国語にはそのような、何の意味とも結びつかない音節というものはただの一つもありません。中国語で用いられる音節は、一つ一つの音節がすべて例外なく何らかの形態素に対応しています。つまり、どの音節も必ず少なくとも一つの意味を担っているということです。一つの音節が複数の形態素と対応しているという、いわゆる同音異義形態素というものも多数ありますが、ともかく、一つの音節が少なくとも一つの形態素と対応しているということです。
しかし、それだけのことならタイ語やビルマ語のような他の単音節言語とそれほど大きな差はありません。中国語が世界の単音節言語のなかで異彩を放っているのは、一つの音節で発せられる一つの形態素がすべて一つの文字で書き表されるということです。タイ語やビルマ語では一つの形態素が複数の表音文字を連ねて書き表されますが、中国語の形態素はただ一つの文字で表記されます。ただ一つの文字とはほかならぬ「漢字」です。中国語では〈8〉という数を意味する形態素は[pa]という1音節で発音され、“八”という一文字で書かれます。日本語の漢字音では「八」は「は(ha)・ち(tʃi)]と2音節で読まれますが、中国語では漢字はすべて1音節で読まれます。当然ですよね。漢字とはそもそも一つの音節で発せられる一つの形態素にあてられた文字なのですから。
漢字の特質が論じられる文脈で「形音義」という表現がしばしば用いられます。視覚に訴える文字という形が特定の言語音に対応し、併せて意義すなわち意味をも表すという、漢字がもつ記号として三つの機能を言い表したものですが、なによりも特筆すべきは、中国語においては、そのビジュアルな形としての一文字が、一つの音節で発音され、一つの形態素の意味を担うということ、すなわち、「形・音・義」が1対1対1の関係で対応しているということです。この点において、中国語は、7000種あまりあるとされる世界の言語のなかにあって他に類を見ない特異な言語だと言えます。
◆古代の“月”と現代の“月”
中国語は、このように、形態素に関して言えば古来3000年の長きにわたって単音節的な言語ですが、「単語」すなわち「語」のレベルの話になると、事情はすこし、いえ、かなり違ってきます。「語」とは、主語や述語や目的語や修飾語や被修飾語、さらには前置詞や助詞といったような、文(sentence)や句(phrase)の直接の構成素になり得る資格をもつ形式を指します。
上古中国語では形態素の大半がそのままのかたちで語として用いられました。例えば、〈月〉を意味し“月”と書かれる形態素は、上古中国語ではそのままのかたちで語として用いられました。前漢の時代(紀元前206年-8年)に書かれた『法言』という儒学書に“月 有 明。”(月には明かりがある)という一節がありますが、ここでは“月”、“有”、“明”という形態素がいずれもそのまま語として用いられ、それぞれ主語、述語動詞、目的語として機能しています。このように形態素の大多数がそのまま単独で語として機能した上古中国語にあっては、語もまた大多数が単音節だったということです。上古中国語は、形態素のみならず、語のレベルにおいても単音節言語だったわけです。1音節が形態素に対応し、同時に語としても機能する。漢字について言えば、一文字が形態素を表すと同時に語も表す。漢字が単なる表意文字ではなく、「表語文字」(河野1977)と呼ばれる所以はここにあります。
ところが、現代中国語(「現代漢語」とも呼ばれます)では、漢字は必ずしも表語文字とは呼べません。なぜなら、現代中国語では多くの形態素が単独では語としての資格をもたず、1形態素=1語の関係が成り立たなくなっているからです。現代中国語では大多数の語が複数の形態素の結合によって形成されています。現代中国語では“月”や“明”は〈月〉や〈明かり〉という意味をもつ形態素ではありますが、そのままのかたちでは語として用いることはできず、従って、単独で文のなかに取り込んで主語や目的語として用いることはできません。語としての〈月〉は“月亮”、語としての〈明かり〉は“光明”と表現され、さきほどの『法言』の一節も現代中国語で言えば“月亮 有 光明。”となります。上古中国語ではほとんどの語が1形態素すなわち1音節で表現されましたが、現代中国語では大多数の語が複数の形態素すなわち複音節で表現されるということです。
◆単音節語から複音節語へ
出土文献や伝世文献を通して知ることのできる三千数百年の中国語の歴史は一般に、上古中国語(殷代~前漢)、中古中国語(後漢~南北朝)、近代中国語(唐~清)、現代中国語(民国初期~現在)と、大きく4つの時代に区分されます。語の音節数について言えば、上古の前期では単音節語が語の大多数を占めていましたが、上古の後期あたりから語の複音節化が進み出し、中古、近代、現代と時代が下るにつれて二音節語を中心とする複音節語が増加の一途をたどります。
いま私の手元には現代中国語の“常用詞”(常用単語)なるものを収録した『現代漢語常用詞表』という単語集があります。中国の「国家語言文字工作委員会」によって編纂され、2008年に刊行されたものです。そこには56,008語が収録されており、その内訳は、単音節語が3,181語、2音節語が40351語、3音節以上の語が12,476語となっています。ただし、3音節以上の語として挙げられているもののなかには、“表面化”(表面化)や“机械化”(機械化)のような派生語、“社会主义”(社会主義)のような2語からなる複合語、“入乡随俗”(郷に入っては郷に従え)のようないわゆる四字成語、さらには“巴基斯坦”(パキスタン)のような外来語の類いが数多く含まれており、それらを除くと3音節以上の語の数はほぼ半減します。ともあれ、当面の問題として注目すべきは、単音節語がわずかに3,181語に留まり、2音節語の1割にも満たないという事実です。単音節語が大半を占めた上古中国語の状況とはものの見事に逆転しています。
みなさんのなかには、漢文の授業で、「学んで時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや(“学而時習之、不亦説乎”)」と、一文字が1語を表した古典中国語に慣れ親しまれた方も多数いらっしゃるかとは思いますが、その世代の方々にとっては、単音節語すなわち一文字単語が常用単語全体の数パーセントにすぎないという現代中国語の数字はさぞや衝撃的であろうとお察しします。ですが、これが中国語の現実です。
中国語はいったいどうしてこうも変わり果てた(?)のでしょうか。中国語の単語はどうして複音節化の道を歩んだのでしょうか。そのあたりのことは、次回、声調の話も織り交ぜながらお話しようと思います。今回はこれにて。
【参考文献】
河野六郎1977.「文字の本質」『岩波講座日本語8 文字』岩波書店.
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- 2020年11月19日 『中国語再訪問特設サイト』
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声調はいつごろから起こったの?
外来語の語構成には強固な造語法がある?
中国人は敬語が苦手?
一字・一音・一義ってほんとう?
など中国語の不思議を解き明かす「中国語再訪問特設サイト」が12月から始まります。
投稿者は東京大学名誉教授の木村英樹氏。