はじめてのフィールドワーク~ネパール、中国、エチオピア、パプアニューギニア(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2025年11月04日 『1. はじめてのフィールドワーク~ネパール編 吉田樹生(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)』
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はじめに
私はネパールの中央部に位置するゴルカ郡バルパック村を主な調査地として、この村で話されるガレ語のフィールド調査を行なっている博士課程の学生である。現在、ガレ語の文法書を博士論文として執筆している。これまでに2度、調査のためにネパールに渡航し、1度目は2023年の2月から3月、2度目は2023年10月から2024年5月に滞在した。今回は連載「はじめてのフィールドワーク」の第1回目として、私がバルパック村に初めて辿り着くまでの思い出を振り返ってみたい。
私の研究について最もよく聞かれる質問は「なぜこの言語を選んだのか」である。言語学を専門とする人からも、そうでない人からも、よく同じ質問を受ける。特定の言語を扱う研究者にとってはお馴染みの話題だと思う。
これに対する答えは、一言で言うならば山が好きだからだ。言語学者に対しては、ヒマラヤ地域の証拠性に興味を持ったとか、声調発生論に興味があるとか言って見栄を張りたくなることもあるが、登山が好きでヒマラヤ山脈に憧れを抱いていたというのが本当のところである。著名な(フィールド)言語学者であるR. M. W. Dixonは「新しくて魅力的な言語のフィールドワークを行うときの知的な喜びや興奮は、(現地での)身体的な不快さや苦労を補って余りある」(Dixon 2010: 315) と述べている。とはいえ長期滞在を必要とする言語学フィールドワークでは、生活環境への適合はやはり大事な要因になると思う。私は山が好きで、北海道出身ゆえ寒さにも比較的強い。そのため、ヒマラヤ地域は私にとって相性のよいフィールドだった。実際、村での暮らしは日本の都市生活より快適だと感じることさえある。そんな動機で言語を選んだ私は、初渡航時、景色への期待で胸が高鳴っていた。
初めてのネパール渡航
私が初めてネパールに渡航したのは、2023年2月9日である。この日は、所属する東京大学言語学研究室の修士論文口頭試問および博士課程入試が行われた日でもあった。感染症が収まりつつあり、ようやく海外フィールドワークに出られることが待ち遠しかった。私はネパール行きのバックパックを二つ背負って試問と入試に臨み、その足で本郷三丁目駅から羽田空港へ向かった。
初回のネパール渡航の出だしは必ずしも順調ではなかった。羽田空港からはクアラルンプール行きのマレーシア航空便に乗った。第一のハプニングは、この飛行機が遅延したことである。その結果、乗り換え時間が一時間未満になってしまったと記憶している。クアラルンプール国際空港は複雑な構造をしており、初めて利用した私は、乗り換え便の搭乗口がどこにあるか分からず焦っていた。調査機材とパソコンで重いバックパックを背負いながらターミナル内を走り回って、どうにかカトマンズ行きの搭乗口に辿り着いた。このとき、自分の焦る気持ちともに、何か嫌な予感がしていたのであった。ともあれ、初めてのネパールがもう間もなくであることに心を躍らせて機体に乗り込んだ。
第二のハプニングは、ネパールに到着して、首都カトマンズのトリブバン国際空港で起こった。預けていた荷物がなくなったのである。空港の手荷物ターンテーブルで待っていても、いっこうに自分の荷物が流れてこなかった。初めての国での予想外の出来事に途方に暮れていると、日本から同便で来ていたネパール人の兄妹も同じ状況だった。どうやら短い乗り継ぎが短くなったため、クアラルンプールで荷物の積み込みが間に合わなかったらしい。ネパール人兄妹が係員に経緯を伝えてくれて、深夜にクアラルンプールから到着する便で荷物を運んでもらうことになった。到着した時点では昼過ぎだったと記憶しているが、深夜にまた空港に来なくてはいけなくなった。それでも、フィールドワークに必要な荷物が無事に戻ってくることがわかり一安心した。その後、あの時の兄妹にお礼を伝えたいと思ったが、連絡先も名前も聞いていなかったため、それ以来会えていない。
こんなハプニングから始まった私のネパール渡航であったが、到着してすぐに難なく調査を始めることができたのは幾人かの助けがあったからである。まず、先ほどの日本から同じ便できたネパール人兄妹である。そして何より、その後も何度もネパールでお世話になることになるアスマン・プンさんの存在が大きい。彼は東京のネパールレストランで働く母をもつ。渡航前に偶然立ち寄った彼女の店で、ネパールに行くという話をしていたところ、彼女の息子を紹介していただいた。彼がネパール到着初日と翌日の私の面倒をほぼ全て見てくれたといっても過言ではない。ホテルの予約から、夕食、SIMカードの購入、空港とホテルの間の移動、ホテルからバス停への送迎まで。さらには、紛失した荷物を深夜に空港まで受け取りに行く時にも、彼のバイクに乗せていただいた。カトマンズでの滞在中には常に手助けをしてもらっていた。初対面の外国人にここまで親切にしてくれた彼には本当に感謝している。
調査地バルパック村へ
私の調査地であるバルパック村は比較的アクセスがいい。調査開始時にアドバイスをいただいたネパールの言語学者 Dan Raj Regmi先生からは、バルパック村に行くのは簡単だ、砂利道もあるがそんなに村に行くのはそんなに難しくないと聞いていた。
確かにネパールのほかの地域に比べたら、バルパック村は行きやすい方だと思う。バルパックへはカトマンズから毎日一便の直行バスがある。それでも所要時間は8~10時間くらいで、朝6時か7時にカトマンズのバス停を出発し、バルパックに着くのは午後4時ごろになる。道も途中からは未舗装であり、かなり揺れが激しい。片側は崖となっている部分もあり、少しでも走路がはずれると谷底に落ちかねない。テレビでしか見たことのなかったような山道だ。
2023年2月11日、初めてバルパック行きのバスに乗った私は、Regmi先生から「バルパックは行きやすい」と聞いている以外の情報をほとんど持っていなかった。南アジアでの長距離バス経験は当時スリランカのみ。修士課程ではシンハラ語を研究していたため、現地に滞在したことがある。その経験から、ネパールの長距離バスも同じようなものだろうと想像していた。
初めてのネパールでのバス体験を、スリランカでの体験と比較しながら振り返ってみたい。総じて、ネパールでの長距離バスの方がスリランカの路線バスよりも快適だと感じた。車内で常に大音量で音楽が流れている点は共通している。最も大きな違いは、スリランカの路線バスには休憩がないのに対して、ネパールのバスは何度も止まることだ。朝食休憩、昼食休憩、さらに複数回のトイレ休憩がある。もちろん何度も止まるため、そのぶん目的地に着くのには余計に時間がかかる。しかし、スリランカのバスで長時間トイレを我慢したことを思えば、この点はありがたかった。
ただし、もちろん、ネパールのバス旅にも難点はある。時間がかかることに加えて、あるいはその原因の1つともなっているのが道の悪さだ。スリランカでは未舗装の道はほとんど経験しなかったが、ネパールではバルパック村に近づくと道が砂利道になり、凹凸が激しい区間が続く。バルパック村までの車道ができたのもここ20年くらいのことなので、バスで行けるということ自体に感謝しなければならないが、ネパールのバス旅について考えると悪路は難点として挙げられる。砂埃が車内に入り込んでくるためネパールでバスに乗車する際にはマスクが必須である。ネパール人も車内ではマスクをしている人が多い。
さらに村に近づくと道はますます悪くなる。バルパックは比較的標高が高く、最後は谷底から登り上がる道だ。ここが道中で最も悪路であり、窓から外を見れば崖である。急カーブのため、何度か切り返してやっと曲がることができるような道もある。運転にミスがあれば谷底へ真っ逆さまだと思うと緊張する。
バルパック村に近づくにつれて悪くなる道とは裏腹に、当時の私の心はむしろ昂っていた。標高が上がるにつれて低くなる気温。寒いところが好きな私はそれに比例して気分が高揚した。さらに村に近くなると、農作業などをしていた村人も乗り込んでくる(短距離は無料らしく、のちに私も無賃で乗せてもらった)。村人が乗り込んできたバスの車内はどんどん賑やかになった。そこではじめてこの村で話されるガレ語を聞くことができた。もちろん車内にはガレ語話者がカトマンズから乗っていたはずだが、ガレ語を認識できたのはこの時だった。村が近いという興奮と重なって、初めてガレ語を聞いた時の感動は今でも忘れられない。ガレ語はネパール語と異なり、音の高低が意味の違いに寄与する声調言語であり、村人が話しているのを聞くと「とても綺麗な言語だな」という第一印象を抱いた。
バルパックに到着すると、さらに村からの景色に圧倒された。村からはブッダ・ヒマールという山が眺望できる。私がそれまで見たどの山よりも大きく、ヒマラヤのスケールを実感した。訪れたのが空気の澄む2月だったことも幸いしたのだろう。雄大な景色と美しい言語との出会いが、これから始まるフィールド調査への期待をいっそう高めた。
おわりに
このようにして私はバルパック村に辿り着き、フィールドワークをはじめた。そこで、言語面でも文化面でも、そして人生経験としても多くのことを学ぶこととなった。話者から言語を聞き取り記述すること、村の伝統儀式、さまざまな人との接し方、洗濯機を使わずに洗濯をすること。そして、異国に親戚のように定期的に電話をする人たちができた。フィールドワークを始めた日のワクワクは今も続いている。これからも、言語調査は驚きと学びを運んでくれることだろう。
参考文献
Dixon, Robert M. W. 2010. Basic Linguistic Theory, Vol. 1: Methodology. Oxford: Oxford University Press.
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- 2025年10月31日 『「はじめてのフィールドワーク」が始まります。ネパール、中国、エチオピア、パプアニューギニア』
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9月から4回にわたり、手話言語学についての新しい知見をわかりやすく論じてくださった松田俊介先生、どうもありがとうございました。
さて、11月からは東京大学の長屋尚典先生のご企画による4回の連載「はじめてのフィールドワーク」が始まります。ネパール、中国、エチオピア、パプアニューギニア、と普段なかなか行けない各地でフィールドワークをしている大学院生の体験に基づくフレッシュな記事にご期待ください。担当者は以下の予定です。
1. 吉田樹生 11月4日
2. 周杜海 11月18日
3. 上野瞭太 12月2日
4. 古川智康 12月16日

ネパールの地図
初日の夜ごはん
バルパック村行きのバス
村へと続く道
バルパック村
村から望むヒマヤラの山