日本語のふしぎ発見(kotoba news)
kotobaに関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2021年03月30日 『「日本語のふしぎ発見!」 終了と「リベラルアーツ言語学双書シリーズ」の紹介 岸本秀樹(神戸大学)』
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『日本語のふしぎ発見! ―日常のことばに隠された秘密―』 (リベラルアーツコトバ双書1) ISBN978-4-910292-01-4 定価 1100円(税込)
はウェブ掲載の12回に更に12回をくわえ、加筆・修正して新書になりました。書店やオンライン書店から購入できます。ウェブ掲載は現在3回分が読めますのでなかみ紹介としてご覧ください。(2023年3月18日 編集部)
「日本語のふしぎ発見!」のウェブでの連載は、先週の12回目で(一応)終了となりました。エッセイに書くことは前もってだいたい決めていたのですが、毎週1回アップされるのは、思いのほか、きついことがわかりました。試行錯誤もあったのでいろいろと苦労した点もあります。エッセイを書く際には、できるだけ日常の出来事や自分自身の体験・経験につなげたうえで、言語学で扱う言語現象の一部をわかりやすく説明することを念頭においていましたが、いかがでしたでしょうか。エッセイをお楽しみいただけたなら、たいへんうれしく思います。また、エッセイはこれで完結ではなく、続きを含めて本の形でまとめることになっていますので、このようにしたらどうかとか、こんな話が読んでみたいなどのコメントなどもいただければ大変ありがたく思います。(コメントはこちらに)https://twitter.com/KishimotoLit
今回のエッセイの連載を終えるにあたり、エッセイと関係する「リベラルアーツ言語学双書シリーズ」の簡単な紹介をしたいと思います。リベラルアーツ言語学双書では、日本語教師や言語に興味を持つ一般の社会人などを対象に、専門家が日本語において観察される言語現象がどのようなことばの法則(あるいは原理)に従って生じるのかをわかりやすくかつコンパクトに解説します。言語学は、通常、大学レベル以上の専門教育でしか教えられていないこともあり、その考え方や知見はあまり知られていませんので、言語学双書では、こんな見方や考え方もあるのかということをお伝えできればと思います。言語学には、形態論・語彙論、文法論・統語論、意味論、語用論、音韻論、音声学など、核になる部門に限ったとしても、さまざまな分野があります。今回連載した「日本語のふしぎ発見!」では、主に、語彙論・形態論、文法論・統語論に関するエッセイでした。語彙論・形態論では、語彙の意味・音・形を扱います。例えば、2の「『屋』と『家』」、5の「号令」、10の「複数接辞『ども』」がこの分野の話に入ります。文法論・統語論は、文レベルの文法(規則)を扱い、例えば、3の「ゾウさん構文」、4の「山積み構文」、6の「『審査する』構文」、8の「感情構文」の扱いがこの分野の話に相当します。
「日本語のふしぎ発見!」は、一話完結のアラカルト方式のエッセイでしたが、言語学双書では、言語学のいろいろな分野のことばに対する見方・考え方が、時に筆者の最新の研究結果も交えながら、もう少し体系的な形でわかりやすく説明されます。私たちの頭の中にある文法に関する知識は、一般に、特定の言語に限られるものではないと考えられています。言語学双書では、日本語の解説が中心になりますが、時には、英語やその他の外国語との比較もおこなわれ、日本語と外国語の違いがどのような背景、どのような理由で生まれるかなども解説されます。ことばの規則・体系がこうなっているということがわかっていれば、外国語を母語にしている人に日本語を教える時のみならず、自らが外国語に触れる機会などにおいても、新たな視点からことばに関する発見をすることができ、ことばに対する興味を一層ひきたてることになると思います。
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- 2021年03月23日 『日本語のふしぎ発見!12. 高速道路を車で移動する旅と動詞分類の思いがけない接点 岸本秀樹(神戸大学)』
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もう随分前のことになるが、学生時代に西海岸から中西部にかけてアメリカ大陸をほぼ半分ほど車で2週間ぐらいかけて回ったことがある。だいたいの行程は、まず、ロサンゼルスからほぼ北北東に向かい、(ポテトで有名な)アイダホに行き、そこから東に向きを変えて、(大統領の顔が山に彫られているマウントラッシュモアのある)サウスダコタまで行き、ロッキー山脈の東側を南下、コロラド・ニューメキシコ・アリゾナ・ユタの4州が交わる点を通過し、西に方向を変え、ロサンゼルスに戻るというものであった。
このルートは、基本的に、出発点のロサンゼルス以外に大都市はない。なぜ、こんなルートを選んだのかと言うと、古きよきアメリカが残っていて、かつ、大自然を堪能できる国立公園がいくつもあったからである。ルート沿いにある国立公園の代表的なものは、(間欠泉がある)イエローストーン、ロッキーマウンテン、グランドキャニオン、モニュメントバレーなどである。それ以外にも、木の切り株みたいな不思議な形をした岩山のデビルズタワーも訪れていた。当時は知らなかったが、スピルバーグの映画「未知との遭遇」で宇宙船が降り立った場所である。(岩山の麓から、上を眺めると絶景であった。だいぶ長い時間見上げていたように思う。当然のことながら、宇宙船は現れなかった。)
旅のルートの目玉になるポイントは、(運転するのにはとても快適な)フリーウェイと呼ばれる高速道路でつながっている。途中、地平線までまっすぐに伸びる平原の中の道をひたすら車を運転することもしばしばであった。このような情景は、(1)のように表現することがある。
(1) 高速道路が平原を走っている。
(1)の文で興味深いのは、動詞は「走る」であるが、主語は「高速道路」である点である。「走る」は、通常、走ることができる人間や動物を主語にとる。しかし、(1)では、実際には走ることができない道路が主語となっている。
もちろん、実際に、「高速道路」が走るわけではなく、(1)では、あたかも走っている(移動している)ように見立てた視点から、道路の状態についての記述がなされている。このような移動表現は時に虚構移動(fictive motion)と呼ばれる。SFの世界なら、実際に走っている道路を想像することができるかもしれない。想像するとしたら、妖怪の「ぬりかべ」が走っていくような感じで、道路が手足を動かしながら走っている情景が思い浮かぶのではないかと思う。
ところで、(1)のような表現が可能になるには、いくつかの制約がある。まず、動詞は、「走る」が使用可能であるが、「歩く」や「這う」は使用できない。
(2) *高速道路が平原を{歩いている/這っている}。
「歩く」や「這う」は、速度が速くないというイメージがあるので、車が疾走する「高速道路」を記述できないとも考えられるかもしれない。しかし、速度は問題ではない。例えば、「走っている」を「走り込む」に変えて「*高速道路が平原を走り込んでいる」としてもよくならないし、「駆ける」を使って「*高速道路が平原を駆けている」としてもあまりよくならない。
さらに、「走る」の虚構移動の表現が適格になるには、「ている」が付いている必要がある。そのため、「走る」が単純形で現れる(3)はおかしく感じられる。
(3) *高速道路が平原を{走った/走る}。
(3)の動詞は非過去形(「走る」)でも過去形(「走った」)でもだめであるが、「ている」が付いていれば、「高速道路が走っている」でも「高速道路が走っていた」でも問題ない。
日本語には、文末で「ている」と一緒に現れなければならない動詞がいくつかある。それは、「優れる」「ありふれる」「似る」などである。それ以外でも(奇妙なという意味の)「変わる」では、(4)に見られるような文法性の対比が観察される。
(4) この岩山の形は{変わっている/*変わる}。
(4)の「変わる」のように、文末で「ている」が付かなければいけない動詞は、「第四種の動詞」と呼ばれている。これは、国語学者の金田一春彦博士が、アスペクト特性から、日本語の動詞を4つに分類したものに基づく。その4つの動詞とは、継続動詞・瞬間動詞・状態動詞・第四種の動詞で、(4)の「変わる」は、最後のタイプに属すのである。4つめの「第四種の動詞」は、いい名前が思いつかなかったため、金田一博士がそう名付けたのである。しかし、「未知との遭遇」は、英語のタイトルはClose Encounter of the Third Kindで、本来なら「第三種接近遭遇」となるはずであることを考えると、今ならこの動詞には「未知との遭遇」動詞という、なかなかナイスな名前を付けられるのではないかと思う。
虚構移動を表す「走る」は、「ばかげる」と似た特性を持っているので、第四種の動詞のクラスに入れてもよさそうに思えるが、実際には、このクラスの動詞には入らないとする方がよいであろう。第四種の動詞の特徴として、文末では「ている」が必要であるものの、名詞修飾節内に現れると「ている」が必要なくなるということが挙げられる。
(5){ばかげた/ばかげている/*ばかげる}考え
第四種動詞の「ばかげる」の場合には、「ている」が付いてもよいが、「ばかげた」という単純形も可能である。同様に、虚構移動を表す「走る」も名詞修飾節内に現れた場合には、「ている」は必ずしも必要ではなくなるが、分布が異なる。
(6) 平原を{走っている/走る/*走った}高速道路
名詞修飾節内において「走る」は「ている」と共起してよい。また,「走る」も容認されるが、「走った」が現れるとおかしくなる。「ばかげる」ならば、「*ばかげる考え」という表現はおかしいので、虚構移動の「走る」が名詞修飾節の中で示すパターンは異なる。このように、「走る」は、変わった動詞であるため、第四種の動詞とは言えなさそうである。
アメリカ大陸のような大きな陸地を車で移動するのは結構大変で、まっすぐな道を何時間も進む時には、眠くなることもしばしばであった。旅行中は、車をぶっとばしてフリーウェーを走っていたのであるが、実際には、行程を決めていない分、時間はゆったり流れていた。かくして時が経ち、今はと言えば、仕事や授業そしていろいろな締め切りに追われて余裕もあまりなくなり、好きな時にドライブできる車から走りつづけていないと倒れてしまう自転車に乗り換えて、自転車操業を続けている。
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- 2021年03月16日 『日本語のふしぎ発見!11. 身につけるものを場面によってかっこよく使いわけるセンス 岸本秀樹(神戸大学)』
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世の中の女性は、ファッションに気をつかう人が多いようである。いろいろなものを身につけることは、楽しみでもある。身につけるものについては、衣服であったり、アクセサリーであったりする。私は、ファッションなどまったく興味がないのであるが、私の妻も着ているものは気になるようである。服を買ってきたら似合うかとか、出かける時に着ていく服がどんな感じなのか、時々、感想や意見を求められる。しかし、気に入った返事ができない(つまり、センスのない返事しかできない)。そして、そんな時には、大抵そうなってしまうのであるが、妻は「聞く人が悪かった」と怒って向こうに行ってしまう。聞く人が悪いことは、前からわかっていて、ことさら言うことではないはずであるのだが、私はどうもうまくできない。
日本語には、着用の表現が豊富である。身につけるもの、身につける場所、身につけ方によっても動詞が変わってきたりして、ファッションに興味のない私でも実に興味深く感じられる。
(1) a. 帽子をかぶる
b. ズボンをはく
c. 着物を着る
(1)に現れている動詞は、すべて衣服などを身につける際に用いられるが、それぞれの動詞がとることができる目的語が異なる。「かぶる」には頭部や顔面を隠す、「はく」には足に通して身につける、「着る」には全身や上半身を覆うという意味があるからである。
着衣の表現は、本来的な意味から少しずれて使われることがある。成人式などで、よく「着物の着付けをする」という表現を聞いたり、「着物の着付け教室」という講座があるという話を聞いたりする。「着物(きもの)」は、本来は「着る物」ということである。しかし、今日では、「着物」は「和服」を指すように意味の範囲が狭くなっている。「着物」を本来の意味にとると、「着付け」は「体裁よく着物を着せる」ということである。そうすると、成人式に合わせて「着物の着付け」をするという宣伝を見たら、当日、赤ちゃん用のパジャマ、戦国時代の鎧甲冑、テレビのロケで使ったウルトラマンの着ぐるみ衣装などを持っていっても体裁よく着せてもらえるはずである。しかし、実際のところは、そんなものを持っていっても、「そんなことをしていません」と断られるのがオチであろう。
1個の動詞を用いて多彩な着用の表現をつくることもある。「する」は、一般的な活動の意味を表す動詞とされるが、身につけるものを目的語にとることもできる。
(2) 彼はネクタイをしている。
「ネクタイ」の他に、「イヤリング」「ネックレス」「指輪」「手袋」「ベルト」「(老)眼鏡」(「サングラス」「コンタクトレンズ」)「はちまき」「レッグウオーマー」「ふんどし」「オムツ」「マスク」などである。しかし、その一方で、「する」の目的語としてとることができない着用物もある。例えば、「*背広をする」という表現はおかしく感じる。また、「スーツ」「パジャマ」「パンツ」「ズボン」「ブーツ」「運動靴」「下着」「靴下」「タイツ」「帽子」なども「する」とは相性が悪い。私たちは、このように「する」の目的語として使用できるものをかなり正確に判断することができる。一般的に、日常的に着る目的に使用する、いわゆる衣料は、「する」の目的語とはならないようである。
身につけるもの以外にも「する」の目的語として現れるものがある。これは、「目」「耳」「髪」などの身体部分で、例えば、身体部分は、(3)のように表現することができる。
(3) 徹夜で彼は赤い目をしていた。
衣服のように簡単に着脱できるものとの所有関係は分離可能所有と呼ばれ、「目」や「口」のような身体部分との所有関係は分離不可能所有と呼ばれる。(2) と(3)からわかるように、これらの関係は、同じ「する」を用いて表現することができるのである。
(3)は、(2)と同じ動詞を使用するが、(2)とは異なり、形容詞のような名詞を修飾する表現が必要である。したがって、「目」だけが単独で現れる(4)は非文法的である。
(4) *彼は目をしていた。
それでは、「する」の目的語が「目」だとなぜ非文法的になるのであろうか。実は、このことについてはなぜそうであるかはわかってはいない。しかし、(時々、少し意地悪をして)授業を聞いている学生にクイズとして問いかけることがある。
学生がすぐに思いつく1つの可能な答えとしては、「目」はもともと人間に備わっているものであるからというものである。つまり、「する」で、単に「目」だけを所有すると表現すると、意味がないと言うのである。なかなかおもしろい答えではある。しかし、(5)のような表現を考えてみると、これが必ずしも正答ではないということは簡単にわかる。
(5) *先生は髭をしている。
「髭」は、すべての人間が持っているとは限らない。もし、上の答えが正しいとすると、「髭」が単独で「する」の目的語に現れてもいいはずである。しかし、実際には (5)は非文法的である。
ただし、これでがっかりする必要はない。学生が出した答えは、少なくとも、分離可能所有を表す「する」には当てはまる。例えば、「服装」や「身なり」などの表現は (6)のような文法性の対立が観察される。
(6) a. 彼は{適切な服装/正装}をしている。
b. *彼は服装をしている。
「服装」は、「適切な」のような修飾語が伴えば、適格な文となる。また、修飾語がなくても「正装」のような表現であれば適格になる。しかし、単独で「服装」が「する」の目的語となる(6b)は奇妙である。これは、人間は、なんらかの服を着ているはずだからである。そのため、(6b)は、そのままだとおかしく感じられるのである。
ここまで見てきた着用動詞(「はく」「かぶる」「着る」)と「する」は、その制約の性質がだいぶ異なる。「する」については、目的語との組み合わせが文法的に制限されている。しかし、「はく」「かぶる」「着る」は、着用の仕方が意味的に指定されているだけである。この場合、組み合わせが適正でない「ズボンをかぶる」「帽子をはく」「靴下を着る」はおかしく感じられる。しかし、奇妙ではあっても、やってやれないことはない。ただ、そのような格好で堂々と街中にくり出すと、通行人からジロジロ見られたり、おまわりさんから「ちょっと、あなた何をしているんですか?」と職務質問されたりすることになる。
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- 2021年03月09日 『日本語のふしぎ発見! 10. 日本語ではどのようにして複数を指定するのか? 岸本秀樹(神戸大学)』
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10. 日本語ではどのようにして複数を指定するのか?
私たちが何かをしようとすると、個人(1人)と団体(複数人の集団)が区別されることがある。旅行には個人旅行と団体旅行がある。また、美術館・博物館の入場には、個人ごとに入場券を買う一般に加えて団体割引があったりする。私はどちらかというと個人で行動することが多く、旅行はほとんど個人旅行である。美術館・博物館も一般で入るが、見るものが同じなのに、一般・団体の区別があるために、いつもなんとなく損をした気分になる。
スポーツも個人競技や団体競技がある。個人競技は1人が単位となるが、実際には、柔道のように相手があってぶつかって対戦するものや、フィギュアスケートのように単独で競技して点数を争うものがある。団体競技でも、ラグビーのように集団でぶつかりあうものもあれば、スキーのジャンプのように単独で競技して点数を足していくものもある。それぞれの競技の特性があるので、練習方法も競技によって変わってくる。バレーボールは、向かいあってお互いにボールをトスして練習をしたりする。しかし、アーチェリーでは、そんなことは危なくてできない。やったとしたら、練習相手は、矢が当たらないように逃げ回らなくてはならない。
人間がおこなう複雑な行為は1人が単位になるか複数が単位になるかで認識が異なってくる。これはことばに関しても同じである。というわけで、今回は、単数・複数の区別する表現について考えてみたい。とは言いつつも、日本語においては、単数と複数の区別はあまりしない。例えば、「昨日、お客さんが来た」という文の「お客さん」は1人なのか複数の人なのかはわからない。英語なら、A guest came yesterday.とGuests came yesterday.のように、名詞の単数・複数を文法的に決めないといけないので、1人来たのか複数人来たのかがすぐにわかる。
日本語は単数・複数の区別をあまりしないとは言え、日本語にも文法的に複数を表す方法はある。「ども」「たち」「ら」のような接辞は「複数」を表し、このような接辞を名詞に付けることによって1と2以上の数を区別することができるのである。
(1) 先生たちが職員室にいるのが見える。
(1)の「先生たち」は、複数の先生がいることが含意されるが、単に「先生」だと、先生は1人であっても複数人いてもよい。
ここで、単数と複数の線引きが1と2の間と言っているのは、自然数(natural number)のことなので、間に入る数字はない。しかし、自然数でなければ、1と2の間には、1.2, 1.5, 1.7などの端数(fraction)が発生することがある。そうすると、そのような場合はどうなるかという問題が出てくるが、単数・複数の区別が意味に基づいて決められているのであれば、答えは簡単である。例えば、誰かが職員室を外から見ていて、先生がまるまる1人ともう1人の先生の右半身だけ見えている(つまり、1.5人の先生が見えている)状態で、(1)のように言っても正しいことを言っていると判断できる。つまり、「先生」が複数であるには、1を少しでも超えていればいいのであって、端数は繰り上げるのである。数字の計算では、繰り下げや四捨五入することも多いが、私たちのことばでそのようなことはしない。特に、単数・複数の判断をする際に、四捨五入をしてしまうとややこしくてやっていられない。
「ども」は、基本的に「たち」と同じように複数を表すが、生産性はそれほど高くない。そのため、ちょっと昔のものになるが、松尾芭蕉の「奥の細道」の俳句をあげておく。
(2) 夏草や兵どもが夢の跡
私は、(2)の俳句を鑑賞しようとしているわけではない(実際のところは、文学のセンスがないので鑑賞できない)。ここでは、単に、(2)の中に現れる「兵ども」の「ども」が複数を表していることを言いたいだけである。複数を表す「ども」は、「先生」のような語には付きにくい(「*先生ども」)。謙遜の意味があるので、「私ども」のように身内を表す表現に付きやすい。
時代劇でよく「子分ども、やっちまえ」って親分が叫ぶシーンを見るが、「子分ども」と言うには、やはり複数の「子分」がいることが必要になる。子分が1人しかいないと、困惑した子分が「子分は1人しかいないんですけど〜」と親分に訴えそうである。「ども」は、「子ども」の「子」の後にも付いている。したがって、「子ども」は本来、「子」に「ども」が付いた複数表現であるが、今では、複数の意味はなくなっている(ただし、公的な文書では、曖昧さを避けるため、1人なら「〜の子」というように「ども」が付かない「子」が使われるようである)。そのため、形態上は、二重に複数のマーカーが付いている「子どもたちが行きます」のような表現も許容される。「ども」が複数の意味を保持している表現では、「*子分どもたち」のように、複数を表す「たち」をさらに付けることができない。
興味深いことに、複数を表す接辞の「たち」は、(3)のように、1人しかいないと考えられる固有名詞にも付けることができる。
(3) サッちゃんたちが校庭で遊んでいるのが見える。
英語でも固有名詞をJohns(John+複数のs)のように複数形にすることができる。Johnを複数形にするとJohnが複数人存在する必要がある。しかし、日本語では、「サッちゃん」と呼ばれる小学生の子どもが1人しかいなくても、友だちなどと一緒であれば適正に複数と解釈される文となる。つまり、「サッちゃん」自体は複数でなくてもよいのである。この場合の複数は、厳密な意味の複数ではなく、複数のマーカーが付いた名詞に加え、関係して想起できるものを含めて複数とみなしている。そのような方式で認定された複数は、想起複数(associative plural)と言われる。
想起複数が(3)に対して可能な唯一の複数認定法ではない。もちろん、「サッちゃん」が複数人いれば、(3)は問題なく容認される。その場合、例えば、小学生の「サッちゃん」は、忍者のように分身の術(忍術)を使って、分身を何人もつくり、分身とともに、忍術小学校の校庭で、手裏剣を投げたり、水遁の術や変わり身の術などを駆使したりして、ワイワイ楽しく遊び回っているということになるであろう。想像するだけでうらやましいし、私も子どもに戻ってやってみたい(ちなみに、ここの「子ども」は単数)。特に、(3) の忍者の「サッちゃん」のように、私も忍者になって分身の術を自由に使ってみたいと思う。