リベラルアーツ子ども検定クイズ占領期米国教育使節団 > 2017年09月14日更新分(1/1)

《第69問》
第一次教育使節団報告書は、戦前の高等教育が一部の特権的な層と大衆の層、官学と私学の間、男子と女子の間に在った構造的な溝を是正する勧告を行った。使節団は「学生団」のところで、「日本の青年男女は、その能力に基づいて、あらゆる程度の高等教育を受ける自由をもたなくてはならぬ」と述べているが、1945年8月の敗戦まで日本の女子校はどのレベルまで存在したか

正解

不正解

解説

戦前、男子と同等の教育を授ける大学令による女子大学は存在せず(「日本女子大学校」は正式の大学ではなかった)、新制の女子大学が制度的に誕生したのは1949年度である。『同志社女子大学125年』編集委員会編『同志社女子大学125年』(同志社女子大学発行、2000年)には、「女子の正規の入学を認めたのは1913年東北帝国大学、1918年北海道帝国大学に続いて、同志社大学が3番目であり、認可の翌年の1923年から実施された。」(94頁)とある。新制同志社女子大学の誕生は1949年であるが、同志社女学校の設立は英学校設立の翌年1876年である(262頁参照)。同記念誌は同大学の大島中正氏からのご恵贈によるもので、記して感謝の微意を表する。敗戦まで、日本の女子には参政権さえ付与されていなかった。CI&Eが来日する教育使節団のために作成し1946年2月15日に発行した小冊子『Education in Japan』(『日本の教育』)の「11 女子教育」には、上記の2帝国大学のほかに台北帝国大学と、いくつかの私立大学として早稲田大学と法政大学を挙げ、女子の入学を例外的に認めていたことを述べている。旧制大学は「国家ニ須要ナル」学術を教授し、「人格ノ陶冶」と「国家思想ノ涵養」を図るべきであるとされており、絶対的国家主義と結びついていた。なお、教育使節団来日以前から女子教育の改革への動きはあった。使節団報告書が提出される約4箇月前の1945年12月4日、政府は「女子教育刷新要項」を閣議諒解している。そこには「二 要項 差当リ女子ニ対スル高等教育機関ノ開放並ニ女子中等学校教科ノ男子中等学校ニ対スル平準化ヲ図リ且ツ大学教育ニ於ケル共学制ノ採用ヲ目途トシテ左ノ措置ヲナサントス 三 措置(イ)差当リ女子ノ入学ヲ阻止スル規定ヲ改廃シ女子大学ノ創設並ニ大学ニ於ケル共学制ヲ実施ス」(「戦後日本教育史料集成」編集員会編『戦後日本教育史料集成』第1巻、三一書房、128頁)とある。使節団滞在中の1946年3月21日の朝日新聞には、実現しなかったが、「門ひらく『女子帝大』東京女高師に文・理の二科を 法科は男子校を活かして」の記事が載っている(2頁)。ちなみに、米国での最初の共学制は1833年創立のOberlin Collegeであり、女子大学の草分けは1837年創立のMount Holyoke Collegeである。

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