《第98問》
第二次教育使節団報告書は「社会教育」のなかで、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である」と述べている。この背景にある社会情勢と最も関係の薄いのはどれか。
正解
不正解
- 東西の冷戦構造
- 右翼陣営からの陳情
- 朝鮮戦争の勃発
- 東西の冷戦構造
- 右翼陣営からの陳情
- 朝鮮戦争の勃発
- 解説
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第二次教育使節団は、第一次使節団の報告書提出から4年半後にあたる1950年8月27日に来日した。時あたかも朝鮮戦争のただ中である。このとき南原繁教育刷新審議会長は、天野貞祐文相とともに、使節団を歓迎する挨拶を行った。そのなかで南原は、「時たまたま、われわれの身近く、アジアの一角に起こった予期せざる事変のただ中に、諸君をこの地に迎えることは、諸君とともにわれわれの遺憾とするところであります。(中略)現在われわれの行手に立ち現れている二つの脅威があります。その一つが共産主義であることは、申すまでもありますまい、それに劣らず、いま一つは、その反動として再びファシズム勢力たい頭の危険であるのであります。(中略)もしそれ、共産主義との対決において、これを克服しうるものは、究極において、より高い人間性理想と精神であり、それをなのり育てるものこそが、真の意味の教育でありましょう」(『文部時報』第八七八号、1950年11月号)と述べている。南原は第一次使節団に対応した日本側教育家委員会長であった。ちなみに、同委員会は、1946年8月に総理大臣所轄の教育刷新委員会(委員長安倍能成、1947年11月以降は南原繁)となり、1949年6月に教育刷新審議会となった。
ギブンス団長は、団員を代表してマッカーサー元帥にあてた1950年9月22日付の手紙のなかで、「わたくしどもは日本の民主化が、アジアおよび世界にとって、第二次大戦よりもさらに重大なことでありうるという貴官の御意見に賛同するものであります」と述べている。
第二次使節団来日前年の1949年10月1日には中華人民共和国が建国された。国内では教育界のレッドパージが始まっており、CI&E高等教育顧問のイールズ博士(Dr. Walter C. Eells)は、各地の大学でイールズ旋風ともいわれた反共演説をつづけていた。イールズの動きはマッカーサーの承認のもとで行われたという。彼は共産主義者の教授と学生は大学から追放されるべきと主張していた人物だが、1950年8月31日、使節団員に「日本の高等教育」のテーマで講義を行った。
重要性に鑑み当時の背景を一瞥しておこう。既に1947年3月12日に、トルーマン米大統領は「世界の自由国家は全体主義の直接、間接の侵略によっておびやかされている。これが世界の平和をみだし、アメリカの安全をさまたげている」との共産主義封じ込め政策「トルーマン・ドクトリン」を発表している。ソ連はこれに対抗して同年10月にコミンンフォルム(Cominform)を結成した。実質的な冷戦(Cold War)の始まりである。ソ連は1948年1月に米国・英国・中華民国に対日講和の促進を求めたが、同月には、米国陸軍長官ロイヤルが「日本を極東における全体主義の防壁にする」との演説を行った。1950年8月には、ポツダム政令「警察予備隊令」により警察予備隊(後の保安隊、現在の陸上自衛隊に改組発展)が設置された。ダレス米国務長官が、対日個別講和条約締結の意向を言明したのは1951年1月であった。1948年ころから、米国の占領施策の「政策の手なおし」(「逆コース」「ギヤのチェンジ」とも)が始まり、それは冷戦と関係づけられるところが多い。しかし、米国の、日本は米国陣営に入れるとの立場からすれば、一貫して連続性がある。その意味では「かりに冷戦がなくても『逆コース』は起こりえたのである」(編者坂本義和、R・E・ウォード『日本占領の研究』東京大学出版会、1987年、37頁)は正鵠を射ていよう。「この逆コースは、『レッド・パージ』が軍国主義者・超国家主義者の追放解除と時を同じくしたことによって強調された。(中略)占領軍がもはや日本の民主化には関心を失ってしまい、国際間の冷戦だけを考えているという印象を与え」たのである」(同上、4頁)との観方もある。
上記を考えれば、第一次教育使節団報告書が1946年3月に提出され、戦後教育改革が主に1947年から実施されたのは幸いであったといえよう。