autumn 秋の書評祭り(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2024年09月10日 『長屋尚典(東京大学大学院人文社会系研究科・准教授) 『中国語はじめの一歩』 (木村英樹著)』
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この度、教養検定会議さんの企画「autumn 秋の書評祭り」で書評を担当することになった長屋尚典です。ふだんは東京大学文学部・大学院人文社会系研究科というところで、言語学を教えたり研究したりしています。特に専門としているのはフィリピンやインドネシアの言語です。これらの言語がどういう仕組みを持ち、世界の言語のなかでどういう特徴を持っているかを研究しています。分析対象としている言語はタガログ語やラマホロット語といった個別言語なのですが、それらの言語を通して窺える人間の言語の特徴を捉えたいと思って研究しています。
このような私がなぜ「autumn 秋の書評祭り」を担当することになったかというと、私が note というオンラインプラットフォームに書いた「なんとなく言語 (学) に興味がある人のためのブックガイド」(https://note.com/norinagaya/n/ne7a082c18e0d) という記事がきっかけです。私は半分趣味として、このプラットフォームで言語学の研究や普及に役立ちそうな記事を書いています。その記事の1つが「なんとなく言語 (学) に興味がある人のためのブックガイド」です。
この記事は、その名の通り、言語や言語学になんとなく興味があるので何か読んでみたいけれど、何を読んだらいいか分からないという人向けのブックガイドです。まだまだこれから改訂していく予定のブックリストですが、4か月でのべ25,000人もの方に読んでいただきました。私もオープンキャンパスや研究室案内の際にこのリストを紹介しています。
この「なんとなく言語 (学) に興味がある人のためのブックガイド」という記事が教養検定会議さんの目にとまり、この度、それに基づく書評の企画を行うことになったわけです。12月までの4か月、月2回で8冊を取り上げる書評企画です。4か月間、よろしくお願いします。
執筆を担当するのは、私と新進気鋭の研究者・院生です。具体的なスケジュールとしては、9月24日は石川さくらさん (東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員DC1)、10月8日は吉田樹生さん (東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員DC1)、10月22日は鈴木唯さん (東京外国語大学・日本学術振興会特別研究員PD)、11月5日は野口大斗さん (東京医科歯科大学ほか非常勤講師)、11月19日は周杜海さん (東京大学大学院)、12月3日は林真衣さん (東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員DC1)、12月17日は松田俊介さん (東京大学言語学研究室・助教) です。
第1回の今回は私が思い出に残っている一冊を紹介したいと思います。それは木村英樹先生の『中国語はじめの一歩』です。この本はもともと1996年にちくま新書の1冊として出版されたものです。現在は新版が2017年にちくま学芸文庫として出版されており、書店で買うことができます。
私はこの本を高校生のときに、地元岡山県の丸善岡山シンフォニービル店でたまたま見つけて読みました (このあたりの事情については東京大学文学部教員によるエッセイ「私の選択」に書きました https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2024/2024_2.html)。中国語を勉強したことは全くなかったのですが、パラパラめくってみて面白そうだったので買って読んでみたのです。
著者は木村英樹先生です。木村先生は長らく東京大学で中国語ならびに中国語学の研究・教育に携わり、現在は東京大学名誉教授です。専門は中国語学、主として現代中国語の意味論と文法論で、多数の著書・論文を執筆なさっています。その論文は影響力が大きく、私のように中国語を専門としない言語学者が参照することも多いです。たとえば中国語のヴォイスに関連する一連の論考は私の授業でも課題論文としてしばしば指定します。
その名は日本にとどまらず、中国語研究の世界で広く知られており、実際、10年ほど前に台湾の中央研究院開催の学会に私が参加したとき、ランチで同席した台湾の中国語研究者に「木村英樹先生を知っていますか? 木村先生はかっこいいですね」と日本語でいきなり聞かれたことがあるぐらいです。
そんな木村先生の『中国語はじめの一歩』ですが、全体で7章からなっています (以下、内容の紹介は私が最初に読んだちくま新書ではなく、ちくま学芸文庫に基づいています)。中国語という言語の特徴をさまざまな角度から総合的に紹介する構成になっています。
第1章 プロローグ
第2章 世界のなかの中国語
第3章 中国語の音
第4章 中国語の文字
第5章 中国語の語彙
第6章 中国語の文法
第7章 中国語のパフォーマンス
全体のスタイルとしては中国語の特徴を解説する授業のような本で、ときどきQAタイムとして学生と教師の会話が挿入されます。各章の長さは10ページ程度の章から100ページを超える章までいろいろあります。各章は2〜3ページごとに項目に分かれており、内容のまとまりがわかりやすく、どこからでも読めるようになっています。項目のタイトルも秀逸で、項目の内容がすぐによくわかります。おそらくそれが木村先生の授業のスタイルなのでしょうね。
このような『中国語はじめの一歩』ですが、私はなぜこの本を「なんとなく言語 (学) に興味がある人のためのブックガイド」の1冊に加えたのでしょうか。私は中国語の専門家でもないどころか、そもそも中国語をろくに話せません。ブックガイドを参照するすべての人が中国語を勉強・研究しているわけでもありません。それにもかかわらず、なぜ推薦するのでしょう?
それはこの本が、中国語を勉強している人だけでなく、言語学になんとなく興味のある人にもおすすめできる本だと思っているからです。特に、大学生・大学院生を含む個別言語の研究者にこそ読んでもらいたいと思っています。以下では、その理由を3つ紹介します。
第1に、言語学でよく使われる概念が、中国語という個別言語の分析を通して理解できるところです。この本は中国語の入門書という体裁を取っており、実際そうなのですが、言語学の基本的な用語が中国語の実例を通してわかりやすく解説されています。
たとえば、テンスとアスペクトがその典型です。本書182ページにはテンスについてこう書かれています。「述べようとする動作や出来事が現在・過去・未来のいずれに属するかという時間的な区別を、述語の形態的なかたちや文法的な手段で表し分ける現象をテンス (時制) と言いますが、中国語はそういった意味でのテンスをもたない言語です」。とても明晰な定義と分析です。それでは中国語で動作や出来事が現在・過去・未来のいずれに属するかという情報は、どのように表現されるのでしょうか? 詳しくは本書を読んでみてください。
アスペクトについてはどうでしょう。この点についても本書は「現在・過去・未来のいずれの時点に関わらず、個々の動作が時間の流れに沿って推移していく種々の段階を表すための文法的なカテゴリーを、アスペクト (あるいは相) といいます」(本書185ページ) と明解です。このアスペクトに関わる中国語の形式についてどんなものがあるか、どのように使い分けられるのかについては、本書の記述を読んでみてください。
このように本書は中国語についての本でありながら、言語学の諸概念を勉強するのに適した入門書にもなっています。個別言語を学びながら、1つの言語について分析するにはどういう概念が必要なのかを学ぶことができます。実際、英文法で習ったテンス・アスペクトの違いがうまく理解できていなかった高校生時代の私も、この本を読んだらその違いが理解でき、うれしくなったのを覚えています。言語学になんとなく興味はあるけれど、何を読んだらいいかわからないという方にこの本はおすすめです。
第2の推薦理由は、本書が個別言語の記述の見本になっているところです。中国語という言語の記述・分析を通して、この言語はこう分析するのだ、この言語のおもしろいところはここだぞ、と教えてくれるようです。
たとえば、目次に注目してみましょう。本書は、第1章のプロローグのあと、第2章で「世界の中の中国語」というタイトルで、中国語が世界の言語のなかでどのような言語であるか、そして、どのような社会言語学的背景を持つのかを解説しています。その後に、第3章で音声・音韻の話、第4章で文字の話、第5章で語彙とカテゴリー化の話をしてから、第6章で文法の話、最後の第7章で「パフォーマンス」と題して語用論や意味論の話が展開されます。
私のような世界の少数言語を研究している言語学者はすぐに気づくのですが、この目次は近年の参照文法、英語でいうと reference grammar の構成そのままです。参照文法というのはある言語の文法体系を音声・音韻から定型表現・あいさつ表現まで総合的に分析したものです。フィールドワークによって言語研究を行っている研究者は、参照文法を書いて一人前と見なされます。私も博士論文はラマホロット語というインドネシアの言語の参照文法でした。
木村先生の『中国語はじめの一歩』はまさにこの参照文法の見本のような内容・構成になっています。特に、2000年以降、参照文法の執筆が言語学者の重要な仕事と再認識されており、ある種のテンプレートが確立しているのですが、1996年出版のこの本はそのテンプレート通りの構成をとっています。特に、第2章で中国語がどんなタイプの言語かを言語類型論の観点から俯瞰しているところや、第7章であいさつ表現などの定型表現を扱ったり、ポライトネスや空間参照枠の話を扱ったりしているところがいいですね。
気になる方は、たとえば、最近出版された Levinson による Yélî Dnye の参照文法 (Levinson, Stephen C. 2022. A Grammar of Yélî Dnye: The Papuan Language of Rossel Island. Berlin: De Gruyter. https://doi.org/10.1515/9783110733853.) をご覧ください。その目次と本書のそれを比較してみれば、本書の先進性に驚かされるはずです。
この点だけからもわかるように、本書はそのカバーする範囲と構成において優れた個別言語の記述です。実際に本書を読んでみても、記述の端々から個別言語に対する愛を感じます。これは個別言語の研究者としての感覚でしかないのですが、取り上げている中国語表現の一つひとつを木村先生が愛おしく感じているのが伝わってきます。こういう個別言語の研究を読むことは、同じ個別言語の研究者として本当に楽しいものです。
(それに関連して、本書が全体として中国語を学習する際の語学的実用性に配慮してあるところも本書の特色です。文法を緻密に体系化する一方で語学としての実用性を忘れず、発音にせよ、文法にせよ、言語の仕組みを学ぶことが結局は言語の習得の近道であることを示してくれています。私も東京外国語大学などで実際に語学を教えてきましたが、本書の言語学と語学のバランス感覚には脱帽するほかありません。)
本書を個別言語の研究者にも読んでもらいたいと思っている理由の最後は、言語研究においては人間言語の普遍性と個別言語の特殊性の両方に目を向けるべきだということを本書は教えてくれるからです。
たとえば、第2章では中国語の語順が言語類型論の観点から議論されています。中国語は英語のようにSVOという基本語順を持つ言語である一方、日本語のように修飾語・主要名詞の語順を持つ言語でもあります。このような語順を併せ持つ言語は世界では極めて稀なのですが、本書はその理由を文理解の容易さという通言語的な観点で説明する一方で、中国語のセンテンスが日本語のそれよりも短くシンプルな傾向になりがちであるという個別言語の特徴とも関連付けています。言語類型論的な見方と個別言語学的な見方とがうまく結びついています。
さらに、第7章「中国語のパフォーマンス」では、中国語の言語表現の具体的な使い方を日本語との比較で詳細に分析しながら、傍観者俯瞰型の中国語と当事者現場立脚型の日本語という2つの類型を提案します。その考え方を使いながら、空間表現などの言語現象を分析しています。その記述は、たとえば中国語で停留所や駅の名前に「人民大学前」はないが「人民大学」はあるという極めて個別的な例を分析する一方で、Levinson (上記の Yélî Dnye の参照文法の著者でもあります) が1990年代に提案した空間参照枠の類型論という人間言語の普遍性にも言及しています。このような人間言語の普遍性と個別言語の特殊性を自由に往来する発想の豊かさは個別言語の研究者が学ぶべきところでしょう。
このように、『中国語はじめの一歩』は中国語を勉強している人だけでなく、すべての個別言語に興味がある人やその研究をしている人におすすめの本です。中国語の言語表現の小さな特徴について読んでいるつもりが、人間の言語について何かがわかったような気分になります。言語一般の話だと思って読んでいたら、語学としての中国語の繊細な分析だと気づく時もあります。
私がタガログ語やラマホロット語という個別言語を記述・分析しながら、人間の言語とは何かを明らかにしたいなと思っていると冒頭に書きましたが、もしかすると、その思いは本書を読んだ高校生のときに始まっていたのかもしれません。
みなさんもぜひ読んでみてください。
次回は9月24日、石川さくらさんによる『言語の本質:ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美) の書評です。お楽しみに。
書誌情報
木村英樹 (2017) 『中国語はじめの一歩 (新版)』 東京: 筑摩書房. https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097644/
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- 2024年09月03日 『autumn 秋の書評祭り』
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赤道以南のアフリカ大陸に広く拡散していったバントゥ諸語の長きにわたるフィールドワークを12回にわたり豊富なお写真とともに紹介してくださった米田信子先生、ありがとうございました。民話「ウサギとカメレオン」、スワヒリ語との二重生活など話題も豊富でしたが、書き始めると言いたいことがどんどん出てくるとおっしゃる最終回でした。
さて9月から「autumn 秋の書評祭り」として12月までの4か月、月2回で8冊を取り上げる書評企画が始まります。長屋尚典先生が主に選ばれた一般に入手しやすい言語学関連の本を取り上げ、各冊1名の研究者・院生が書評を担当します。長屋先生は、昨年第20回日本学術振興会賞並びに日本学士院学術奨励賞を受賞された気鋭の言語学者で東京大学言語学研究室の准教授です。
書評担当者の一覧は以下の通りです。選書はその都度お知らせします。9月10日の第1回は長屋尚典先生、2回目からは次の方々が担当されます。
9月24日、石川さくらさん、10月8日、吉田樹生さん、10月22日、鈴木唯さん、11月5日、野口大斗さん、11月19日、周杜海さん、12月3日、林真衣さん、12月17日、松田俊介さん。
では8名の方々のそれぞれ思い出深い1冊の紹介の連載に、ぜひご期待ください。(ゆ)