リベラルアーツ子ども検定クイズ占領期米国教育使節団 > 2017年10月26日更新分(1/1)

《第75問》
第一次教育使節団報告書は日本の教育の大本である教育勅語を否定したが、使節団来日(1946年3月)前の2月2日には、ダイクCI&E局長が文部大臣に新教育勅語の作成を要請するという動きもあった。このとき話題になった新教育勅語の通称はどれか

正解

不正解

解説

1946年2月2日、ダイク局長は安倍能成文部大臣と会談し、従来の教育勅語に代わる新たな文書の作成を要請した。これがいわゆる「安倍勅語」構想である。「京都勅語」と呼ばれるのは、米第六軍軍政部のシェフリ中佐の提案で作成された有賀鉄太郎教授(同志社大、のち京大)によるもので、和英両文が用意された。1945年12月2日に京都のシェフリ中佐からダイク局長に送付されてきたことが記録に残っている。「天野勅語」というのは1951年に当時の天野貞祐文相が発表した「国民実践要領」のことである(書籍として発行されたのは文相辞任後の1953年3月)。これは中央教育審議会が1966年10月に答申した「期待される人間像」に反映されている(『教育のあゆみ』288~294頁、422頁。教育勅語と京都勅語の全文が載っている)。天野文相は、就任前、教育勅語は否定していたが、道徳教育の必要性を強く唱えていた。CI&Eは教育勅語を概して肯定的にみたが、軍国主義者に誤用された等と認識していた。

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